姫島政宗の無難な生き方
教室に入ろうと扉に手をかけたら、扉は向こうから勝手に開いた。別に自動ドアというわけではないぞ。うちの学園は確かに豪華な金持ち私立学園だけど、そこまで便利なわけじゃない。って、わざわざ言わなくても分かるよな。ちょっと敷地が広くて食堂や中庭、スポーツジム、屋内プールといった設備が充実している以外はみんなの学校とそんなに変わらないから、嫉妬せず読み進めてほしい。
内側にいた奴も無意識だったのだろう。僕らは当然のようにぶつかった。
「あ、ごめん」
自分が悪いわけではないけれど、条件反射で謝った。謝らないことで不愉快に思われることはあっても、謝るという行為で誰かを不快にさせることはあまりない。
これはつい最近、読んだ本に書いてあったことなんだけど、サッカーの日本代表が負けた試合のあとで淡々と試合を振り返る言葉に謝罪の言葉がないことに不満を抱いた視聴者がたくさんいたらしい。
別に彼らが悪いわけではない。彼らは持てる力のすべてを出し、それでも結果的に負けてしまっただけなのだから。
負けたことを謝るというのは、自分たちが本気を出していなかったことを遠回しに言っているようでもあるからね。
一方、フィギュアスケートの女性選手が演技の途中で転んでしまい、メダルを持ち帰れなかったことを取材で謝罪した。彼女は本気を出していなかったのか?
そうではない。
全力で演技をして、それでも失敗してしまったのだ。それなのに、期待してくれた国民の皆さんを裏切ってしまい、申し訳なかったと頭を下げたのだ。
彼女が謝ったことで不満を漏らす者は誰もいなかったそうだ。むしろ「よく頑張った」「次は期待している」など彼女を支持する声があがったくらいだ。
つまり、彼女は謝ることで信頼を勝ち取ったのだ。という内容の話だったのだけど、僕はそのことに深く感銘を受けて、それから自分が悪くなくても謝るようにしている。
中立の立場にいる平和主義者の僕にはちょうどいい考え方だからね。
こうしていれば少なくとも敵を作らずに済む。
ぶつかった際に転びそうになった相手の手を掴んで助けてやると、今度はその反動で相手は僕の胸に体を預けた。
ぴったりと胸に伝わる柔らかい感触は役得とありがたく戴いておくとして、そこで僕は初めてぶつかった相手を認識した。
野々山秋葉。
つい先程まで話題にあがっていた女子で、学園一の嫌われ者。
ここでひとつ疑問が浮かぶ。
彼女は教室から出てきたのだ。先程まで教室から一歩も出ることなく孤立してメロンパンを食べていた彼女が。
予鈴が鳴った後に。
教室に戻って来るなら納得できるのに、彼女はこれから教室を出て行こうとしているのだ。
いつまでも離れようとしない野々山から一歩距離を空けると、まるで壁にでも当たったように僕を一瞥して彼女は廊下へと去って行った。
……トイレか?
「学園一の美少女に抱きつかれた感想を一言どうぞ」
背後に殺気を感じた。
「釘宮よりはでかかったな……タップ、タップ!」
また首を絞められました。
そういったやり取りがあり、午後の授業が始まった。教室のど真ん中にある自分の席に座りながら、黒板を虚ろに眺めるあたり、僕の集中力は散漫だ。
視界の右側にいる釘宮がさっきから授業とはまったく関係ないことを(夢中になって教科書に何かを描いている集中力には感心するが)していることに呆れ、隣の空席に視線を移して小さく嘆息する。
あの後、野々山は戻って来なかった。
机の横に提げられたままの鞄を見る限り早退したわけではないだろうから恐らく……いや、確実にサボりやがったな。まぁ、今日の彼女の様子から分かっていたけれど、授業に参加していても寝ているだけだから、いてもいなくても変わらないんだけどさ。
それよりどうして野々山は僕の名前を知っていたんだろう?
……姫島政宗。
確かにあのとき、彼女は僕の名前を口にした。
始業式から欠席して自己紹介もろくにしていない僕の名前を彼女は知っていたことになる。
朝のホームルームで点呼をとる際に知ったのかもしれないけれど、周囲を拒絶し、他人にまったくの関心を持たない彼女が何故僕に声をかけたのかは未だに謎のままだ。
あのとき、彼女は僕に何を言おうとしていたのだろう?
自分のことを極端に悪とし、馴れ合いを拒絶するほどの彼女が、他の生徒の視線があるこの教室のど真ん中で僕に声をかけたのだ。
どれだけのリスクを伴うのか理解できないはずがない。
それでも僕に伝えたかった言葉には一体、どれほどの価値があるものだったのだろう。
気になって授業に身が入らない。他人に興味がない僕が、野々山のことばかりを考えさせられているようで居心地が悪い。そう考えると僕らは他人に興味がないという点で言えば似た者同士なのかもしれない。
生き方はまるで真逆だけど。
敵を作らない僕の生き方と、敵しか作らない野々山の価値観は根底から異なる。
だから彼女の生き方はひどく不器用で、不恰好で、無様で、滑稽に見えてしまうのだろう。
仮に「未来の自分」という課題の作文を書かされたのであれば、僕は原稿用紙三枚でも足りないくらいの嘘や理想を書き連ねてやる自信があるけれど、きっと野々山は一行で終わるんだろうな。
本質の違いだ。
僕は心の深部まで漆黒であり、彼女はどうひっくり返しても純白なんだと思う。
汚されることを知らない真っ白な人間。
それが野々山との短いやり取りで僕が受けた印象だった。
だから僕らは相容れない。
どちらかが生き方を変えない限り、同じ世界で生きていくことはできない。
……もううんざりだ。
自分に関係ない人間のことを考えるのはやめよう。
現実に戻ったとき、授業の終了を告げる鐘が鳴り響いた。
そこで僕はひとつ大きなミスに気が付く。
……あ、ノートとり忘れた。




