1 夢か現か
第2幕の幕開けです。
目の前にそびえ立つ高い壁を見上げる。昨日は何も思わずに入っていった建物なのに、入っていってもいいのだろうかと躊躇してしまう。
昨日の出来事は、全てジブンの妄想の中の出来事なのではないだろうか。
永遠に続く時間に気が触れて、おかしな夢を見たのではないだろうか。
1度そんな考えに囚われてしまうと、もう駄目だった。囚われて、抜け出せなくなる。まるで蜘蛛の巣に引っかかった獲物のようだ。
……他のものに認識されている分、蜘蛛の方がジブンより優れているかも知れない。
そんなことを考えて、鉛でも飲み込んだかのように胸が重くなった。
そうだ。ジブンのことを認識して、奇異の目で見られることにも頓着せずに関わりを持とうとしてくる人間などいるはずがない。
矢張り、あの少女はジブンに都合のいい妄想だったのだ。
……ならば、ジブンの中に生まれたこの『感情』とかいう度し難いものは、一体どうすればいい?
ジブンの中に生まれてしまったこの感情の、行き場は。
抱いた疑問から目を背け、重い体を叱咤して堅牢な屋敷に背を向ける。
未練がましくもそびえ立つ高い壁をを何度も振り返りながら丘を下っていると、向かい側から馬車が走ってくるのが見えた。既視感を覚えて思わず近付いて来る馬車を注視するが、中に乗っているのはあの金髪の少女ではない。
望みにも似た予想が外れたことで途端に馬車に対する興味が失せ、透視を止める。横を通り過ぎて言った馬車に描かれている紋章は、昨日少女が乗っていた馬車のものとは違っていた。
……あの少女は、今頃どうしているのだろうか。
いるはずがない人間だと結論付けたはずなのに、あの少女のことばかりが頭を占める。
気になるのなら、自分で確かめればいいだけの話だ。
だが、この目であの少女が実在しないことを確認してしまったらと考えるだけで息が苦しくなる。足が竦んで、それ以上前に進もうという気にはなれなくなるのだ。
ーーそれでも、会いたい。
心の奥底の欲望は実に正直で、不可解だ。理解出来ない。正気の沙汰とは思えない。
たった一日接したかもしれないだけの少女に、ジブンは一体何を拘っているのだろう。
深入りはするな、彼女に情を抱いてはいけないと心のどこかで声がする。その通りだと思った。
彼女に深入りをしてどうなるのだ。そんなことをしても、彼女はジブンより遥かに早く息絶えるだけだ。何も報われない。
深入りして、それで、彼女の死後の裁判に私情を挟むつもりか?
心の中の問いに、首を横に振った。
そんなこと、出来るはずがない。許される、はずがない。公平なはずの裁判に私情を持ち込むなど、あってはならないのだ。
そんなことをすれば、『彼女』にも怒られてしまうだろう。
……彼女とは、誰だ?
余りにも自然にジブンの中に湧いてきた、その人物は誰だ。ーー分からない。
頭を振って意識を切り替える。先程まで考えていたことに話を戻そう。
第一、あれほど白い魂を持つ少女ならばジブンが優遇するまでもなく無事に輪廻の輪に還っていくことだろう。
そうなったとして、少女が魂の浄化を終えてこの世に舞い戻るのはいつのことだ。再び巡り会う保証もない。気付かないかもしれない。きっと、それまでに途方もない時間を過ごすことになる。
……その時、ジブンはジブンのままでいられているのだろうか。分からない。
1度人と接することを知ったからといって、それが何になる。何も変わらないかもしれない。だが、変わるかもしれない。
過去に経験がない出来事である以上、その証明など出来るはずもない。
ーーもう、いい加減にしなさい、リュアン!
あの少女の声が聞こえた気がして、俯けていた顔を上げる。目の前に広がるのは背丈の低い草の中にも舗装された道と、その先に広がる街並みばかりだ。
だが、長い髪を風に遊ばせ、昨日の衣装のままに腰に手を当てて眉をひそめる少女の姿が確かに見えた気がした。幻影の少女は尚も続ける。
ーー黙って見ていればウジウジウジウジと格好悪いのよ!
ーー昨日私とした約束、まさかもう忘れたなんて言わないわよね?
ーーいつまでもうだうだしてないで、いいからさっさと来なさい!
その細い体のどこから出てくるのかと思う声量と勢いで一喝され、背筋が伸びる。頭をガツンと殴られたような気がした。
いつの間にか、幻影の少女は消えたいた。だが、かけられた言葉は確かにジブンの内に残っている。
「随分遅かったじゃない、リュアン」
意を決して少女の部屋へ向かうと、果たして彼女はそこにいた。寝衣をその身にまとった姿で、ベッドの上で悠然と微笑んでいる。
予想外の状況に、大きく目を見開いた。
ハッピーバレンタイン!
いつも読んでくださる皆様に最大級の感謝を捧げます。どうか良いことがありますように。