10 互いのこと
「もう、今日も終わりね」
オレンジ色に染まり始めた空を見上げて、歩を進めながらも少女がポツリと呟く。気付けば時刻は夕方に差し掛かっていた。
「……そう、ですね」
「私、楽しかったわ。こんなに楽しかったのは姉様が生きていた時以来かしら。……ありがとう、貴方のことは忘れないわ」
少女にしては随分と素直なその言葉は、まるで別れを告げているようだった。もう会うことは無いという思いが少女を素直にさせているのかもしれない。
惜しいと、そう思った。少女との関わりを今日だけで終わらせてしまうのは、とても惜しい。何故だか胸の内がもやもやする。
気づけば勝手に口が開いていた。
「姉が、いるのですか」
「ええ。とても優しくて可愛いのに美しくて、芯が強いの。私にとっては唯一尊敬出来る人よ。……もう、いないのだけど」
瞳を輝かせて嬉しげに自らの姉のことを話していた少女が、最後の一言で悲しげそうにそっと目を伏せる。姉のことを本当に慕っていたのだろう。
少女の姉がもうこの世にはいないのだと悟って、寂しそうな彼女の横顔にそれ以上何も言えなくなった。
「……すみません。……あの、他の家族のことも、聞いてもいいでしょうか」
今日出会ったばかりの少女だ。当然、彼女との関わりは薄い。だから……少し、知りたくなった。彼女のこと、家族や周りの人のこと、出会い頭の独り言のような言葉の理由も。
ジブンの言葉が予想外だったのか少女が少し目を見開き、おかしそうにくすくすと笑った。
「急におかしなことを聞くのね。いいわ、教えてあげる」
そうして少女が教えてくれたことによると、彼女は正妻の娘ではなく、愛人の娘らしい。芸人一座の踊り子に辺境伯がたわむれに手を出した末に生まれたのが彼女で、幼い頃は平民として暮らしていたそうだ。
だがある日、子どもが出来ていたことを知った辺境伯の使いが少女とその母親の元に現れたらしい。そのまま母親と共に辺境伯の元に引き取られた少女だったが、親子で暮らす離れに辺境伯が訪れることはなかった。跡取りを産むことで正妻よりも強い立場を得ようとしていた彼女の母は、次第に少女に暴力を振るうようになっていったそうだ。
辺境伯家の使用人にも侮られる生活の中で、唯一義姉だけは優しくしてくれたのだという。
無表情で淡々と過去を語る少女からは彼女の思いを感じ取ることも出来ず、それ以上そんな少女を見ていられなくて話を止めた。聞きたかったのは、こんなことでは無かった。
「……もう、いいです。すみません」
「あら、そう。まあいいけれど、ここからが面白いところなのに」
そう言って、少女は唇を釣り上げる。その瞳は氷のように冷たくて、彼女が自分の両親や継母のことをどう思っているのかをまざまざと表しているようだった。
「どうでもいい人たちのことはもう止めましょう。
ねえ、リュアンのことも教えなさい。人のことを聞くくらいだもの、当然自分のことも話せるでしょう?」
一瞬で冷たい空気を霧散させた少女に問いかけられ、ぱちりと1度目を瞬く。そんなことを言われても、ジブンには話せるほどの何かなどほとんど無いのだが。
記憶を探ってみても、これといったものは思い浮かばなかった。
「……ジブンのこと、とは……?」
「こう、何か少しくらいあるじゃない」
「……」
口元に拳を当てて考え込み、何も言葉を発しないジブンを見て、少女が段々とその表情を曇らせていく。
まさか無いのか、という愕然とした様子の問いかけにこくりと無言で頷いた。
「……語るべきことは、特に……」
「……貴方が寂しい人だということはよく分かったわ」
皺の寄った眉間を揉み、疲れたような溜め息とともに少女はそう言う。だが、彼女はそこで終わらなかった。
「じゃあ、貴方がこれまでに見てきた景色を教えなさい。リュアンが覚えている限りでいいわ。
死神と言えば永遠を生きる存在だもの。当然、色々なものを見聞きしてきたのよね?」
少女の笑顔の圧に負け、そっと瞳を閉じる。瞼の裏の暗闇は、もう随分と長い間慣れ親しんだものだ。
1番最初に見たものは、果たして何だっただろうか。先程とは違って、その答えはすぐに出た。
最初の記憶は、どこまでも続く広い荒野だ。ただし、そこには人どころか木も、植物すらも存在しない。ただ一面の、荒れ果てた大地だけが広がっていた。
周囲をぐるりと見渡し、終わりなく続く大地を見て、ジブンは何を思ったのだったか。古い記憶なので最早覚えていない。
ただ、なんの記憶もなく突然始まった生の中で、ジブンが『死神』と呼ばれる存在であること、人を殺す力は持たないこと、生物には当然あるべき感情が欠落していることの3点だけは、漠然と理解していた。
当てもなく彷徨い歩き、いつしか、ジブンは巨大なクレーターの中にいたのだと理解した。ジブンが目覚めたあの場所は、クレーターの中心だったらしい。
クレーターの外は、草があった。木があった。水があって、そこには生き物が生活していた。
それから、幾年が過ぎただろうか。たくさんの生物が年月とともに進化していく中で、『人間』と呼ばれる生き物が生まれた。
2本の足で歩き、言葉を話し、時とともに知性を発達させた彼らは、やがて文明というものを作り出す。長い時間をかけてゆっくりと彼らが成長し、発展していく姿を、ずっと見てきた。
人間の生活というのは繰り返しの連続だ。
日々の営みを繰り返すことで新たな発見をし発展する。過去の惨劇を忘れた頃に同じことを繰り返す。そうして、少しずつでも確実に進歩していく。
ジブンが見てきた光景、人の歴史をぽつりぽつりと少女に話す。時折相槌を交えながらも静かに話を聞いていた少女が、不意に笑み崩れた。
「何よ、リュアン自身のことと言うと自分では分からないだけで、貴方にもちゃんと話せることはあるんじゃない」
心臓が、鷲掴みにされたかと思った。いや、ジブンに心臓などあるのかは知らないが、ふにゃりと笑った少女の顔を見て、急に胸が苦しくなったのだ。
「……?」
ただ、戸惑う。
急速に顔に熱が集まって息苦しくなるような、こんな感覚は初めてだった。
それ以上少女の顔を見ていられなくて目を逸らす。それなのに、あろうことか少女はそんなジブンの顔を下から覗き込んできた。
さらりと零れ落ちた髪から香る匂いに、またも胸が締め付けられる。
「どうしたの、リュアン。顔が真っ赤よ?」
「……っ、ぁ……見ないで、下さい……」
無理矢理絞り出した掠れて小さな声は、楽しそうな少女の笑顔の前に黙殺される。
ニヤニヤと笑いながら見つめてくる少女に、堪らずに無言で歩みを早めた。
「あ! 待ちなさい、リュアン!」
慌てたような声とともに、バタパタと走る軽い足音が聞こえる。ジブンと少女では歩幅が違うため、どうやら走らないと付いてこられないらしい。
ペースに気をつけなければ、と頭のどこかで声がする。だが、最早少女を気遣う余裕など全く無かった。周囲の人間の様子など余計気にしてはいられない。
黙々と足を進める間を、頭に浮かぶのは先程の少女の笑顔ばかりだ。その度に鼓動が早くなって、少し苦しい。
不死身故に病気にもかからないと思っていたが、ジブンは何らかの病気になってしまったのだろうか。
確か、今いる『鎌』の中には生きていた頃に医者をしていた者がいたはずだ。あの者に相談して……駄目だ。『鎌』にジブンが弱みを見せるわけにはいかない。
もやもやと迷いながら歩いている間に、いつの間にか少女の暮らす屋敷に到着していた。
「着いてしまったわね……」
石造りの堅牢な屋敷を見て、ぜいぜいと息を切らしている少女は嫌そうに顔をしかめる。
有事には自ら剣を取って戦うことを求められることもある辺境伯の屋敷だ。当然、外観からも分かるようにその守りは堅い。どうやら少女には、それが牢獄のように見えているらしかった。
「ここまででいいわ、リュアン。もう会うことは無いでしょうけれど、貴方のことは忘れないわ。どうか、元気で。……ふふ、不死身の貴方にこれはおかしいかしらね」
屋敷の裏口の前で、口元を手で抑えた少女が小さく笑う。
今も頭を占めるあの笑顔とは違って元気がなく、無理矢理浮かべたもののようにも思えた。
「じゃあ、私が死んだらまた会いましょう」
軽い調子でそう言って、少女はくるりと背を向ける。
「あ、あの……っ」
そのまま中へと消えていこうとする背中を、気付けば引き止めていた。