野々山家の団欒
あ、家族に連絡を入れておこう。野々山に返してもらった携帯電話の電話帳から自宅を選択すると、律儀にコール三回で母さんの声が返事した。
「あ、母さん。僕だけど今夜は少し遅くなるよ」
『政宗? ああ、話は聞いているわ。くれぐれも粗相のないようにね。ご家族の方にもよろしく伝えておいてね』
まだ名乗ってもいないのに息子の名前を簡単に出すなんて、あんた『オレオレ詐欺』には絶対に注意してくれよ?
……いや、待て。それより気にするべきところがあるだろう。どういうことだ?
どうして既に連絡が入っている?
「なぁ、野々山」
「はい?」
「……ん」
台所と襖の奥から返事がきた。どっちが誰の返事かは言うまでもないだろう。
「いや、秋葉さん」
生まれて初めて妹以外の女の子の名前を呼びました。どうしてだろう、少しもときめかない。
「……なに?」
襖が開いて野々山がいつもの無表情で現れる。僕はそれを見て思わず絶句した。野々山が純白の下着姿のままで出てきたからだ。
「おい、バカ! 服着てから出て来いよ!」
生まれて初めて母さんと妹以外の女性の肌を見てしまった。しかもかなり際どいところまで。
何なんですかこの家は。上がってから十分も経過していないというのに、僕の初体験を次から次へと奪っていきやがる!
襖を閉めるどころか堂々と腰に手を当てた野々山は小さく首を傾げる。慌てて襖を閉めて、僕は襖越しに問いかける。
「母さんに連絡したのはお前か?」
「……ん」
襖越しに衣擦れ音を伴って短い返事。つまりあれか?
僕が屋上に到着して彼女を目撃したときには既に野々山家で夕飯をご馳走になることが決まっていたのか?
僕が送らなくても初めから家に連れ込む計画があったということか?
一体、どんな思考回路をしているんだ、この不思議少女は。おかげで僕の思考回路はショート寸前だよ!
「何故だ?」
「……何がだ?」
襖越しでも威張って胸を張っている姿が想像できる。先程までの小動物のような怯えはなく、どこまでも図々しい性格の女の子が襖の向こうにいる。
マジで一発殴ってやりたい。しかもグーで容赦なく顔面を。
「何故、僕を野々山家に招く計画が本人の許可なく勝手に進行してたんだ?」
襖越しに決まり文句のように「……ん」と聞こえた。
ん、じゃねぇよ。都合が悪くなったらそれで誤魔化すのをやめろ!
「……あなたは私の秘密を知ってしまった。……だから逃がすわけにはいかないの」
「日本語を話してくれないか? 僕にも理解できるように」
「……もう共犯だから、友達になってもらうわ。……お姉ちゃんにはそう言っちゃったから」
今さら断れないだろ! まさかここまで計算して可憐さんに紹介したのか?
野々山秋葉、恐ろしい子ッ!
再び開いた襖から、上下緑色のジャージに着替えた野々山が出てきた。
別に期待していたわけじゃないけどさ、ぶっちゃけ言ってどうなのよ、その格好。
お前、曲がりなりにも女子高生なんだぞ?
左胸に刺繍された中学校と野々山の名前、中学時代から成長したせいで丈が短くなっているのが実にリアルだ。はっきり言わせてもらうと女子力の欠片も感じない。地味すぎる格好のはずなのに妙に似合っているのが余計に腹立たしい。美人っていうのは何を着せても良く似合うものなんだな。
「……姫島政宗、さん」
「はい」
どうして躊躇してから「さん」を付けた?
むしろこれだけ僕に迷惑をかけたんだから今後、一生服従する誠意を込めて「様」を付けて呼べよ。
「……あ、えっと、あぅ、ともだふぃあなあるぅゅ」
「日本語でいいから」
何が言いたいんだよ。最後の方なんてどうやって発音していたのかさえ分からなかったぞ。
畏まった顔で(無表情だけど仕草的な意味で)狼狽えるな。ある意味、器用で気色悪いわ!
「……私の友達になってください」
野々山は丁寧に、斜め四五度の綺麗なお辞儀をした。ごめんなさいと九○度で頭を下げたかったけれど、それをしたら可憐さんに刺されそうだ。
どうして僕なんだろう?
釘宮だってそうだ。友達を作るなら他にもたくさんいるのに、どうしてわざわざ僕を選ぶんだ?
二人とも一癖も二癖もある厄介な女の子だけど、普通にしていれば引く手数多だろう。僕みたいなどうしようもないろくでなしなんかよりもずっと良い奴なんてたくさんいる。むしろ、僕ほどのろくでなしを探す方が難しいくらいだ。
それなのに。
「もう一度、同じ質問をしてもいいか?」
一度目は屋上で、
「どうして?」
今回の『どうして』は意味が違う。
「……………………………………あぅ」
精一杯、頭を捻って搾り出した言葉がそれだった。深く考えすぎて知恵熱でも出したのか、その頬はほのかに紅く染まっている。
「友達になることに理由が必要かしら? 一緒にいて楽しいって思うから友達なんでしょう?」
声に振り返ると、鍋を持った可憐さんが首を傾げながらこちらに歩いてきていた。まるで「どうしてこんな当たり前のことを理解できないの?」と言いたそうに。
「政宗くんってさ」
両親以外に下の名前で呼ばれることに耐性がない僕はその一言だけで悩殺されそうになる。
美人のお姉さんに政宗くんって呼ばれたぞおおおおおおおおおおおおぉッ!
危ない、感動して軽く発狂しそうになったぜ。美人の笑顔の破壊力は凄まじいな。
「失礼だけど、政宗くんって友達いないでしょ? っていうか、作ろうとしないのかな」
図星すぎて返す言葉が思いつかなかった。
おかしいな、いつもならのらりくらりと上手く回避しているはずなのに、可憐さんには思いつく限りの嘘や誤魔化しが通用する気がしない。
可憐さんは卓袱台の真ん中にある簡易コンロの上に鍋を置くと、僕と野々山の手を引いて繋ぎ合わせた。
「秋葉はどうなの? 政宗くんと一緒にいるのが楽しいから友達になりたいんだよね?」
まるで物分りの悪い子どもを諭すように、野々山の頭を撫でる。
「……ん、政宗は面白い」
おい、誰が呼び捨てを許可した? というのは照れ隠しと思われそうなので言わなかった。
僕はどうなんだろう?
野々山といて楽しいのだろうか?
上辺だけで付き合ってきた他の連中と何が違うのだろう?
そもそも今日出合ったばかりなのに面白いも楽しいもないじゃないか。僕は野々山のことを何も知らないのだから。
僕は今日の一日、彼女をどう見ていたのだろう?
「政宗くんは? 今日、秋葉と一緒にいて楽しかった?」
昼休みに股間を凝視していた謎の女の子。
その女の子と放課後に会い、
一緒に屋上から飛び降りて、
彼女に悪戯をして驚かせて、
彼女の話を聞いて、
僕のことを少しだけ話した。
「楽しかった、と思います」
そうだ、僕は野々山といた時間、たったの一瞬だって退屈だとは思わなかった。
日常を生きているだけでまとわりつくような退屈を感じていたはずの僕が、野々山を驚かせるためだけに屋上から一緒に飛び降りて、ホームセンターへ走り、寒いのを我慢してまで彼女が目を覚ますのを待っていた。
その一瞬たりとも僕は退屈を感じていなかったではないか。
いつの間にか僕は野々山秋葉の魅力に魅了されていたのか?
こいつといると楽しいと、心の底では感じていたみたいだ。
満足そうに何度も頷いた可憐さんは満面の笑みで僕たちの頭を撫でた。
「じゃあ、それでいいじゃない。二人は今日からお友達」
「その、僕でいいなら」
照れ隠しで頬を掻きながら言うと、可憐さんは安心したように肩を撫で下ろした。
「それじゃ、冷めちゃう前に食事にしましょう」
美人姉妹と囲む鍋はとても美味しかった。
相変わらず無表情の野々山と、おっとりしているのにしっかり者の可憐さんとの会話は予想以上に盛り上がり、少しの間だけ僕は嘘を吐くことを忘れてしまっていた。
生まれて初めてかもしれない。嘘を吐く必要のない相手がいるという安心感を覚えたのは。僕は今、素直に楽しいと感じている。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさい、秋葉がお友達を連れてきたのは初めてだったから、ついはしゃいじゃったみたい」
言われて時計を見ると二十三時になる手前だった。そんなに夢中で話していたのかと少し恥ずかしくなったので、僕は腰を上げる。
「ご馳走していただいた上に遅くまでお邪魔してすみません。もう帰ります」
「帰り道は分かる?」
「はい、ここから結構近いので大丈夫です」
踵を返したところにまたしても抵抗を感じた。
まるでそうするのが習慣だといわんばかりに野々山が既に定位置となって皺までついてしまった袖を抓んでいた。こいつは一体、どんな握力してやがる。
「野々山?」
「はい?」
「……ん」
「……秋葉さん」
わざわざ訂正させないでくれませんか。あんた今、絶対に分かっていて返事しただろ。
「……政宗、今夜は泊まっていけばいい」
「「…………ッ?!」」
問題発言に絶句したのは可憐さんも同じだった。破天荒すぎる野々山のせいで、僕の常識が間違っているのではないかと本気で心配になっていたところだけど、可憐さんも常識の通用する女性で良かった。
「秋葉、いくらなんでもそれは……」
「……今日はもう遅いし、政宗は友達だから泊まってもらうの」
まるで子どもが駄々をこねるように野々山は意見を曲げようとしない。
そういえば、こいつって結構頑固なところあるよな。
しかし、言っていること自体は正論なんだよな……僕が男じゃなかったら。だから、この頑固者が納得するような反論が思い浮かばずに僕と可憐さんは顔を見合わせる。
(困ったわね)
(困りましたね)
無言で意思疎通ができるくらいに僕らの考えはひとつだった。
(政宗くん、何か言ってあげなさい。あなたそういうの得意でしょ?)
(いやいや、無茶言わないでくださいよ! こいつが頑固者だってことは可憐さんの方がよく知っているでしょ?)
(男の子が弱音を吐かないの。大丈夫、あなたはやればできる子よ。もし政宗くんがダメなら私が挑戦してみるから)
無茶言うよなぁ。とはいえ、このまま泊めてもらうわけにもいかないし、とりあえず思いつく限りの言い訳をぶつけてみよう。
「野々山、あのな」
「はい」
「……ん」
だからあんたじゃねぇよッ!
どんだけ妹を秋葉って呼ばせたいんだよ!
頼むから今の空気を読んでくれよ。
「……秋葉さん。気持ちはありがたいけど、着替えとかないし」
「……お姉ちゃんが元カレと同棲するために買ったものがあるから平気。……使う前に別れちゃったけど」
(マジですか?)
(……深くは訊かないで)
「いや、ほら、でもさ。ぶっちゃけ女の子二人と男がひとつ屋根の下で夜を過ごすのは教育上よろしくないかと」
「……政宗はチキンだから大丈夫」
「――ッ!」
肺腑を抉るような痛快な真実だった。
悲しい誤解だと胸を張って反論できない自分が虚しい。それが僕には致命傷となった。
人生で初めて言い負かされた屈辱よりも、傷心の痛みの方が大きく、僕は情けなく可憐さんにバトンを譲る。
(無理でした。っていうか、もう一人で立ち上がれる自信もありません。自分、チキンッスから。あはは、ちくしょう)
(………………)
(あれ、可憐さん? 応答してください、可憐さん?!)
そこには演劇舞台でスポットライトを浴びる悲劇のヒロインのように崩れた可憐さんがいた。元カレの指摘で彼女は既に戦闘不能に陥っていたらしい。
つまり、野々山秋葉の完全勝利。
「まぁ、政宗くんはそんな野蛮な男の子には見えないし、いいんじゃない?」
「軽いノリだなぁ!」
この妥協が決定打となり、僕は生まれて初めて友人の家でのお泊りを体験することになった。
女性の家に上がったこと、家族以外の女性の下の名前を呼んだこと、家族以外の女性の肌を見てしまったこと、友達ができたこと、そして初めてのお泊りがあろうことか女の子の家だということ。たった三時間弱で僕が今まで生きてきた十六年間でもそう増やせなかった初体験が一気に消化できてしまった。恐るべし、野々山家。




