初めての友達
「じゃあ、お風呂沸かすわね」
風呂場へ向かった可憐さんを見送って、居間に残された僕らに再び沈黙が訪れる。こういうとき、男子である僕から話題を振るべきなんだろうけど、何を話すべきだろう?
「……お風呂、一緒に入る?」
「アホか」
お前が言うと冗談に聞こえないんだよ。ちょっと妄想しちゃったじゃねぇか!
「そういえばご飯はいつも可憐さんが作っているのか?」
「……ん」
「お前は作らないの?」
「……私は食べる専門」
料理評論家やグルメリポーター以外で食べることに専門があるとは知らなかったよ。
「たまには手伝ったりしないのか?」
「……ん」
いや、胸を張って答えるようなことじゃないからな。何の自慢にもならねぇし。っていうか、お前はどうしていつもそんなに偉そうなんだよ。
「よし、決めた。明日の昼食はお前が弁当を作れ」
「……なんで?」
「忘れたとは言わせないぞ。僕は賭けに勝っている。明日の昼食は僕とお前の分の弁当を作れ。それが罰ゲームだ」
そうやって一つずつ覚えて家事全般をしている可憐さんの負担を少しでも軽くしてやれよ。という意図を込めた命令だけど、果たして野々山に僕の意図は伝わっただろうか?
「……ん、わかった」
意外に素直な女の子で助かった。その後、特に会話もなく卓袱台の下で互いの足を絡ませて静かに戦争をしているところに可憐さんが血相を変えて戻ってきた。
「二人とも、落ち着いて聞いてくれる?」
あたふたしながら可憐さんが僕らを見つめる。
いや、まずあんたが落ち着けよ。
「お風呂のお湯が出ないわ」
なかなか絶望的な現実が告白された。
「乙女の大ピンチよ!」
あんた乙女って歳でもないでしょう。野々山の四つ上って言っていたから可憐さんは今……計算しようとしたのが分かったのか殴られた。しかもグーで。
「……ピンチ」
危機感ない顔だなぁ。無表情だから余計にそう見える。まぁ、いい年頃の女の子が風呂に入れないっていうのはそれなりにピンチなんだろうけどさ。
「でも安心しなさい。近くの銭湯なら確か日付が変わるまで営業していたはずよ!」
閉店まで約一時間。僕らは慌てて着替えとタオルと洗面用具を持って銭湯に走った。
野々山家から徒歩五分。意外と近くに銭湯『華の湯』はあった。華やかな湯という素敵な名前とは裏腹に、震度三以上の地震が起きたら建物ごと倒壊してしまいそうな風貌。
番台に鎮座する老婆は置物かと思ったけれど、よく見ると何も食べていないのに口をもごもごさせていて、はっきり言うと名前負けもいいところだ。
閉店前ということもあって客は少なく(普段はどれくらい繁盛しているのか些か疑問ではあるけど)、僕らは番台さんに破格の二百円を支払ってそれぞれの浴場へ向かう際に「どうせ誰もいないんだし、混浴する?」と可憐さんに誘われたけど、丁重にお断りさせてもらった。チキンだしね。
べ、別に根に持っているわけじゃないんだからねっ!
殿方と書かれた暖簾を潜ると脱衣所には一組の衣服があり、まだ男性客が残っているらしい。タオルを腰に巻いて風呂場に入ると、銭湯独特の匂いが鼻腔を擽る。すぐ手前のシャワーの前に腰を下ろしている先客を見て、僕は一目散に扉を閉めた。
……あれ、今の人何かおかしかったぞ?
タオルを腰に巻いたまま暖簾を潜り直して入口へ戻る。今、ここでどうしても確認しておきたいことがあった。
「……マジかよ、無法地帯!」
思わず叫びだしてしまう現実がそこにあった。普通の銭湯には入口に注意書きがあることをご存知だろうか?
刺青がある方はお断りというもので、利用客の皆さんに快適な銭湯ライフを提供するために定められた謂わば銭湯界の暗黙のルールが存在するはずなのだ。
しかし、この華の湯にはそれがない。刺青がある殿方や女人の憩いの場がここにある。
再び僕は暖簾を潜り、意を決して扉を開いた。背中一面、肩からお尻にかけて隈なく阿修羅の刺青が施されたスキンヘッドのおじさんは当然、まだシャワーの前に座っていた。
ちくしょう、夢だったらよかったのに。
毛髪がないと頭も石鹸で洗えて便利ですねとか世間話をしようものなら、僕は明日の今頃には東京湾の魚たちに皮膚を啄ばまれることになるだろう。
女湯との仕切りになっている壁は天井が空いていて、向こう側から楽しそうな女の子たちの声が聞こえる。
「わー、貸切ね! 秋葉、泳いじゃダメよ」
「……ん、お姉ちゃんも泳いじゃダメ」
そっちは楽しそうですね、ちくしょう。
恐々おじさんから一つ空けてシャワーの前に腰を下ろす。妙に距離を置いて不快な思いをさせたら明日の今頃、僕は以下略。
背中を冷たい汗が滑り落ちたのは銭湯の熱気にあてられたからではない。
「……ふぅ」
おじさんもといスキンさんが大きな手で顔を洗い、気持ち良さそうに溜息を漏らしたのにいちいちビクッと反応しているチキンがここにいた。
「お背中流しましょうか?」なんて口が裂けても言い出せるわけがない。僕はまだ海底遊戯を楽しみたくないからな!
そこでふと気が付いた。野々山家を飛び出してきたせいで、石鹸とシャンプーは姉妹が持ったままだ。
ちらりと横を確認。
いやー、石鹸忘れちゃったなぁ。誰か貸してくれないかなぁ、ちらちら。
……その一握りの勇気があれば僕はこんなに悩んでいないんだよ、ちくしょう!
「……背中流してあげる」
「いいわねぇ、流し合いっこしようか」
いやん、どこ触っているのよ。なんてほのぼのした会話が壁越しに聞こえる。しかし、こっちでスキンさんと同じことをしてみようなんて無謀な考えは僕にはない。
「可憐さん、終わったら石鹸を貸してもらえますか?」
「あ、そうか。私たちが持っているもんね。ちょっと待っててね」
天井から石鹸が降ってきた。真っ直ぐ僕の上から落ちてきたところを見るに絶妙なコントロールだ。もしかしてこの鏡はマジックミラーになっていて、向こう側からは丸見えになっているんじゃないかと邪推してしまうくらい。いや、それ誰得なんだよ。
「ありがとうございます」
体を流し終えた頃に向こうから声がかかった。
「政宗くん、シャンプーとリンスもそっちに投げるわよ」
「はい、お願いします」
気の利く女性だよな。彼女を捨てた元カレの気持ちが理解できねぇよ。
天井から投下されたリンスは上手くキャッチ出来たけど、シャンプーは軌道が少しずれていた。そしてスキンさんの頭上に舞い降りるシャンプーが僕にはスローモーションに見えた。
こつん。
ぎゃああああああああああああぁッ!
死んだ。いや、スキンさんではなく僕が。
死亡フラグ立った。すかさず僕は土下座する。男のプライドなんて背中の泡と一緒に流してやったからな。
「すんませんでしたあああああぁッ!」
「……うむ、気にするな」
スキンさんは気まずそうに頭を擦りながら小さく頷いた。見た目より温厚な方で命拾いした。髪を洗い、スキンさんが堂々と浸かる湯船にお邪魔する。なんか色々失礼があったので恐縮してしまう。
「…………ふぅ」
「……(ビクッ)」
沈黙。
野々山といるときの沈黙とはわけが違う。空気に重量を感じるのは初めてだった。
十数えるまで出ちゃダメよ、なんて隣の女湯から聞こえるけど、僕は出来ることなら一秒でも早くこの場から逃げ出したい。でも、後から湯に浸かっておきながら先に上がるのも気が引けるので、ここからはスキンさんとの我慢比べになりそうだ。
汗が滝のように流れる。間違いなくこれは冷や汗だ。
お願いだから早く出てください。
「……小僧」
小僧ぅッ?!
「隣にいるのは野々山可憐嬢か?」
「はいッ! そうでありますッ!」
これまでの人生で一番元気の良い返事をした気がする。
「あんた、可憐嬢の何なのさ?」
……どうやら僕は東京湾ではなくて、横浜港に沈むようです。
だって、これってアレだろ?
『あんた、アイツの何なのさ?』ってやつだろ?
「可憐さんの妹の友達で、お二人とはそれ以上の何でもありません! 神に誓って!」
信じる神もいないくせに神に誓いました。そうでも言わないと横浜港に沈められてしまう。
「そうか」
再び沈黙。
し、死ぬかと思ったッ! っていうか、あんたこそ可憐さんの何なのさ?
可憐さんってもしかして結構有名人だったりするのかな?
我慢大会は未だ続く。沈黙が体感時間を永遠のように長く思わせる。
エターナルスキン……とかつまらないことを考えて一人で吹き出しそうになった。やべぇ、今はスキンさんを直視できねぇ。
流れた汗で僕の体まで溶けてしまいそうだと思い始めたとき、ついに救世主が現れた。
脱衣所の扉が勢いよく開き、番台に座っていた老婆が「閉店だよ、さっさとあがりな」と救いの手を差しのべてくれた。ふがふが言っていた婆さんが今の僕には女神に見えました。
「ちっ、もうそんな時間か」
舌打ちしながらスキンさんが立ち上がり、それに続いて僕も腰を上げる。後に出たから僕の勝ち! とか絶対に言わない。ほんと、マジで。
脱衣所で可憐さんの元カレ用に購入された下着に足を通す際、背後で着替えていたスキンさんがぽつりと呟いた。
「ふん、なかなか良いモノを持っているじゃねぇか」
ナニがとは言わないけれど、少し自身がつきました。それと同時に可憐さんの元カレは彼女を取り巻くこの変な人たちが原因で破局に向かったのではないかとひとつ謎が解けたような気がした。
入口には既に野々山姉妹が待っていた。湯上りの美人というのはどうしてこんなに艶かしく見えるのだろうか? ほんのり上気した朱色の頬と、アップにされた髪から覗く白いうなじがとても色っぽい。
「政宗くん、ちょっとやつれた?」
「……何も訊かないでください」
こっちは色々と修羅場だったんです。阿修羅の背中と風呂場で一緒だっただけに。
帰り道でコンビニへ立ち寄ってガ○ガリ君のソーダ味を三本購入した。三人でガ○ガリ君を食べながら歩いていると、
「……あたり」
口の周りをベタベタにした野々山が小さく呟いた。その手にある棒には確かにイラスト入りで『あたり』の文字が刻まれていた。
「すごいじゃない! ガ○ガリ君のあたりってなかなか出ないのよ!」
可憐さんはまるで自分のことのようにはしゃぐ。祝福を受けた野々山は満更でもないといった無表情で小さく胸を張った。ハンカチで口の周りを拭いてもらっている姿はどうも締まらないけど。
こいつ、たまに子どもっぽいところあるよな。あどけないというか、純粋というか。
だから僕は彼女に真っ白だという印象を受けたのかもしれない。
「秋葉ってね、昔から運が良いの。商店街の福引では毎回一等を当てるのよ。それがいつしか噂になって、商店街の福引に私たちが行くと、今回は一等当たるのかなって観客が出来るくらいになったの。今のところは十六回連続で一等を貰っているから、うちの家計も大助かりよ」
わざわざ料理を覚えなくても、こいつはこいつなりに家計を手助けしているんだな。余計なお世話をしてしまったのかもしれないと反省しながら、僕は下弦の月が浮かぶ澄んだ春の夜空を見上げる。
あの頃の未来に僕たちは立っているのかな?
なんて詩人になったつもりはない。日付が変わり、この夜空の向こうにはもう明日が待っているのだから。
ただ、初めて友達ができたということを今さらになって実感している自分に、ちょっとセンチメンタルな気分になっただけだ。
野々山と友達になったことで、明日から僕らの世界は変わるだろう。
僕にとっても、野々山にとっても今までとは違う世界が広がるんだ。
今こうして見上げている空は、屋上から飛び降りたときとはもう違うんだ。
同じように見えて、きっとどこかが違う。
野々山も僕と同じことを感じてくれているだろうか?
自分のいる世界に退屈し、自由で広い空に憧れ、必死に手を伸ばして空に近づこうとした彼女は、僕と飛んだことで何を得て、何を失ったんだろうか?
彼女の世界に現れた僕という存在と、野々山はどう付き合っていこうとしているのだろう?
逆に、僕の世界に現れた野々山秋葉という少女と、どうやって付き合っていこうか。
でも、それは今考えることじゃないのかもしれない。
答えはきっと、あの灰色の雲のように掴もうとしても届かないものだ。
だからこそ僕らはこれからたくさんお互いを知り、その答えを見つけていくのだろう。
だってそれが。
――友達になるってことなんだろう?