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――誰か……助けて……。
「ぷはっ、ゲホ……」
悲痛な叫びを声にできぬまま、ミナは何度も海面から顔を出して咳き込んだ。
泳げないミナはひたすら手足をバタつかせてのしかかってくる水圧の中を浮遊していた。しかし、不思議なことに動けば動くほど引きずられるように沈んでいく。
ミナはまだ混乱していた。ジャックに落とされたことを認められないでいた。
――だって、ジャックが泳げない私を海に突き落としたからって何になるの?
彼に何の得もないはずだ。ムシャクシャしていて腹いせにやったとかなら理解できなくもないが、走り去っていく直前の彼にそんな様子はなかった。むしろ彼の声と自分の肩を押す手は言い知れぬ罪悪感に震えていた。これは彼の本意ではない。そう信じたい。
そう遠くに飛ばされたわけでもなかったミナは、何度も口や目に入ってくる塩辛い水に泣きながら、やっと右手を桟橋の柵につかまらせることができた。
命綱である柵を渾身の力で握りしめた。助けがくるまで、これを離したら確実に溺れ死ぬ。だが、ここで一つ問題が浮上する。――助けは一体いつになったら来る?
ここの船場はどれだけの出入りがあるのだろう。こんな小さな船場じゃあまり期待はできないだろう。暗闇の向こうを見据えてみても、飲みこまれそうな黒があるばかりで、船が来る気配は感じられない。
「……ッ」
ミナは窮地に立たされていた。こんな夜中に、こんなところに用がある人がいるとは思えない。叫べばいいかもしれない。そう思って遠くを見たが、民家はここで大声を出しても届かないであろう距離にあった。
これでは助かる術が見当らない。
恐ろしさと身体の冷えに、ぶるっと大きく身震いした、そのときだった。
「――で、どこにいるんだよ? ちっともそれらしき奴いねーぞ?」
「――!」
ミナは複数の足音と粗雑な話し方をする、聞き覚えのある声にさらに悪寒が走って息を止めた。
――この男の声は……。
危険察知のためなのか、不快な人のことほどよく覚えている。
ミナは目を伏せ、正直あまり思い出したくない苦い記憶を手繰り寄せた。
初めてリクを尾行した夜に出会い、その次のあの夜、私をひん剥いて、その薄汚い手にかけようとした最低の男。バイヤーのエリックだ。
なぜここにエリックが? 彼はクラブをうろついているのではないのか。
誰かと文句を言いながら、エリックの足音がミナのいる桟橋の縁へ近づく。ミナは指一本動かすまいと息を殺した。この男が助けてくれるはずもない。仮に引き上げてくれたとしても、素性が知れればどこかに売り飛ばされる。どちらにせよ死ぬ。何より彼の顔を見たくない。
「はあ。ジャックも小娘もいねーな。今夜の約束だったんだけどなぁ」
――嘘でしょう?
自分を海へ突き落した人の名がエリックの口から出たことに、ミナは頭を殴られたような思いだった。あえていうまでもない。ジャックはエリックと繋がっていたのだ。
ジャックは、私を売ろうとしていた。




