第九話
王立魔力鑑定機関本館。
与えられている一室で、ライズはペンを置くと伸びをした。
凝り固まった肩と目の筋肉を乱雑にほぐし、ふうと息をつく。
昼休憩から戻ってきたライズを待っていたのは、決裁待ちの大量の書類。
げ、とらしからぬ声を上げた後で、彼は諦めて机に向かったのだ。
時計を見れば、作業を始めてからもう二時間半ほど経過している。
ノックの音に、「構わない。入れ」と声を飛ばす。
扉を開けたのは、眼鏡をかけた几帳面そうな男性だ。
歳はライズより三つ四つほど上だったはずだが、彼の容姿や性格はそれよりも上、三十代のそれを思わせる。
「失礼いたします」
「ああヨハンソン。どうした?決裁待ちの書類は全て目を通したぞ」
ライズは鷹揚に頷き、言葉をかけた。
ヨハンソンと呼ばれた男性は、畏まって頭を下げる。
彼こそヨハンソン・ヴェルハイツ──サリュ・ヴェルハイツ公爵令嬢の従兄であり、この魔力鑑定機関の副機関長に異例の若さで抜擢された逸材である。
「早速のご確認、ありがとうございます」
「それが私の仕事だからな。今日の決裁はこれだけか?」
「本日の書類はそちらで全てですね。あと一件、私から直にご説明させて頂き、ご確認を頂きたい件がございます」
「ああ、大丈夫だ。今からか?」
「書類を捌いたばかりでお疲れでしょう。三十分後でいかがでしょうか」
「ではそうしよう」
「かしこまりました。三十分後にお迎えに上がります」
そう言ってヨハンソンはライズの机に積み上げられた書類をひょいと抱え、きびきびとした動きで退室していった。
ヨハンソンは副機関長だが、機関長のポストが現在空いているため、実質のトップである。
だが、それを鼻に掛けずきびきびと業務をこなす彼は部下からの信頼も厚い。
四角四面であまり融通が利かない点が玉に瑕だが、機関長がいない中組織が傾くこともなく回っているのはヨハンソンの陰の努力の賜物に他ならない。
ライズは彼を高く評価しているし、時期が来れば機関長に推薦する心づもりもある。
…本人に言ったことはまだないが。
カップに残った紅茶を飲んで、ライズは昼間の出来事を思い返す。
──…前から思っていたのですが、ライズ様って…
対するライズの返答にアシュリーがこれでもかと大きな目を見開き、尊敬の眼差しを向けてきたことには若干の罪悪感もあったが、嘘はついていない。
職員のようなものだと言っただけなのだから。
ライズは王立魔力鑑定機関の職員ではない。
従って、職員採用の試験を受けたこともない。
そんな彼がこの機関に自由に出入りし、一室を与えられ、更には機関の実質トップであるヨハンソンさえもまるで上司のように彼を扱う、その理由。
それは簡単である。彼はやんごとなきお方、──この国の次期国王なのだ。
彼の本名はブライト・メルサバイト。
現メルサバイト国王と亡き王妃の間に生を受けた唯一の御子であり王太子の地位に在る、国王陛下に次いで最も尊い身である。
王立魔力鑑定機関は、王家が直々に設立した機関である。
つまり、機関として独立こそしているが、実際は王家の直属部門として扱われている。
故に、国の交易の要たる鉱石類の鑑定、ファムパルジュの認可、そして公にはなっていないが国民の生活に寄与するための魔力応用技術の開発を一手に担っているのである。
王太子ブライトは、やがて国王として担うことになる責任者としての執政に関する勉強の一環として、既に実務を一部任されているのであった。
ちなみにライズというのは愛称で、今では彼が王太子ではないただの者として動くときに周囲に呼ばせる名として使用している。
ただ、名前や口調を変えても姿が王太子のままでは何もできない。
彼は王家にのみ伝わる魔力利用の術とその制御術を扱うことに非常に長けており、ライズとして動くときには髪や肌の色を変え、他人から見える自身の面差しを自然と朧げにし記憶に残りにくくするような術を使っている。
瞳の色だけは術をもってしても自在に変えられないためそのままにするしかないのだが、王太子の瞳をじっと覗き込もうとする愚か者は当然ながらいないので特段問題にはならない。
瞬き一つでライズの紺色の髪は銀に近いアイスブルーへ、多少日焼けをしたような健康的な肌は美しく白い肌へと戻る。
──この術をアシュリーが見たら、きっと驚いて、それから質問攻めに遭うだろう。
そんな機会など絶対にないのだが、それでもそれを想像するとブライトは楽しくなる。
ふと、彼女と共有した秘密のことが思い浮かんだ。
貴族の家にいたとなると、やはり使用人としてだろうか。
貴族の屋敷に仕える使用人など、王子である彼が知るはずもない。
だからこそこれまで知らなかったのだろうが、それにしては何故か気にかかっていた。
あの表情から察するに、あまり待遇は良くなかったのだろう。
彼の周りは幸いにして心根優しく才色兼備な使用人が揃っていたので(王子に仕える者たちなのだから当たり前と言えば当たり前であるが、何事にも例外があることを彼は知っている)、彼も使用人を大切に扱い、家族のように思う一面もある。
だが、そのように考える者は実は多くないのが現実であった。
傅かれることに慣れてしまうと、いつからか勘違いをしてしまう。
だがそれでも、傅く方はその勘違いに付き合うほかないのだ。そうしなければ生活できないから。もっと酷ければ殺されるのだから。
アシュリーもそういう面を見てきたに違いない。
できれば彼女にも、他の平民たちにも、貴族がそういう者ばかりではないのだと思ってもらいたい。
だが、それは途方もなく長い道のりだ。
いくら先代国王の御代から長い年月をかけ、身分は己の責務を示すためだけのものであり、それを理由に不当に差別することは恥だと教育機関で教えてきても。
貴族にも、平民にも、「搾取する貴族」「搾取される平民」──更に言えば「横柄な振る舞いが許される高位貴族」「受け入れるほかない低位貴族」という図式が、未だに心の奥底に巣食っているのだろう。
ブライトはかぶりを振って嘆息すると、国の未来と自身が持つことになる責任の重さに思いを馳せた。
しかし、廊下が騒がしくなったかと思うと、すぐに焦ったようなノックの音が響いたことにより、彼の思考は現実に引き戻される。
時計を見ると、先ほど約束した時間まではまだあと十五分ある。
喫緊の用だろうかと、ブライトは急いで「入れ」と告げた。
扉を開けたのは、予想に反して一人の騎士であった。
ジャンの部下だが、彼は本来王太子の執務室に取り次げるような身分にない。
かなり焦った様子から事情があることを察したブライトは、しかし片眉を上げて問う。
「この部屋への入室は副機関長とオーウェン子爵にしか許可していないが?」
「謹んで無礼をお詫びいたします。しかし恐れながら副機関長より直々に、王太子殿下に至急取り次ぐようにと言伝が…!」
「分かった、許す。申せ」
「サリュ・ヴェルハイツ公爵令嬢が失踪したと、公爵家より早馬が届きました!」
「失踪?」
「公爵令嬢が外出したまま予定の時刻を過ぎても戻らないとの報を受け捜索したところ、本日公爵令嬢についていた侍女二名が芽吹きの刻区内にて怪我を負い倒れている状態で発見されました。治療後に話を聞くと、公爵令嬢が何者かに拐かされたと証言したそうです。…そして、その侍女が証言した場所に、…レイス伯爵家のシャーロット嬢に仕える侍女二名がこちらも昏倒した状態で発見されたため、何者かと通じ公爵令嬢誘拐の幇助を行った疑いが、レイス伯爵家に掛けられております…!」
「なんだと?」
ブライトは目を見開いて、勢いよく立ち上がった。




