Fly!
結局、放課後になっても野々山が教室に戻ってくることはなかった。
帰り支度をしていると、これから部活に向かう釘宮がまた声をかけてきた。
「ママ、また明日ね。あとでメールするからアドレス教えなさい」
「自然な会話の中に下心を混ぜるな」
「あぁん、いけずぅ。こうなったら強硬手段よ! 持ち物チェック!」
言いながら釘宮はまず僕の鞄をひっくり返して中身を机の上に出した。
せっかく片付けたのに何てことを。
鞄の中に入っていないことを確認すると、今度は僕の体をまさぐりだした。
おい、どさくさに紛れて股間触るんじゃねぇよ。
「むぅ、徹底しているなぁ。もしかして今どきの高校生なのに携帯持ってないっていうオチ?」
「携帯端末を携帯しない男なんだよ。こういう積極的なアプローチをかけてくる女が僕の知る限り一人いるからね」
少なくとも目の前に一人ね。
余裕を装って答えながら、実は一番驚いたのは僕だった。
携帯がなくなった。
今朝、登校する際に天気予報を見ながら来たので、家に置き忘れてきたという可能性はない。さり気なくいつも携帯を入れているズボンの右側ポケットに手を入れるが、そこにあるはずの感触がない。
今日は体育の授業もなかったし、教室移動もなかった。僕が行動した範囲は登校時に通った道と、この教室と男子便所と。
……屋上だけだ。
いや、まさかな。
あのときは釘宮も一緒にいたし、携帯を取り出した記憶なんてない。
でも、もしかしたら。
「悪い、見たいドラマの再放送があるからまたな」
考えても仕方がない。ひとつずつ確認していこう。
まず男子便所にはなかった。続いて屋上に向かう階段を上る。
もしここにあったら僕が屋上の合鍵を持っていることが発覚して問題になってしまうから、先に最悪の可能性を消したかった。
廊下で落としているとしたら今頃は職員室に保管されているだろう。今はその方がありがたいのだけど。無意識に階段を一つ飛ばしで駆け上がる。
立入禁止の鎖を越えて屋上を隔てる扉に突き当たり、左側のポケットに手を入れる。
「……あれ?」
ない。どうしてお前までなくなっているんだよ!
心臓が押し潰されるような感覚に思わず膝をつきそうになる。
屋上の鍵がなくなっている。
おかしい、絶対におかしい。
使用後は証拠隠滅のために必ず施錠しているので鍵まで屋上に忘れてきたはずがない。これは一年間も毎日続けてきた習慣と言っても良いくらい日常的な行動なので、鍵を失うなんてことは考えられない。
絶対に、ありえないのだ。
ドアノブに手を伸ばす。
心臓の鼓動が加速限界で息が詰まりそうになる。今にも胃の中にあるものがすべてせり上がってきそうな嘔吐感。手の平が尋常じゃないくらい汗で濡れている。
ガチャ――……
扉は開いた。鍵を閉めたはずなのに。
途端、夕方の冷たい風が吹き抜けて僕は思わず右腕で顔を庇った。視界に白い何かが飛び込んできて、優しく頬を撫でる。
真っ白な羽だと理解したのは、そいつを見つけてから三秒後。
「天使……?」
フェンスの向こう側に天使が立っていた。
ふわりと風に靡く長い黒髪。
彼女から放たれたと言われれば素直に信じてしまうくらい真っ白な羽が華奢な体を優しく包むように風に踊る。
少女は静かに、徐にこちらへ振り返った。
「……探し物は見つかった?」
少女は訊いた。まるで僕のことで知らないことなどないと諭すような柔らかい声音で。
「君だったのか」
唐突に理解した。彼女の右手に、その決定的な証拠が握られていたのだから。
あのとき教室で彼女とぶつかった瞬間に、僕は何もかも奪われていたわけか。
携帯も屋上の合鍵も、それを必死に探し回るのに費やした時間も――すべてを。
「どうして」
こんなことをした?
何故、僕に関わろうとする?
孤独を選んだはずの君が。
「……空の飛び方を教えて欲しいの」
「空?」
期待はずれの返答に戸惑う。そこで改めて気付かされる。
彼女の立ち位置の不自然さに。
僕と野々山の間には数メートルの距離と、高さ三メートルのフェンスがそびえ立っている。
つまり、フェンスの外側。一歩でも踏み出せば彼女の華奢な体は屋上から真っ逆さまに転落してしまう。
だから空の飛び方なのか。野々山は間違いなくそこから飛び降りようとしているのだ。
投身自殺を図ろうとしているのだ。
僕のトラウマにでも訴えかけたいのだろうか?
「……あなたにしか訊けない。……あなたなら空の飛び方を知っているもの」
「なるほどね」
知っていたのか。僕が屋上の合鍵を持っている理由を。
昨年の今頃、彼女と同じ場所に立ち、空を飛んだ僕を野々山は見ていたのだ。
自殺願望があったわけではない……と言えば嘘になるけれど、首席入学ではないにしても成績だって優秀だし、入学早々いじめに遭っていたわけでもなかった。
喩えるなら普通。どうしようもないくらいに普通の人生。
ただ退屈な毎日を惰性で生きているだけの自分が嫌だった。
そこで選んだ刺激が屋上から飛び降りて自分が生き残れるのか。そんな頭のねじが外れたような思想に至って、僕はあの日空を飛んだ。
今日のような晴れ渡る夕空の下で僕は人生の賭けを行った。
結果は言うまでもないだろう。
僕はこうして二年生に進級して相変わらず退屈な日々を送っているのだから。
映画シックスセンスのように自分が死んだことに気がついていないというオチがない限りね。
だから知っている。
そこから飛び降りても死に至ることがないことを。
華奢な彼女でも骨折程度の怪我で助かることを。
命に関わる怪我さえできないことを知っても屋上の合鍵を捨てられない僕はまだこの場所に何らかの未練を残しているのだろうか。
「自殺をしたいならそこは適切ではないな。経験者は語るってやつだよ。そこから落ちても下の植え込みがクッションになってせいぜい骨折するくらいで助かってしまう」
説得しているつもりは毛頭ない。彼女が落ちようと諦めようと僕には関係ない。
それにどうせ死なないし。助けようと思えばまた苦しむだけだ。
――あの日みたいに。
だから干渉はしたくない。いや、本当にそうだろうか? 僕はこんな日がくることをずっと待っていたんじゃないか?
あの日、噛みしめた無力な自分をやり直す機会を。
「……死にたいわけじゃない。……ただ空を飛びたいだけ」
「なら飛べばいい」
「……でもどうすれば飛べるのか私には方法が分からないの」
「僕だって知らないよ。知りたいならタイムマシンでも探して過去のライト兄弟に会ってくるんだな」
そう、僕は飛んだんじゃない。落ちただけなのだ。
無様に転落しただけなのだ。
この背中には空を自由に羽ばたける翼がないのだから。
不自由すぎるくらいに、僕らは地べたを這いずり回って生きていくしかないのだ。
去年、僕はそんな当たり前のことを思い知って絶望した。
心のどこかで、もしかしたら空を飛べるかもしれないなんて本気で思っていた。
「……そう、残念」
無表情は崩れないけれど、彼女が本気で落胆しているのは分かる。
「一度失敗してしまった僕で良ければ一緒に挑戦してみるか?」
「……え?」
フェンスを登り、野々山の隣に降り立つ。彼女は戸惑った様子で僕を見つめる。
そんな顔もできるんだな。こっちの方が人間らしいと思うぞ。
普段の彼女を知っているわけではないけれど、無表情の人形みたいな無機質な生き方よりはずっと魅力的だ。
もっと見てみたい。彼女の表情が崩れる瞬間を。
「せーので飛ぶぞ」
「……ん」
どちらからでもなく僕らは手を繋ぐ。
子どものような小さな手は震えていた。
恐怖を感じているのか、あるいは空を飛ぶことが出来る喜びに武者震いしているのか定かではない。個人的には後者であってほしくないんだけど。
そろそろ部活がある生徒以外は下校した頃だろう。窓の外を落下する生徒を見せてトラウマを植え付けるわけにもいかないからな。それに傷を負うのは僕だけで十分だ。
今なら誰も邪魔は入らない。あの日、落とし損ねた命をもう一度投げ出してみよう。
これで死んでしまうようなら僕の人生はそこまでだったと諦めがつく。せいぜい学校の怪談として第二の人生を楽しませてもらう。
「それでは私立紅白学園主催、空の旅へご案内いたします」
道化を装い、高らかに声をあげて。
手を伸ばせば届きそうな夕陽に向かって僕らは踏み出した。
「……せーのっ!」
ふわりと胃が浮き上がる感覚。
足場が安定していない不安感。
急加速する視界。
一年前と同じはずなのに、今回だけはひとつ違った。
だって僕の隣には小さな勇者がいたのだから。
あの日の未練から止まったままだった僕の物語は、この瞬間から再び加速するように動き始めた。