マイペースな野々山秋葉
かつて人は空に憧れた。
大空を自由に飛び回る鳥のようになりたいと願った。
そして蝋の翼で空を羽ばたき、神の怒りに触れたイカロスの教訓から人々は知恵を絞った。
そうして実現した鉄の翼はいつしか争いを生み、戦争と言う悲劇を招いた。
どうして人間はこんなに不器用で不恰好にしか生きられないのだろう。
この世界にあるもので満足できない人間はとても愚かで、神はそんな傲慢な人間への戒めとして空を羽ばたく能力を奪ったのかもしれない。
「おい、野々山! 起きろ!」
瞳を閉じたまま動かない野々山の頬を軽く叩いて声をかけた。
僕らが空を飛んだときに見上げた夕陽はとうに沈み、部活動を終えた生徒たちが完全下校してから結構時間が経っているようで、月明かりに照らされた眠り姫の寝顔は三割増で綺麗に見える。
僕たちが落ちた花壇の周りには『KEEPOUT』と書かれたテープが張り巡らされ、人型のチョーク跡が目に付く。
「……うにゅ」
可愛らしい声で野々山は目を擦りながら起き上がった。
「すまない、僕たちは失敗してしまったみたいだ」
「……え?」
野々山はキョロキョロと周りを見て、自分が置かれている状況を理解したのか絶句して立ち尽くす。
どう見ても事件現場にしか見えないこの景色を見て。
KEEPOUTのテープに触れて、小さな溜息を漏らした野々山は残念そうに呟いた。
「……私たち、死んじゃったのね」
「すまない、まさか君を巻き込んでしまうなんて」
「……いいの、それに巻き込んだのは私だもの。……私こそごめんなさい」
「これからどうしようか?」
「……どうしよう。……私、人見知りだからこれからトイレの花子さんたちと仲良くできる自信がないわ」
右往左往して野々山は露骨に狼狽える。
生前のクールな面影が一片もないのだが、相変わらず無表情が崩れることはない。
っていうか、心配するところが違うだろ。
「現場検証は終わっているみたいだな。僕らの遺体は今頃、近くの病院の霊安室に眠っているだろうよ」
「……お姉ちゃん」
「ん、姉妹がいるのか?」
「……ええ、四つ上の姉と二人暮らしをしているの。……いえ、もう死んじゃったから暮らして『いたの』になるわね」
野々山の姉ちゃんか。それはまた規格外の美人なんだろうな。
「……あなたは家族と暮らしていたの?」
「僕は妹と母さんの三人暮らしだよ」
「……ごめんなさい、辛いことを訊いてしまって」
「いやいや、父さんは一昨年から単身赴任しているだけで、ちゃんと生きてるから!」
父さん、あんた見ず知らずの少女に勝手に殺されたぞ。
「……そう、妹さんはいくつなの?」
「中学三年生だよ。って、僕の話なんて聞いても面白くないだろ?」
「……そんなことはないわ。……これから死後の世界であなたと二人で生きていかなきゃいけないもの。……少しでもあなたのことを知っておきたいわ」
死後の世界で生きていく……ね。
この場合、死んでしまっているのだから死に続けるという方が正しいのか?
「っていうか野々山ってさ、意外に喋るんだな。無口な奴だと思ってた」
思っていたも何もあんまり知らないんだけどね。
「……喋る必要がない人とは喋らないだけ」
なるほど、僕は喋る必要があると認識されたわけだ。別に嬉しくないけど。
腕時計の針は僕らが空を飛んだ時間で止まることはなく、空気を読まずに現在の時刻を正確に刻み続けている。
時刻は二十時二十分を過ぎたところ。
そろそろ体が冷えてきた。
「それじゃ、僕はそろそろ帰るわ」
「……え?」
まるで捨てられそうな子犬のような頼りない声で野々山は僕の袖を掴む。
人差し指と親指で控えめに抓まれた袖に引かれて僕の足が止まった。
「……帰るって、ここから出られるの?」
ああ、そうか。地縛霊になってしまった可能性を示唆しているわけね。
早くも自らの死を受け入れている順応力は認めてやるけれど、そんな心配はいらない。
「やってみないと分からないだろ。何なら校門を出られるか賭けてみるか?
負けた方は勝った相手の言うことを何でもひとつだけ聞くってことで」
「……(こくり)」
「じゃあ、僕は出られるに賭ける。野々山は出られないでいいのか?」
「………………………………(こくり)」
いや、思考時間長ぇよ! これがRPGなら今頃『野々山秋葉が仲間に加わった!』とテロップが流れていることだろう。
僕の袖を控えめに、でもしっかり抓んだまま、野々山は一歩後ろをぴったりとついてくる。
いや、歩調まで合わせなくていいからね。気色悪い。これがオヤシロさまにぴったりついて回られた雛○沢村の少年少女たちの気分なのかもしれない。まったく同情するぜ。
中庭を抜けて校門に辿り着く。職員室にはまだ電気が点いていて、もしこんなところを見られたら一言くらい注意を受けそうだ。
立派な校門は閉まっている。
それに手を伸ばそうとしたとき「……気を付けて」と野々山に注意された。
何に気を付ければいいんだろう?
見えない力か何かに弾き飛ばされるとでも思っているのか?
生憎だが僕はそういう妄想は中学二年生で卒業したんだよ。
彼女の予想を裏切るように校門はキイィと砂を巻き込む耳障りな音をたてて思いの外あっさり開いた。
「僕の勝ちだな」
振り向いて笑うと、野々山は居心地が悪そうに俯いてしまった。
賭けに負けたことは悔しいだろうけど、それよりも安堵の方が勝ったのか「……ん」と短い返事が聞こえた。
校門を出て、僕らは立ち止まる。このまま真っ直ぐ自宅に帰ってしまったら漏れなく美少女がついてきてしまうから。
参ったな……彼女を僕の部屋に連れて帰るわけにもいかない。
「野々山はどこに住んでいるんだ? 送って行くよ」
「……ん」と空いた左手で示した方向は偶然にも僕と同じ帰り道だった。
野々山は女子の中では身長が高い方で、僕とそんなに変わらない。だから遠慮なく自分の歩調で歩くことにしたのだけど、RPGのルールに則っているのか、彼女が僕の前を歩くことはない。
仕方なく角を曲がるときは教えてもらうという面倒な手段を採用した。
「そういえば野々山はお姉さんと二人暮らししているんだっけ。もうお姉さんは帰って来ている時間なのか?」
「……ん」
「そうか……え、ここで右折なのか?」
「……ん」
袖を引っ張られて振り返ると、右を指差す野々山。
わざわざ気を遣って話題を振ってあげているのに会話が続かない。っていうか、こいつさっきから「……ん」しか言ってなくね?
野々山の家はそこから角を三つほど曲がった場所にあった。学園からそれほど離れていない三階建てのアパート。
「ここ?」
「……ん」
「それじゃ、僕はここで」
踵を返して歩き……出せない?!
「……おい」
「……ん?」
ん、じゃねぇだろ。袖を放せよ。っていうか、そろそろ「……ん」以外の言葉を喋れ!
無理やり踏み出そうとしても僕の体は彼女の手から解放されず、このままだと制服が伸びてしまうので諦めて振り返る。
「あのなぁ『今夜は帰りたくないの』みたいな思春期の少年を悩殺するようなことを言っても無駄だぞ」
多少、心が揺らぐと思うけど。
「……私、死んじゃったのにどうやって帰ればいいの?」
「家の鍵持っているだろ? それで帰れよ」
「……(ふるふる)」
え、マジで? 鍵持ってないの? 僕の屋上の合鍵は持っていたくせに。
「じゃあ、お姉さんの帰りが遅いときとかはどうしているんだ?」
「……そういう日は朝にお姉ちゃんから鍵を預かっているけれど、もし鍵を預かっていない日に私の方が先に着いたときは玄関の前で待ってる」
想像できてしまうのが恐ろしい。玄関の前で体操座りをしながら無表情で姉の帰りを待つ野々山。
座敷童子みたいで萌えるわ、その光景。
妖怪萌えという新たなフロンティアに目覚めてしまいそうだ。
「じゃあインターホンを押して呼べば?」
「………………(ギュッ)」
何故、握力を強めたの?
「怖いのか?」
確かにもう遅い時間だからな。いや、この場合はお姉さんに叱られるのが怖いんじゃなくて、お姉さんに自分の姿が見えないことの方が怖いのだろうか。
なかなか人間らしいところあるじゃん。仕方ないな、悪戯はこの辺にして、そろそろ種明かしといきましょうか。
「野々山、あのな――」
「……ついてきて」
僕の言葉を遮って野々山は歩き出す。華奢な体のどこにそんな力があるのか不思議なくらい僕はされるがまま彼女に引っ張られて後を追うことに。