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ミナの仕事はこの、フレデリカの朗読を子守歌にして寝息を立て始めたリク王子殿下の教育係だ。
リク王子は平和国家として栄えているカールエミ王国の第二王子、リク・アルヴィネン・カールエミ王子殿下である。
このリク王子は、兄王子や他の下の兄弟たちと同じように育ててきたのにどういうわけか幼少期から今のようにやる気がなく、王子としての矜持も義務も持ち合わせていなかった。
何十回と教師ややり方を変えても彼は王族として必要な知識も振る舞いも何一つ覚えようとしない。
王宮では好き勝手に暴れるし、数年ほど前からは暇を持て余したせいか、深夜に怪しいクラブに出入りするようになった。おそらく女と遊んでいるのだろう。
あまりに自覚の無い行いに、そのうち温厚だった国王も業を煮やし、離宮へと追い出した。
このままこの第二王子の実態を国民に知られでもしたらマズイと思ったのと、環境を変えれば変わるかもしれないと淡い期待を抱いてのことだった。王宮お抱えの敏腕女官と共に離宮へ追い込んだが残念なことに事態は良くなるどころか悪化した。
怪しいクラブへの出入りがこれまで月に何回かだったのが、ほぼ毎夜になり、昼過ぎまで起きてこないのが常態化した。日中もただ夜が来るのを待っているだけのようにぼうっと過ごしている。
国外からどれだけ高名な先生を呼び寄せてもまるでうわの空。敏腕女官はもうずっと前から王子の更生は諦め、雑事に徹している。
打つ手なし、と誰もが諦観していたその時、家臣の一人が教師を「貴族ではなく平民にしてみてはどうか」と提案した。
今まで王族という立場上貴族以下の教師を雇ったことはない。珍しさに興味を持たれる可能性もあるのでは、ということだった。
反対する者はいなかった。さすがにそれは……と冷静になれば反論の一つも出そうだが、皆リク王子にはほとほと疲弊しきっていて反対する気力すら残っていなかったのでその珍案が通ることになったのだ。
そこで派遣されたのがミナである。
ミナの現在の両親は爵位持ちではないが、生家は下級貴族だったので、平民でありながら血筋としては一応貴族というどっちつかずの紛らわしい立場にある。
これならまるっきり平民というとこではない(らしい)のと、実父がかつて王宮と関わりがあったのでそれも合わせてミナを適任と判断した。
ミナは自分が選ばれたことを光栄に思った。人選の経緯がどうであれ、大好きな実父と同じように国のために働けることが、嬉しかった。大変な任務であることはわかっていた。それでも、父の娘であるという名誉、己の矜持にかけて何としてもその責任を全うしようと意気込んでいた。
――それなのに。
ミナはぐっ、と奥歯を噛み締めた。自分の仕事の一割も果たせていないじゃないか。
机の上に広がる、思わず触れたくなる柔らかそうな亜麻色の髪を恨めしく睨んだ。
ミナはまだ、王子と一言も言葉を交わしていない。王子はミナをまるで空気のように扱い、どれだけ話しかけられてもそもそもミナの声など聞こえていないように自然に無視をするのだ。
しかも、無視をするのはミナに対してだけ。
ミナと違って誰が見ても美人のフレデリカに対しては口をきく。
そりゃあ誰だってそんな綺麗な人に話しかけられたら返事をする。相手を人としてみなす、ギリギリの扱いではあるが、それでも完全に無視されているミナよりはずっとマシ。
仕事中以外では仲の良いフレデリカも、このときばかりは王子を優先する。彼の機嫌を損ねないように、彼がミナを無視するのならフレデリカもそれに従う。
フレデリカは己の役目を果たしているだけで何も悪くはないのだが、それでもやっぱり悲しい。
ミナは諦め、机に置かれた自分の鞄をぼんやりと眺めた。
――ジャックがいてくれればなぁ……。
王子の気まぐれに、この時間にジャックも同席することがある。
その際、ジャックはフレデリカと違って王子に「見えないものと話すな」等、何を言われようと一人取り残され手持無沙汰なミナに話しかける。何度王子に叱責されようと気にしなくていいと笑ってくれる。だがあまり王子に逆らうと首を切られるのでは、と心配したが、そこはミナやフレデリカとは違う、二人だけの関係性があるのだろう。ミナにとって、ここではジャックだけが味方のような存在なのだ。
ふと、俯いて垂れ下がったミナの前髪を、窓から入ってきた風が慰めるように撫でた。
顔を上げ窓のほうを見るとカーテンが揺れている。今日は少し風が強いみたいだ。
ミナはくすりと笑った。……そうだ、私は王子にとって“空気”だ。
つまり、風はミナの仲間なのだ。