3 少女の婚約者
部屋の中には、少女の他にももう1人の男がいた。少女のベッドの傍らにある椅子に腰掛けている優しげな風貌の男は、先程の馬車に乗っていた人物のように思う。
少女の言葉に、青年は軽く目を瞠っていた。
「フレア、そこに誰かいるのかい?」
何度も少女とジブンのいる位置を見比べていた青年が、不思議そうな顔で少女に問いかける。少女は顔をしかめて面倒臭そうに溜め息を吐いた。
「ええ、いるわ。貴方よりも余程素敵な男性が」
少女が青年の顔を見てふっと勝ち誇ったように笑う。んべっと軽く舌を突き出すおまけ付きだ。
そんな少女の反応を受けて、青年はくいと片眉を上げる。まるで、心外だと言わんばかりに。顔立ちは全く似ていないが、その仕草は少女とよく似ていると思った。この青年と少女がそれなりの時間を共に過ごしてきたのだろうと、一目で分かる。
「おや、これは異なことを。我が麗しの婚約者殿は体の不調が精神にまで及んでしまったのかな?」
「失礼ね、頭がおかしくなって幻覚が見えているわけじゃないわ。自分だけの尺度で物事を見るのはよして」
どこか楽しげな笑みを浮かべる青年を少女がじろりと睨む。言葉は決して友好的ではないのに、間に流れる景色はどこか気安い。
そんなやり取りを見ながら、ジブンはある衝撃に支配されていた。
婚約者、ですか……。
ジブンは昨日少女と出会ったばかりで、何も彼女のことを知らない。そう思い知らされた。まさか、思いを交わし、将来を誓い合った相手がいるなんて思ってもいなかったのだ。
姉にしか心を許していないように見えた少女が選んだ相手は、一体どんな人物なのだろう。何だかもやもやする。
「随分難しい顔をしているわね。何を考えているの?」
いつの間にか寝台を離れていた少女に真下から顔を覗き込まれ、思わず仰け反る。距離感が近い。胸が苦しい。
胸元を抑え、意識して深呼吸をするジブンを見て、少女が愉しそうにニヤリと笑ったのが見えた。
「赤くなっちゃって。本当、リュアンは初心よね」
「おや、フレアがそんな笑みを浮かべるなんていつぶりだい?」
少女に笑われたことに憮然とした表情になっていると、少女の婚約者だという青年が口を挟んできた。ジブンは昨日からずっとこの調子の少女のことしか知らないのに、この青年はジブンの知らない少女のことを知っている。
それが何だか気に食わなくて、思わず青年にじとりした目を向けてしまう。本当に、どうしようもない。……最も、そもそもジブンのことが見えていない青年は睨まれたところで全く堪えた様子がなかったが。
「別にいつだっていいじゃない。どうせライナスには関係がないことだわ」
「いいや、あるね。フィー以外には滅多に笑顔を見せなかったフレアの笑顔を引き出す相手なんて、大いに興味がある。確か、リュアンと言ったか。本当にそこにいるのか? どういう男なんだい?」
青年の方向を振り返った少女が、意外そうな顔でぴくりと眉を動かす。そのまますたすたと歩いてどさりと寝台に腰掛けた。彼女がこちらを手招きた後で自分の真横をぽふぽふと手で叩いてここに座れと訴えてくるので、大人しく近付いて行く。
「さっきの言葉、そっくりそのままライナスにお返しするわ。貴方が姉様以外に興味を持つなんて珍しい。一体どういう風の吹き回し?」
少女が胡乱な目を青年に向けながら首を傾げると、昨日と違って結われていない長い金髪がさらりとこぼれ落ちた。窓から差し込む光を受けて少女の金髪が輝く。
それが何だか無性に眩しく感じられて目を眇めるけれど、すぐ近くにある光の輝きは弱まってはくれない。堪らず瞼を閉じると、誰かの笑顔が見えた気がした。
「心配しなくても、フレアが疑うような裏なんてないさ。ただ、興味を持ってもいいだろう? どんな男だい?」
答えにならない答えを返して肩を竦めた青年に、少女が諦めたように溜め息を吐く。疲れたようにも、うんざりしているようにも見えたが、気のせいでなければその口元には微かな笑みが浮かんでいる気がした。
「そんなに気になるのなら、ライナスが自分の目で確認すればいいじゃない。出来なくはないはずよ?」
ね、リュアン? と少女が笑いながら確認するように名前を呼ぶ。自分にも見えるはずだと言われて瞠目している青年を視界の端に治めながら、首を傾げた。
「出来る…………のでしょうか?」
「出来るでしょう? ……昨日から疑問だったのだけれど、触ろうと思えば物には触れるのに人には見えないというのはおかしいと思うわ。
その気になれば人間が姿を見ることも出来るのではなくて? リュアンが初めから諦めていたから見えなかった、という可能性は本当にないのかしら」
……確かに、少女の言う通りかもしれなかった。言われてみれば、どうせジブンは人には見えないのだからと、敢えてジブンが人の目に映るように行動を起こしたことはなかった気がする。
今まではずっと、それでよかった。わざわざ人にジブンの姿を見せる意味がなかったし、1人で過ごすことに慣れきっていたからだ。だが、今はもうそうではない。少女が大きな独り言を話しているように見えてしまうのは、何と言うか……駄目、だ。受け入れられない。
「……やってみます」
もやもやと胸に蟠る黒いものを抑え込むように、目を伏せる。心配とはまた違う、強い忌避感があった。
物に触るのとは違い、人に姿を見せるようにするのは初めてのことだ。同じように、とは行ってもどうするのが適切かなんて分からない。ただひたすら、ジブンの意識を研ぎ澄ました。
そうして集中してみれば、様々なものを感じ取ることが出来る。少女や青年の微かな息遣い、窓の外で奏でられる自然の音、室内を満たす空気の流れ。色々なものを感じながらゆっくりと目を開ければ、驚いたように目を瞠った青年がジブンを凝視しているのが見えた。
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