2 待てども待ち人は現れず sideフレア
長いです。いつもの2倍くらいあります。
ぐるぐると、落ち着きなく部屋の中を歩き回る。朝からずっとこの調子だ。幾ら時間を気にしてみてもこんな時ばかり時間はなかなか過ぎてくれないし、ちらちらと扉に目を向けてみても、その扉が開く気配はない。
ーー遅い。
遅い。遅い。遅すぎるわ!
待てども待てども待ち人が現れないことに、苛苛しながら爪を噛む。もう昼もとうに過ぎているというのに、『彼』が現れる気配は一向にない。何をとろとろしているのだろうか。
……今日も会えるのを楽しみにしていた私が馬鹿みたいじゃない。
「あー、もう!」
叫びながら、ベッドに体を投げ出す。ぼふんと柔らかくて弾力のある感触に受け止められた。はあ、と溜め息を吐く。
「……虚しいわ。私は何をやっているのかしら」
ポツリと呟いた後、ごろりと体勢を横向きに変える。窓の外に目を向けても、外の様子は見えない。窓の半分くらいの高さまで、屋敷をぐるりと覆う壁があるせいだ。
結局のところ、『彼』が来るかどうかなんて、本人の気持ち次第なのだ。私が幾ら待ち望んだところでどうにかなる問題ではない。
たった1日接しただけの他人にこんなに振り回される日が来るなんて、考えたこともなかった。昔の私もきっと信じないだろう。
「姉様。私、どうしたら……」
人を、笑顔にしてあげることができますか?
そう口に出そうとして、止めた。答えが返ってくるはずもないし、もし返ってくるとしても姉様の答えなんて分かりきっている。
『フレア。人に笑顔になってほしいと思ったら、まず自分から笑いかけてみるのよ。そうすれば、いつかは必ず笑顔を返してくれる日が来るわ。……大丈夫、貴方なら出来るはずよ。私の可愛い自慢の妹』
目を閉じれば、そう言って笑う姉様の姿が瞼の裏にくっきりと浮かびあがる。常日頃から笑顔を絶やさなかった姉様なら、きっとこう言うのだろう。これは姉様の口癖だった。……そんな姉様だから、私は救われた。
「……駄目ね、私。もっとしっかりしなくちゃ」
1度キツく目を閉じて、視界に映る景色を閉め出す。いつまでもうじうじ考えてはいられないし、何より時間の無駄だ。向こうから来ないのなら、私から行けばいい。
長い長い時を生きているくせに、まるで赤子のような人。結局どうあっても、私はあの迷子のような目をした孤独な人を放っておくことなんて出来ないのだから。
目を開くと、キツく瞑り過ぎたのか瞼が少しジンとしていた。視界もぼやけている。
視界が元に戻ってくると、私はベッドから身を起こした。ベッドの下から隠していた服を引っ張り出し、寝衣からお忍び用の服へと着替えていく。
布団の中にぬいぐるみを詰め込んで膨らませ、然も人が寝ているように見せかければ完璧だ。いくらか布団を整えた後、出来栄えに満足した私は1つ頷く。
早速姉様が教えてくれた隠し通路を使って外に出ようとしたところで、コンコンと扉がノックされた。一瞬期待に目を輝かせて、すぐにそんな自分に舌打ちする。もしも彼ならノックなんてするはずがない。
……最悪だわ。なんてタイミングが悪いのかしら。
思わす苦々しさに顔を歪めてしまったのは仕方の無いことだと思う。タイミングが悪すぎる。
……いや、考えようによっては助かったと思えなくもない。不在がバレることが無かったのだから。いつもは誰も私の部屋に来ることが無いから油断していた。
扉を睨み付けながら、急いでお忍び用の服の上から寝衣をきる。上にガウンを羽織ってしまえば、ひとまずは誤魔化せるだろう。
着替えが終わると、今まで大人しく寝ていたことを示すために逆戻りしてベッドに潜り込む。中に押し込んでいたぬいぐるみは腕の中だ。
「フレア? 寝ているのか?」
私の返事がないことを疑問に思ったのか、扉の向こうから伯爵の声が聞こえた。思わず顔をしかめる。
使用人を差し向ければすむ話なのに、何故わざわざ伯爵が来ているのだろうか。
「フレア、起きているのなら開けてちょうだい。ライナス様がいらっしゃったのよ」
伯爵の声に続いて、弾むような伯爵夫人の声も聞こえた。
……ライナスが来たからってわざわざ自分で案内してくるなんて、ご苦労なことね。
乾いた笑いが零れた。公爵家の三男であるライナスが訪れたことが、伯爵夫妻は余程嬉しいらしい。くだらない。
「オルフェンス辺境伯、辺境伯夫人、すまないがフレアと2人きりにしてもらってもいいだろうか。彼女は照れ屋だから、両親の前で僕と話すのが照れくさいのかもしれない」
……誰が照れ屋ですって?
ぴくり、と眉が動いたのを自覚する。何を言っているのかさっぱり理解出来ない。いつから私はそんな性格になったのか。
私が内心呆れ果てている間にも、扉の外の会話は続く。
「それに、僕がフレアと2人で話をしたいんだ。もう彼女に残された時間は少ないのだろう? ……頼む」
「……まあ、ライナス殿ならフレアに無体な真似もしないでしょう。使用人も含めて人払いしますから、お好きにお話ください」
焦りを含んだような、切実な望みを告げる言葉には、どこか聞く人にその人の望みを叶えなければいけないと思わせるような力がある。
案の定、伯爵はライナスの言うことを聞き入れてしまった。伯爵夫妻と数人の使用人のものと思われる足音が少しずつ遠ざかっていく。
完全に足音が聞こえなくなると、「フレア、入るよ」という声とともにガチャリと扉が開かれた。部屋の主に許可すら求めない。……こういう人間なのだ、この男は。
「や、フレア、久しぶり。やっぱり起きてたんだ。倒れたと聞いて来てみれば、案外元気そうじゃないか」
「別に倒れた訳ではないけれど、私の状態を知った上でその発言ということはとうとうその出来の良い脳が腐り落ちたという認識でいいのかしら」
部屋に入ってきてから掛けられた挨拶代わりの言葉に、悪態で返す。私にとってもいない方が都合がいいけれど、自分の思う通りに伯爵を動かしたライナスには顔をしかめざるを得ない。
「相変わらず辛辣だなあ。少しはフィーのような可愛げを身につけたらどうだい?」
そんなことを言いながら、ライナスは当たり前の顔で寝台の脇に置かれていた椅子に腰掛ける。私は椅子を勧めた覚えはない。
「残念なことに、お腹の中にいた時に可愛げは全て姉様に取られてしまったの」
肩を竦めながら、言外に私に可愛げを求めても無駄だと答える。「君とフィーは母親が違う異母姉妹だろうに」と呆れ混じりに吐かれた溜め息には、「それが何か?」と返した。
どの腹から生まれたかなんて関係ないのだ。姉様は私に名前をくれた人で、私はそんな姉様の唯一の妹。この事実だけで十分だと思う。
「仮にも僕は君の婚約者だというのにつれないな」
「気色の悪い言葉は止めて。……それに、貴方と私が結婚する日は来ないから安心していいわ」
昨日医師から言われた言葉を思い出して、少し自嘲気味に笑う。今の日常が当たり前にずっと続くなんて、どうして思えたのだろう。昨日までの私はどこか傲慢だった。
そんな私の様子を見て、ライナスが顔を歪めた。最もそれは一瞬で、すぐにいつもの胡散臭い笑みに戻っていたけれど。
その瞳が依然として複雑な色を宿していることに、首を傾げる。ライナスならば、私と結婚しなくて済むことを少しは喜ぶと思っていたのだ。
「どうしたの? 無駄に整った顔が台無しよ」
「無駄とはまた酷い言い草だね。また1から婚約を決め直すのは面倒だと思っただけだよ」
「あ、そう」
一瞬で興味を失って、ふいと視線を逸らす。新しくこの男の婚約者になる女性が少し哀れだ。
姉様とライナスは、お互いに想い合って婚約を交わした仲だった。この男はほんっとーに嫌味で鼻持ちならない性格をしているけれど、姉様とのことに関しては私も認めていたのだ。ライナスと一緒にいる時の姉様はとても幸せそうで、私はそれを見ているだけでよかった。
「フレア、身体は何ともないのかい?」
少し真面目な顔付きになったライナスが、私の額や首筋をぺたぺたと触る。顔をしかめてその手をぺしっと払い除けた。
「触らないで頂戴、気持ち悪い」
「気……」
私の言葉に、ライナスが愕然とした顔で絶句した。滅多に見られない表情になんだか勝ったような気になって唇の端を吊り上げる。胡散臭い笑顔ばかり浮かべているこの男が姉様以外のことで表情を崩すのは珍しい。
未だに間抜け面を曝しているライナスを見て、ふっと薄く笑いが零れた。
「大丈夫よ、心配なんかしないで。思い出したくなんてないんだから」
死者の国で姉様に会ってライナスの話をする時に、思い出すのがこんな顔なんてごめんだ。情けない顔を張り倒してやりたくなる。少なくとも、進んで思い出したい顔ではない。
……どうせなら、リュアンの顔でも焼き付けとこうかしら。こんな人がいたのよって、姉様に教えて上げられるように。
「何言ってるんだ、心配するのは当然だろう?……フィーとの思い出を分かち合えるのは、もうフレアしかいないんだから」
楽しかった昨日一日のことを思い出して少し感傷に浸っていると、ライナスがそう言ってくいと眉を上げた。姉様中心の考え方は相変わらずで、肩を竦める。私を心配しているのかもしれないと一瞬でも思った私が馬鹿だった。
「それこそ伯爵夫妻と話でもして来たら? 彼らなら喜んで話相手になってくれると思うけれど」
「謹んでお断りするよ。彼らとフィーのことを話すなんて出来るはずがないじゃないか」
「彼らと話すようなフィーの思い出話なんてないね」とライナスが吐き捨てる。こんなことを言っている割に、この男はいざ伯爵夫妻の前に出ればにこにこと笑みを取り繕うのだ。
……本当に、いい性格をしている。姉様がライナスのどこを好きになったのか、私に理解出来る日はきっと一生来ないんだろう。理解したいとも思わないけれど。
ふと、視界の端に黒い布が写った気がして、扉の方に目を向ける。ずっと待っていたから、半ば反射的な行動だった。
果たしてそこには、信じられないと言わんばかりに目を見開いている待ち人……リュアンの姿があった。勝手に頬が緩んで行きそうになるのをなんとか堪える。
その姿を見つけた途端、今目の前で会話をしていた人物のことなどどうでもよくなってしまう。寝衣の上から羽織っていた上着をかきあわせた。
「随分遅かったじゃない、リュアン」
待ち焦がれていたことなどおくびにも出さず、悠然と笑ってみせる。私ばかり彼に会いたいと思っているのは、何だかとても癪だった。