野々山秋葉の変わった生き方
さて、閑話休題。
そろそろ野々山秋葉の話をしようか。といっても、彼女はこの物語において無視できない人物というだけで、主役に抜擢した覚えはないのだけど。むしろ、僕はこいつのことを後に嫌いになるくらい知ることになるのだから。
先に言ったように僕が初めて彼女を認識したのはこの日の四限目が終わった後、つまり昼休みに入った頃だった。すぐ左隣の席だというのにそれまで気が付かなかったのかというツッコミはしないでほしい。
前半の休み時間はクラスメイトにノートを写させてもらっていたので、僕には彼女の存在に気付く余裕がなかった。
何より、授業中はほとんど眠っていた彼女の存在はまるで空気のように希薄だったからだ。
昼休みになり、新しいクラス内でのコミュニティは既にある程度定着しているようで、それぞれが仲の良い者同士でグループを作って机をつけて弁当を広げる者、学食(ここの学食は値段のわりにボリュームがあり、なかなか美味しいので人気がある)へ向かう者、人気スポットである広大な中庭へ向かう者に分かれている。
僕は弁当派でも学食派でもなく売店派なので購買部へ向かおうと腰を上げようとしたとき、一年生からクラスメイトの釘宮志穂に呼び止められた。今年もこいつに付きまとわれることになるのかと思うと今から億劫な気分になってしまう。
「ママ、今日も購買? なら一緒に買いに行こうよ。っていうかさぁ、ママって金髪似合わないよねぇ。しかも理由が失敗しただけとかマジウケるんですけど」
うるせぇよ、僕だって出来ることなら明るい茶髪にしたかったんだ。だからあまり髪型については触れないでくれよ。
「あれぇ? 無視ですか、コノヤロー!」
首を絞められました。
あと顎をしゃくるな。あの人を連想してしまうじゃないか。
「待て、締まってるから、マジで」
でも、背中越しに伝わる控えめではあるが柔らかな感触が僕の抵抗を妨げる。
「そして僕の身体の中心に血液が集まり熱膨張を始めていた」
「地の文に干渉した挙句に妙なナレーションを入れるのはやめろ!」
「えー、でもムスコは元気に……ふっ、チキンが」
反応していないだけでチキン呼ばわりされた!
「お前に魅力がない証拠だろう。あとママはやめろ!」
そもそも女子が食事時に下ネタを使うなよ! こんなところを誰かに見られたら変な誤解を招きかねな……
「…………じー」
めちゃくちゃ見られていた。しかも具体的には僕らのやり取りではなく、股間を。
しかもご丁寧に擬音までつけてガン見されていた。
「……………………じー」
「あの……?」
そんなに凝視しないでくれないかな?
恐縮して凝縮しちまうよ。ナニがとは言わないけれど、食事時だし。
「……姫島政宗」
「はい、そうです。僕が姫島ですが」
具体的にあなたが見ているのは姫島ジュニアにあたる粗末な代物ですけどね。
再びの沈黙。
食事時に変な話をして(釘宮が、だけど)すみませんでした! 自重しますからそんなに見ないでください、お願いだから!
婿に行けなくなっちゃう!
むしろ青春の手も届かないどこかへ逝ってしまう!
「……貰い手がいなけりゃ、あたしが貰ってやるから安心しなよ」
また許可なく地の文に干渉した釘宮に憐れむような視線と共に優しく肩に手を乗せられた。
お前は登場人物であって読者じゃないだろうとツッコミたいけれど、もう既にグダグダになってしまっているよな。
「悪いが僕にも選ぶ権利っていうものがあるからね」
「なにぃ?! 心外だぞぉ! そしてこれは失恋だぞぉ!」
「ボケるのか落ち込むかどっちかにしろよ」
このやり取りの間も隣の席の彼女はずっと無言で僕の股間に熱視線を送り続けた。確かに女の子にはないものだけど、そんなに興味深いものなのだろうか?
「行こう」
言いながら釘宮が僕の腕になけなしの胸を押し付けて教室の外へ促す。でも、それはいつもの釘宮の明るい声音ではなく、とても冷たい印象を受けるものだった。
無口の少女は釘宮の態度を気にした様子はなく、ただ席に座って何も書かれていない黒板を見つめていた。端から僕たちなんて眼中になかったのだと思ってしまうくらい淡白な反応に驚いた。
それが僕と野々山秋葉の出会いで、終始無表情を貫いた彼女への違和感を覚えた瞬間だった。同時に、普段は滅多に差別をしない平和主義者である釘宮志穂の侮蔑に満ちた視線を垣間見た初めての瞬間でもあった。
それが何を意味していたのかを僕はこの後知ることになる。
さて、ところ変わって一年生の頃から僕の昼食は屋上と決めている。
何故なら一人になれるからだ。
特定のコミュニティに属するということは時に敵を作ってしまうことがある。
味方の敵は敵、敵の味方も敵。これでは敵ばかり増えてしまうだろう?
どこにも属さず、誰とも深く馴れ合わなければ敵を作ることはない。常に中立。常に無関係の立ち位置というのは誰にも迷惑をかけられることがなく、自分への干渉を遮断できる絶対安全領域なのだ。『浅く広く』がモットーですから。
それじゃまるで社会不適合者だって? 世渡り上手だと言ってほしいものだね。
ちなみに屋上は普段、施錠がされているので誰かがやってくる心配はない。ただ、一人の例外として釘宮だけは僕が合鍵を持っていることに目敏く気が付いたので、秘密を厳守するという条件付きで共に食事をするようになった。
誰にも言わない条件として彼氏になって欲しいとお願いされたけど、それは即答で却下させてもらった。屋上の鍵を持っていることを知られたのだって細心の注意をしていた僕をこいつが巧妙な尾行術で追いかけてきたからだ。思えば入学式の日にこの屋上の鍵を盗み出して合鍵を作ってから、釘宮にバレるまでの期間はとても短かった気がする。
悪い言い方をさせてもらえば彼女はストーカーの才能がある。実際に話してみたら幻滅するくらい変態だったので、僕の即答は間違っていなかったと思う。その後しばらく机の中や靴箱に謎の脅迫文(お前の秘密を知っているぞ、というラストサマーかよとツッコミたくなるような怪文)が入っていて、僕の反応を陰からコソコソと窺っていた釘宮の姿に若干の恐怖を覚えた時期があるのは事実だけど、いろいろ話してみて分かったことは、こいつは変態で強引なところがあるけれど、根は良い奴だということだ。
雲ひとつない蒼天の下、僕らはフェンスに背中を預けて腰を下ろす。
同級生の女子と二人きり。
しかも、ここには誰の邪魔の入らない。まぁ、一人になりたい僕の邪魔をする奴なら隣にいるんだけどね。
「二人きりだね」
「ああ」
「寒いからそっちに行って良い?」
「……ああ」
「ぐふふ、あったかい」
「…………」
「ねぇ、ママ。あーん」
「だああああああああああああああぁッ!」
意図的な悪戯を感じる。これだけ全身隈なく鳥肌が立っているのは外が寒いせいだけではない。少なくとも釘宮にそんな潤んだ瞳で上目遣いをされて興奮するような健全な男子高校生ではないのだ、僕は。
別に釘宮を嫌いというわけではない。むしろ釘宮は背が小さく、童顔ではあるがパーツ自体は整っていて、男子にはかなり人気がある美少女だ。
しかし、だからこそ僕は警戒してしまう。
お世辞にも僕は美形でもなければその辺にありふれているような普通の(普通の定義って難しいよね)男子だし、今までの人生でモテ期というものがあった記憶もない。
どうして僕なのか。そしてそのモテ期が何故、今さら突然やってきたのか。
それが何か裏がありそうで彼女を信用できないのだ。いや、僕は他人を信用していないから、必要以上に踏み込んでくる奴を拒絶しているだけなのかもしれない。
……どうやら僕は変わり者に好かれる性格のようだ。
勢い良く飛び退いて釘宮との距離を空けると、特に気にした様子もなく彼女はフェンスの網に右手の指を絡ませて、空いた手で風に靡いた自慢の茶髪を耳にかける。その仕草が妙に艶かしい。
「風が、気持ち良いねぇ」
「いつまで恋人ごっこを続けるつもりだよ。それより、あいつと仲悪いのか?」
「あいつ? あたしがママ以外の男子に興味あるわけないじゃん。嫉妬かぁ? 可愛いなぁ」
「会話のキャッチボールをしようぜ。さっきの女子のことだよ」
あまり訊かれたくないことだったのか、釘宮は少し目を細める。自嘲しているようにも見える薄い笑みは一体、何を意味しているのだろう。
「ああ、野々山さんのこと?」
野々山……そうか、あいつが野々山秋葉なのか。
彼女の噂は耳にしたことがある。学園一のクールビューティーであり、同時に学園一の嫌われ者だとか。
美人が妬まれるのは仕方ないと思うけれど相当嫌われる能力に長けているようだな。いじめとか差別という子どもじみた思想を嫌う釘宮さえ敵に回してしまっているのだから、手遅れなまでに性格が悪いのだろう。
「別に仲が悪いわけじゃないよ。嫌うほど彼女のことを知らないし」
「じゃあどうして避けているんだ? お前らしくもない」
「正直言って苦手なんだよねぇ、ああいうタイプ。それと避けているっていうのはママの誤解だよ。正確にはあたしが避けられているの。あたしだって歩み寄らなかったわけじゃないんだよ。でも、完全に拒絶された。何ていわれたと思う?」
「話しかけないでくださいとか?」
拒絶っていうくらいだからこの辺が妥当な台詞だろう。
「それくらいだったらあたしだってめげずに話しかけに言ってるよぉ」
言われてみれば。
こいつに話しかけないでくれと返答したのは去年の僕だったな。確かに僕のときはそれでもめげずに、献身的にしつこいくらい付きまとってきたものだ。合鍵の秘密を知って脅してくるくらいの図太い奴だし。
それならどんな拒絶をされたのだろう?
僕が釘宮と接点を持ってしまったあの日、何と言えば回避できたのだろうか?
「『ウザイ、視界に入らないで。目が腐るから。あとうるさいから黙って。空気が汚染されて地球が苦しんでいるのがわからない? あなたは何故、そんな無駄なことばかりをするの? 地球の未来のために今すぐ消え失せた方がいいわよ』って。ちなみにそのときはカッターナイフを突きつけられていたから混乱しちゃった」
態度まで真似をしたのか、その表情はとても冷たいものだった。演劇部顔負けの名演技に思わず固唾を飲み込んだ。
冷酷で、残酷で、何を言われようと相手をしない。その意思がはっきり伝わる。
……きついな。一部のナイーブな奴が相手だったら自殺しているかもしれない。
「ふむ、視界に入るな。息をするな。消え失せろ。僕の歩く世界に踏み入るな」
「え、どうして真顔で復唱するわけ?! しかも若干酷くなってるし! まぁ、実際にはもうちょっと酷いことを言われたんだけど、人間って一定以上のショックを受けると記憶からそれを排除しようとするみたいだね」
なるほどね、嫌われるわけだ。
きっと野々山は釘宮だけじゃなく、声をかけてきた者すべてにこのような台詞を言ってきたのだろう。
だから、周りから孤立した。
しかも、自ら望んで。
「どうして高校みたいなコミュニティを無視できないところに来たんだろうな」
僕が言えることではないけどね。
「さぁね。さすがにあたしでもあのときは凹んじゃって枕と下着を濡らしながら妄想のママに慰めてもらっちゃった」
「勝手に妄想するな!」
フェンス越しに建つ校舎の二階には僕らの教室が見える。窓側の席で談笑している男子たちの奥、ちょうど教室のど真ん中に位置する自分の席で小動物のようにメロンパンを咀嚼する野々山を見つけた。
彼女の周りだけまるで空白の領域が存在するように誰もいない。
あいつはどうして孤独なんだろう。
何を恐れて他人との関わりを拒絶しているのだろうか。
それが少しだけ気になった。
本当に、ほんの少しだけ。
「ん?」
まるで僕らの視線に気が付いたように野々山がこちらに振り向いた。こうして遠くから見てもその端整な美貌が崩れて見えることはなく、無表情が一片も崩れる様子もない。
……見られた?
一瞬、ドキッとしたけれど、野々山は何事もなかったように再び黒板に向き直り、メロンパンの咀嚼を再開した。
とはいえ、もし発見されていたとしてもあいつが教師に告げ口するようには思えなかった。
だってあいつ無口だし。さっきの教室での様子だと、きっと僕らのことなんて全く興味ないだろうから。
昼休み終了を告げる予鈴が鳴り、僕らは教室へと戻る。
野々山秋葉がいる、あの教室へ。