第十五話
今回、話の流れを中途半端に切らないようにと、実に二話分に上る文字数を纏めて投稿しています。
かなり長文になっておりますので、どうぞお時間に余裕があるときにゆっくりお読みくだされば幸いです。
閲覧、ブックマーク等、いつも本当にありがとうございます。
ヨハンソンと同時に駆け出したライズは一人、ただ森の中を疾走していた。
追手が来なかったことを見るに、騎士団の者たちがうまく足止めしてくれているらしい。
ただでさえ視界の悪い森の中、馬車の車輪跡を見失わないように、しかし最速で。
あの時、サリュは人に分からない言い回しで宝の無事をライズとヨハンソンに伝えた。
──今夜の月は、綺麗ね
──満月よ。綺麗な望月。曇りのない光がもうじきその瞳を照らしてくれるの
月はカルネ。望月と曇りのない光は、カルネが傷のひとつもつけられることなく、その輝きを失っていないこと。
──麗しき女神の敬虔なる使者は、青い花の束を持っていたわ
サリュと、サリュと共に在るカルネに、危険を顧みずついてきたのがアシュリーであること。
青い花の束が指すのは、アシュリーが目を留めたあの便箋だ。
どうしてサリュがそのことを知っているのかは分からないが、アシュリーが話したのかもしれない。
きっと荷物が無くなっていることに気づいただろうから。
そして、そのアシュリーがいることを、分かる者だけに知らせるために。
──そして、女神が微睡んだ時、全てに安寧をもたらすの
サリュが突然言葉を発したのは、少しでも男たちを混乱させ、その場に留め置くためだった。
そしてサリュの体を借りた“何らかの意思”がサリュにその体を返すときが、宝とサリュを取り戻すための反撃の合図。
──敬虔なる使者は望月を携えて、貴方の戻る先に。──お進みなさい、青の君!
アシュリーがカルネを持って逃げている。ライズに追いかけろと、そう伝えたのだ。
進んでいく先の木の陰に、チカっと白い光が見えた気がした。
「…っ、アシュリー!」
木の陰に隠れるようにして、全身が土と泥で汚れてしまったアシュリーが幹に凭れている。
細かい切り傷や擦り傷は数多くあるが、痕の残るような怪我はなさそうだ。
胸元から腰のあたりまで、服にべっとりと染みついた赤黒い色にライズは一瞬青ざめたが、どうやら血ではなさそうだということに気づく。
杜撰なカモフラージュだが、この暗がりでの目くらましとしては充分だろう。
ご丁寧にも、獣除けに使われるような薬剤の匂いがかすかに残っている。
人間の嗅覚では気づきにくいその匂いも、獣のよく利く鼻には効果覿面だ。
そのおかげで、こんなところで一人凭れていても無事だったのだろう。
膝をついてそっとアシュリーの息を確かめる。
今は気を失っているだけのようだ。
投げ出された右足首には頑丈な足輪が嵌められており、繋がっている鎖を手にすると重い音を立てる。
逃げられないように拘束されていたのだろう。
これを足につけたまま逃げるのは困難だったであろうに。
足首に痕がついていないか心配だ。戻ったらすぐにこれを外して、医師に診せなければ──
アシュリーがしっかりと手に握っているのは、傷がつかぬようしっかりと布をぐるぐると巻き付けられて保護されたカルネ。
その輝きが、ほどけた布の隙間から覗いている。
気を失うまでそれを胸に抱いて隠していたのだろう。
ふいにアシュリーが身じろぎをした。
ライズが息を呑むと瞼が上がり、薄紫の双眸がゆっくりとライズを捉える。
「……ライズ、さま……?」
「アシュリー嬢!もう大丈夫だ、助けに来た。痛みはないか?」
「サリュ、さま、は…ご無事ですか……サリュさまに、宝を、託されたのです。かならず、公爵家に、届けよ、と……!」
「ああ、大丈夫だ。サリュ嬢も助かっている。…宝を、サリュ嬢から託されたと?」
「サリュ、さまは…目的があって、わざと、このような真似を、なさった、と……ですが、おじさまと、おにいさまに、迷惑をかけるわけにはいかないと…だからあの宝は絶対に、家に戻さなくてはならないのだと、そう…仰って……っ!」
言うなりけほけほと咳込むアシュリーを制して、ライズは穏やかに言い聞かせる。
「アシュリー嬢、つらいのに話してくれてありがとう。今は君の体の方が優先だ、話は後ほどゆっくり聞かせてくれ。…もうすぐ迎えが来る。アシュリー嬢、目を閉じて。私がついているから、心配しなくていい」
だが、アシュリーは苦しそうに眉を寄せて、なおも言い募ろうとする。
「ライズさま、…ライズ、さま…」
「どうした、アシュリー嬢。どこかつらいのか?」
「………せっかく頂いたもの、どこか、で、落として、しまって…ごめん、なさい…」
それだけを口に出すと、アシュリーは限界が来たかのようにまた目を閉じた。
「…宝の他に、懸命になって伝えたかったことが、それとは……全く……」
ライズはしばし面食らった後、困ったように笑ってアシュリーの頬にかかった髪を優しく払った。
「ちゃんと分かっているよ、アシュリー。心配しなくていい。──ありがとう」
馬の蹄の音と共に、ガラガラと車輪の音が近づいてくる。
ライズはアシュリーの手からそっとカルネを預かると、素早く自身の懐に仕舞った。
そしてアシュリーを抱き上げて、その場でその音を待った。
「ライズ様!」
馬に乗り先導していた騎士の後ろに、犯人たちが使用していた馬車が続いている。
馬車を運転しているのは別の騎士だ。
捕縛された犯人たちは、最後尾に連なる貨物箱に放り込まれているらしい。
騎士は自身の馬と馬車を停め、ライズに駆け寄った。
「ご無事でございましたか。…その少女は、もしや…」
「ああ、巻き込まれた娘で間違いない。意識はないが、大怪我もしていないようだ。馬車に乗せてすぐに戻り、治療をさせよう」
「かしこまりました。ヨハンソン様と公爵令嬢が乗っておりますので、ライズ様もお乗りくださいませ」
「ああ。私の馬は?」
「ご心配なく。他の騎士が連れております」
「ならばよい。急いで戻ろう」
ライズはアシュリーを抱えて馬車に乗り込んだ。
馬車がゆっくりと動き出す。
馬車に揺られているのは、ライズとアシュリー、そしてヨハンソンとサリュだけだ。
連れてきた他の騎士は、先導に一人と馬車の運転に一人、二人が貨物箱で監視し、殿が一人とそれぞれ配置されている。
アシュリーはまだ意識がなく、ライズの肩に凭れかからせるようにして座らせている。
ヨハンソンの膝にはサリュが頭を預けており、こちらも目を閉じている。
身体にはヨハンソンの上着が掛けられており、先程まで泣いていたのか、目尻が少し赤いように思えた。
ライズは自身の懐に服の上から手を当てて、ヨハンソンに告げた。
「…月は確かに使者より預かり受けたぞ。本館に戻ったら渡す」
「ありがとうございます…」
「サリュ嬢も無事でよかった。…さぞ怖かっただろう」
「いいえ、…殿下…」
いつも淀みなく話すヨハンソンが、珍しく言葉を探している。
ライズは不思議そうに首を傾げた。
「…此度の件は、父より国王陛下に内々に報告し、処遇を待つことになりましょう。……おそらく、サリュは極刑を免れません」
「何?…どういうことだ?サリュ嬢は被害者だろう。月を曇らせたことについては多少の沙汰が発生するかもしれんが…それはサリュ嬢の傷が癒えてからゆっくり事情を訊けばよい。すぐさま極刑にはなり得ない」
「いいえ。…いいえ、あの者たちが言っていた通り、サリュは拐かされてなどいなかったのです、殿下。サリュが自ら、月のことを嗅ぎつけたあの者たちと通じ、必要な馬車や薬の手配も侍女に命じて整えさせた上で、月を隠れさせ自身を攫わせたように見せたのです。…大罪を犯したとして、ヴェルハイツ公爵家から追放されるために。あわよくば、自身が処刑されるように…と…」
先程のヨハンソンと寸分違わぬ衝撃を受けたライズは、彼の語るあまりの内容に絶句した。
「……それは……なぜ…」
「私たちはサリュを誤解していました。…いいえ、そもそも誤解をすることが出来るほどサリュを顧みたことなどなかったのです。両親を亡くしたばかりの幼いサリュに、私たちは『家に引き取った以上は公爵家の令嬢にふさわしい人間であれ』と、それだけを強要した。サリュの心を思い遣ることなど一度もなく、サリュの行動に愛想を尽かし大いに失望しておきながら、それでもサリュと向き合うことをしなかった。小さなこの子は長いこと孤独に苦しみ、もがき、そして…諦めた。家の為に努力したとしても家に迷惑をかけたとしても、ついには公爵家にいようがいまいが結局何の価値もなしと、サリュは自身の存在そのものに見切りをつけてしまったのです。だからこそ此度の騒動を起こして極刑になり、両親のもとへ逝くことだけを望んだ。……先ほど、本人がそう告白しました。…私たちは、まだ10歳のこの子に、…両親を亡くしたことでこの子が負った深い傷跡に、長い年月をかけて再び大きな傷を刻んだ。この子の心はきっと壊れてしまった──壊したのは私たち公爵家の人間です」
ヨハンソンはサリュの髪を撫でて、半ば独り言のように呟いた。
「この騒動を計画の上実行し、王家までも巻き込んで各所に多大な迷惑を被らせたのはサリュです。それは覆しようのない事実です。本人もそう認めています。……ですが、サリュの心根を歪めこのような凶行に駆り立てたのは、私たちヴェルハイツ家の人間です。私と父の責任です。此度の件は、一族郎党の犯行も同然なのです」
ライズは黙ってヨハンソンの言葉に耳を傾けている。
「…父はおそらく当初の予定通り、サリュの放逐とともに公爵家当主としての責任を果たそうとします。ですが、明るみになった事実を聞けば父は躊躇いなくサリュを極刑にさせる。そしてサリュも、一切弁明せずにそれを受け入れるでしょう。……でも、罪を犯したのは決してサリュだけじゃない。サリュが悪くないとは言わない、だがサリュだけが悪い訳でも決してない。…父が聞く耳を持ってくださるかわからないが、私はサリュの処遇について嘆願したいと、そう考えています。もう遅かったのだとしても、この子の本心を覗いてしまった今、私はサリュの心をこれ以上踏みにじりたくないのです…!」
吐き出されたそれは、切実な声だった。
公爵家の人間として取るべき公の責任と、身内の事情を慮る私的な感情。
どっちかに振り切ることはもはや出来ず、どっちも掬い上げることも叶わない。
ヨハンソンは苦悩していた。
ライズは僅かに目を細めると、アシュリーを支えて自分は立ち上がり、空いた座席にそっとアシュリーの体を横たえる。
自身が羽織っていた上着をアシュリーの体にかけると、ライズは外の騎士に「いったん停めてくれ」と声を掛けた。
馬車はすぐに停まる態勢に入り、ほどなくして揺れが収まり扉が開かれる。
「…殿下?」
ヨハンソンが問うと、ライズはぱちんと器用に片目を瞑って言った。
「急用を思い出したのだ。私は馬で先に戻るから、その娘を別館に運んで治療と休養を指示しろ。その後はお前も、サリュ嬢を連れて屋敷に戻れ。明日は──もう今日か。報告だ何だと書類が飛んでくるだろうから、少しは家で休めよ」
「は、殿下?」
虚を突かれたヨハンソンには構わず、ライズは何事かと飛んできた騎士に「急用が出来た。先に王都へ戻る。供は要らぬから、令嬢方の保護と捕縛者の輸送をしっかり頼むぞ」と声を掛け、自身の馬に飛び乗ってあっという間に走り去ってしまった。
残された騎士とヨハンソンは目を白黒させるばかりである。
「…と、とにかく急ぎ出発いたします。ヴェルハイツ卿、恐れ入りますがご令嬢方をよろしくお願い申し上げます」
「あ、ああ…」
扉を閉められまた動き出した馬車の中で、ヨハンソンはふと思い至る。
「…そういえば……殿下がそのまま持って出られてしまったな、我が家の月…」
夜中、ヨハンソンに抱えられてヴェルハイツ公爵家に戻ったサリュは、玄関で公爵が待っていることに気づいた。
その後ろにはサリュの侍女たちが控えている。
あちらこちらに包帯を巻き、破れ汚れた服を纏う痛々しい姿に、侍女たちは蒼白になる。
いとけない風貌に似合わぬ切ない瞳をして、サリュはヨハンソンにそっと囁いた。
「お兄さま、下ろしてくださいませ」
ヨハンソンがサリュを下ろすと、サリュはそのまま玄関の冷たい床に跪き、公爵の前でついと頭を垂れる。
サリュは額が床につくほどの姿勢のまま、落ち着いた声で告げた。
「公爵さま。不肖の姪サリュ、恥と知りながら戻りましてございます」
「…」
「此度の件、わたくしの命をもって償う所存です。ただ死ぬだけでは生温いと仰せならば、どのような拷問も恥辱も、甘んじて受けます。…どうぞ、いかようにも沙汰をお申し付けくださいませ。命を受けるまで、わたくしはここから動きませぬ。…罪人に、これ以上この屋敷に足を踏み入れる資格はございませぬゆえ」
「サリュ!」
ヨハンソンが悲痛な声を上げる。
彼は屋敷に戻ったらまずサリュを休ませ、その間に父へサリュの処遇について嘆願するつもりだった。
だが、それより先にサリュと父が顔を合わせてしまった。
そしてサリュは自分が死を以て償うことを喜んで受け入れてしまうだろう。
「ただ、…恐れながら。ただひとつ、お願いを口にすることをお許しくださいませんか」
「…なんだ」
「ありがとうございます。わたくしの侍女たちに何ら咎はございません。全てわたくしの一存であったことを、神に誓って申し上げます。罪無き彼女たちにどうか、慈悲をお与えくださいませ」
「…お前の指示通りに馬車や薬を用意し、お前が犯した大罪の幇助を行っていたのにか?」
「彼女たちに目的は何も伝えておりません。どんな詮索も許さない、ただ言われたとおりにせよと。わたくしの命令に彼女たちは従ったのみです」
「知らなかったでは済まされん。それほどの大事だ。お前の行動を怪しみ、必要に応じて諫めるのも務めだろうが」
「侍女たちはわたくしの命令に逆らえなかったに過ぎません。わたくしが家の威を借り、従わなければ公爵家の権限で彼女たちの安寧な生活を脅かすと暗に告げ実行させました。…己の愛する家族を引き合いに出されてまで命令された彼女たちに、どうしてそれが拒めましょうか」
「…」
「それでも彼女たちに沙汰が必要であると公爵さまが仰せなら、その沙汰も全てわたくしのみが受けます。どうか、彼女たちには寛大な処置を。…切にお願い申し上げます」
公爵は頭を下げ続けるサリュをしばらく見下ろすと、やがてこう告げた。
「サリュ、部屋に戻れ。私が許可するまで部屋を出ることは一切許さん」
「……拝命いたします」
「おい、サリュを部屋へ。汚れを落として休ませろ」
「は、はい。すぐに」
サリュの発言を聞いて耳を疑い目を見開き、ぽかんと開く口元を押さえていた侍女たちは、公爵の指示に弾かれたように我に返り、サリュの元へ駆け寄り立ち上がらせて部屋へ連れていく。
サリュ達の足音が遠ざかった玄関に、再び静寂が満ちた。
ヨハンソンが口を開く前に、公爵は彼に目を向けてぴしゃりと告げる。
「ヨハンソン、お前は一緒に書斎に来い。報告しろ」
「は、はい!」
──父の書斎で、二人で向かい合って話すのはいつ振りだろうか。
そんな感傷に浸りかけて、ヨハンソンは慌てて目の前の父に向き直った。
「父上。此度の件ですが…」
が、父はそれを片手を挙げて制する。
ぐっと黙り込んだヨハンソンの前で、父はおもむろに引き出しを開けた。
「…先ほど、王太子殿下がいらしてな。月と、これを預けていかれた」
公爵が引き出しから取り出して机に置いたのは、傷も欠けもない見事なカルネと、懐中時計。
ヨハンソンは突然出てきた懐中時計を胡乱げに見つめて、それからあっと小さく声を上げた。
それは先日、ヨハンソンと部下が改良した魔道具だ。
アシュリーがサイモンを追い詰めた時に使っていた、音を記録することのできる耳飾りと同じ機能を搭載したもの。
だがあの耳飾りは女性しか身につけられないし、男性が稀に使用する耳飾りは大きさが控えめなものばかりで、内部に装置を仕込むことが出来ない──男性が持っていても違和感のないものとして機関内でもあれこれと意見を募り、試作品のひとつとして完成したのが、今目の前にある懐中時計型の音声記録装置だった。
懐中時計はたいてい懐に仕舞われる。
そういえばライズはカルネを無事に預かったとヨハンソンに報告した時、ぽんと胸を叩いていた気がする。
正確には懐を叩いたのだろう。音声記録を起動させるために。
「……やられた…」
思わず苦い顔をするヨハンソン。
父は王太子殿下から宝を預かるとともにこの懐中時計を託され、帰路での王太子殿下と自分のやり取りを聞いたのだ。
いつも堅苦しく皺の寄った顔の息子が珍しく年相応な表情を覗かせている様を見て、父は僅かに苦笑を洩らした。
「よく出来ている。お前たちの仕事ぶりにはいつも驚かされるよ」
「あ、ありがとうございます……ですが、申し訳ございません。あろうことか王太子殿下の御前で、整わぬ感情のみで言葉を発してしまいました」
「恥ずべき失態だぞ──と言いたいところだが、正直助かった。…サリュは私に本音など話すつもりもなかったであろうし、ここで話を求めたとしても口を割らず、ただ極刑だけを待っていたに違いない。それに私も言い訳を一切許さず、極刑が妥当だと決定を覆さなかっただろう。……サリュにここまでのことをさせる程の決定打を放ったのは、私たちの方だったのだろうな」
「父上…」
「殿下によれば、サリュを追って一緒に捕らえられていた娘がいたらしいな。その者が言うには、『サリュ様は目的があって自ら宝を持ち出した。だがその宝は公爵家のために──叔父と兄のために必ず傷一つなく返さねばならぬと仰った。故に御身を囮にして私を逃がし、公爵家に必ず届けるようにと宝を持たせた』と証言したというではないか。殿下はそう仰った後で、『他ならぬ私が聞き届けた証言だ。後は頼むぞ』と念を押してこられたよ」
「…殿下が…」
王太子殿下はヨハンソンよりも先に公爵に口添えをしてくれていたらしい。
後日御礼を申し上げねば…と考え込むヨハンソンの前で、公爵は可笑しさをこらえ切れないといったように笑った。
「まったく、全てがサリュの手の上だったとはな。そこまでの謀を計画し実行にこぎつける才覚は私の弟譲りだ」
「…叔父上の?」
「ああ。昔から悪戯好きでな、子供時代も成人してからもよく掌で踊らされた。……サリュは間違いなく公爵家にふさわしい器量を持っているし、身につけている。だが、そこに至るまでの土台となるべき愛情を、私たちはサリュに与えていなかった。サリュの心は弟夫妻が死んだあの時から、成長を妨げられていたんだろう。だが、…土台が頗る不安定であったにもかかわらずあれだけの才覚を発揮する娘だ。土台を固めた後が楽しみだな」
「では、サリュは」
「しばらくは謹慎だ。しでかしたことの大きさは改めて思い知らせる。…その期間は家で、私と、お前と、ここの使用人と。改めてサリュの心に必要な土台を固める。お前も、なるべく気にかけてやってくれ」
「仰せの通りに。…父上、ありがとうございます」
夜は更に深くなる。
全てが寝静まる中、公爵邸の一室だけはその後も明かりが消えることはなかった。
サリュ・ヴェルハイツ公爵令嬢が何者かに拐かされた──
その衝撃的な報せは、瞬く間に社交界へ広まった。
幸いにして命に別状なく保護された公爵令嬢は、しかし心労が大きく一ヶ月ほど絶対安静での静養を余儀なくされたという。
捕縛された犯人は身代金の要求目的だったとその動機を語ったらしい。
令嬢の誘拐の際に彼女の侍女に大怪我を負わせ、更に偶然行き会ったレイス伯爵家の侍女にまで危害を加えたことからも余罪を追及され、後日処刑されたという。
この一件について、誘拐の事実を公表することは公爵家の娘に瑕がついたと触れ回るようなものではないかと懸念する意見もあったそうだが、事態が公爵家に留まらず伯爵家にも及んでいたことから、各家への今一度の警戒喚起として公爵家が決断したという。
王家はこの騒動に対し、公爵家の令嬢と侍女および伯爵家の侍女に見舞いの言葉を述べるとともに、この件に関する公爵家令嬢の瑕疵は一切ないと見解を示した。
伯爵家の侍女は不運にも巻き込まれた形になったのだが、そのことに心を更に痛めた公爵令嬢が自ら、その侍女の主であるシャーロット伯爵令嬢へ直々に見舞いの手紙と品を贈ったらしい。
また、公爵令嬢はこれまでの無礼な振る舞いについても真摯に謝罪し、伯爵令嬢はそれを受け入れたのだとか。
その件があって以降、かの公爵令嬢と伯爵令嬢は手紙のやりとりで仲を深め、公爵令嬢が全快した暁には茶会を開催する話まで出ているらしい。
更に驚くべきことに、公爵令嬢はこれまで自身が嫌がらせや無視を行っていた令嬢一人ひとりに、直筆で謝罪の手紙を送ったという話まで出てきた。
なんでも静養期間中に、改めて自身のこれまでの振る舞いを顧みていたのだとか。
公爵令嬢は自ら相手の家に出向き直接謝罪をしたいと考えていたようだが、心身が回復していないことと、さすがにそれは爵位を持つ家の娘として地位の垣根を超えすぎるものだということを理由に、家人から反対されたという。
それならせめてと自ら謝罪の手紙をしたため各家に送ったところ、それを受け取った当主や令嬢が驚愕と恐れ多さのあまり卒倒した家もあったと専らの噂だ。
公爵令嬢の急激な変化は社交界に誘拐の話が公表されたとき以上の衝撃をもたらしたが、その真摯な態度は概ね好意的に受け入れられたようだ。
やがて回復し公の場に姿を現すようになった公爵令嬢の、全方位への刺々しさが綺麗に落ちた立ち居振る舞いや茶会での会話の様子は、なるほど公爵令嬢にふさわしい博識さと教養を兼ね備えていると評判が上がっている。
ほどなくして令嬢方に囲まれるようにもなった彼女が会話の中で微笑む様は、まさに花の綻んだ可憐さであった。
こうして、ジャン・オーウェン子爵を巡る攻防──実際は公爵令嬢からの一方的なものだったのだが──は、劇的な幕切れを迎えたのであった。
「…だそうだよ。嘘は言わず、しかし適度に誤魔化しふんわりと。よかったよかった」
「ええ…よかった、です?」
すっかりここの客人扱いになってしまったアシュリーは、別館二階の会議室でライズに改めて顛末を聞かされていた。
ジャンは同じテーブルにつかず、扉の前に控えている。
あの後別館に運び込まれ手厚い治療を受けたアシュリーは、夜明けとともにライズに連れられて平民街の店に戻ってきた。
店の前では、おやっさんとおかみさんがわざわざ出てきて待っていた。
ひどくぼろぼろの服で戻ってきたアシュリーを見ておかみさんは倒れかけたが、それでもアシュリーが無事なことを涙を浮かべて喜んだ。
ライズからは、アシュリーが貴族令嬢の誘拐事件に巻き込まれたが、令嬢とともに無事に保護され、念のため治療と事情聴取を受けたことだけを簡潔に伝えられた。
それ以上は機密事項が多すぎて説明が出来ない。
それを知っているアシュリーは、ライズの説明に頷くだけだった。
おやっさんは説明を終えて戻っていくライズが見えなくなるまで頭を下げ、それから不器用にアシュリーの頭をぐりぐり撫でまわした後「しばらく店には出なくていい。休んでろ」とだけ言った。
こうして、アシュリーの穏やかな日々も戻ってきたのである。
「もちろん内々には、サリュ嬢は謹慎処分を受けていたのだけどね。本当はもっと重い沙汰が下されるところだったが、結局宝は無事に公爵家に戻ってきた。宝のことは公に出来ないし、公に被害者であるサリュ嬢がなぜか罰を受けているとなれば公表された事実と辻褄が合わないだろう?だから表向き静養期間としたわけだ」
「なるほど…」
「それに、公爵やヨハンソンはこの一ヶ月、ことある度にサリュ嬢に心を砕く時間をどうにか捻出していたらしい。彼女は最初こそ戸惑っていたようだけれど、やはり嬉しかったのだろうね。今では仲良くお茶の時間を過ごしたりしているそうだ」
「サリュ様はお元気なのですね。それならばよかったです」
「ああ。…あと、犯人たちだけど、あくまで実行犯は下っ端で、上にトップがいたそうだ。あちこち旅をして回る旅団を装っていたそうだね。その辺も一網打尽で、同じく処罰を受けている」
「…あの一団、やっぱり全員グルだったんですね。捕まって良かったです」
「君の証言も大いに役立ったよ。私たちは君に助けられてばかりだな」
「いえ、そもそも私が無鉄砲に突っ込んでいくせいなので…毎度ご迷惑をおかけしてすみません」
アシュリーが改めて頭を下げると、ライズは優しく笑って「その気持ちだけは受け取っておこう。受け取ったから、もう謝る必要はないよ」と告げた。
「そういえばアシュリー嬢、これを」
そう言ってライズが差し出してきたのは、先日の事件の際にアシュリーが落とした紙袋だ。
「…!」
アシュリーは目を見開いた。
中身を確認するとどれも傷つくことなく無事で、これを貰ったあの日のままだ。
「捜索の際に騎士が拾って保管しておいてくれたんだ。これを見ると良くない記憶を思い出してしまうかもしれないが…僕は君にこれを持っていてほしい。君の為に選んだものだから」
「…私…これが手元に戻って来るなんて思わなくて…絶対誰かに拾われてしまったと思っていたから…嬉しいです。あの記憶よりも、ライズ様にこれを頂いたときの嬉しさの方がずっと大きいですもの。今度こそ、大切に持って帰ります。大事に使います」
紙袋を大事に胸に抱えてはにかむアシュリーに、ライズの心も温かくなる。
ライズはアシュリーに伝えなければならないことがあった。
だが、アシュリーの顔を見ると。どうしても口を開くのを躊躇ってしまうのだった。




