因果応報
午後の授業が始まり、大きな雷の音にみんなが窓の外に視線を向けた。先程まで灰色だった雲は濃さを増し、真っ黒と言っていいくらい酷い天気になっている。
「うぇーん、雷怖いよぉ。もう帰るぅ!」
六限目は英語で僕らのクラスの担任、篠山楓が情けない声をあげて腰が抜けたのか床を這いずって教室から逃げ出そうとしていた。
キャラ崩壊もいいところだ。
教室から逃げても雷が止むわけじゃないのに、本当に雷が苦手なんだな、この人。
「先生、逃げても雷は止みませんし、教室内にいれば安全です。授業を続けてください」
しかし、クラス委員長の女子(実は名前を知らない)がそれを止めた。
この世の終わりみたいな顔で振り向いた楓先生は、情けない声で「ふぇ~」と鳴くと、教卓をよじ登って何とか立ち上がり、
「姫島くん、後は頼んだわ!」
とか意味不明なことをほざきやがった。
「あの、どうして僕なんでしょうか?」
「ちゃんと予習してきているでしょ? それに先生が教えるよりも姫島くんが教える方が上手いし、君は人気あるし、先生なんかよりもずっと……」
言いながら自分の傷口を広げた先生は静々と泣き出してしまう。
うわぁ、面倒くせぇ。職務放棄しようとした上に、生徒に責任を押し付けて自滅しやがった。だいたい、あんただって結構人気あるじゃねぇか。歳も若いし、雷を怖がるところなんて絶対に男子の中ではポイントアップしているはずだぞ。
「そういうことだから、みんな後は姫島くんに教わってね!」
転がるように(実際に見事な前転をして)走り出した楓先生は本当に教室から飛び出して行った。
沈黙。全員が状況を理解できず唖然としている。
あの女、マジで逃げやがった。
どうすんだよ、これ。という表情でクラスメイトの視線が僕に集まる。
いや、僕が訊きたいよ。どうすんだよ、この状況。教師が責任を生徒に丸投げして授業放棄なんて前代未聞だぞ。
隣に座る野々山が教卓を指差して早く行けと催促してくるので仕方なく立ち上がり、僕は渋々黒板の前に立った。
ネクタイを緩め、先程まで楓先生が教えていた部分を引き継ぐ前に。
「それでは僭越ながら僕が臨時で授業をさせてもらいたいのですが、異議がある人がいれば挙手を願います」
誰か、手を挙げてくれ。一人でも異論があれば、このまま全力で楓先生を追いかけて引きずり戻してやるからさ!
「マジで? 姫島くんが教えてくれるの?」
「姫島先生……カッコ良いかも」
「ちっ、また人気を上げやがって。でも、姫島よりも上手く教えられる奴いないからな」
「姫島先生、お願いします」
「秋葉たんは俺の嫁、俺の嫁、俺の嫁……」
「姫島殺す殺す殺すコロスコロスコロ……」
異議なしですか、ちくしょう! しかも最後の奴らに至っては未だに僕を逆恨みしているだけの輩だったよな。
仕方なく授業を再開した十五分後、生徒指導の如月渚先生に猫のように襟首を掴まえられた(捕まえられたともいう)楓先生が半泣きで戻って来たけれど、再び教卓に立つつもりはないようで、窓側にある担任の席を必死で引きずって廊下側へ移動させると、抱きしめていた毛布を被って丸くなってしまった。
どうしても僕がやらないといけないみたいだ。
その後、授業は滞りなく進行し、十五分も余裕を残して予定していたページを終えてしまったことで、完全に落ち込んだ楓先生は「もう帰る!」と泣き喚いたけど、雷が鳴った途端、毛布の中で震える子猫に戻った。
彼女には悪いけれど、このままホームルームが終わるまでは毛布に包まっていてもらおう。
時間が余ったので、これまでの授業で分からなかったところを質疑応答する時間にしようと提案して、クラスメイトの質問に答えていたときだった。
「ああ、それはジョンが――」
「きゃあああああああああああぁっ!」
隣のクラスから騒音と悲鳴が聞こえたので僕は口を止めた。クラスメイトも不思議そうに首を傾げていて、未だに毛布の中で震えて動こうとしない楓先生の代わりに僕が様子を見に行くことになった。
「失礼します。ちょっと騒ぎ過ぎですよ」
隣のクラスの扉に手をかけ、言いながらふと気が付いた。そういえば、このクラスには桜庭絵里香が所属しているはずだ。彼女がいながらどうしてこのような騒ぎが起きているんだろう? あの桜庭なら騒ぎが起きる前に鎮圧していそうなのに。
そして、僕はそれに気付くのが遅過ぎた。
荒らされた机は方々へ散らばり、生徒とこの時限を担当していただろう頭が禿げた先生(何ていう名前だっただろう?)は教室の隅に固まって震えている。その視線の先、教室の中央には明らかにうちの学園のものとは違う制服を着た男子が四人、鉄パイプやバットを持ってこちらに振り向いた。
彼らの前に勇敢に立ちはだかる桜庭の姿を見て、ようやく大体の状況が読めてきた。恐らく、これは世間様でいう『殴り込み』というやつだ。
「何だテメェ、コラアァッ?!」
絶妙な巻き舌でまくし立てるように不良の一人が僕にメンチビームを放つ。これがあの名作ゲームなら「ひぃっ」と腰を抜かして逃げて行くキャラになりたい。ここ最近は大きな事件がなかったから油断していたけど、僕の不幸体質は健在だったことが証明されてしまった。
「なんちゃって、テヘペロ☆」とか冗談を言って扉を閉めて、何事もなかったように教室へ戻りたいところだけどもう遅いよな。彼らは桜庭から僕に標的を変えたようだから。
我が学園の守護神、鬼の生徒指導で知られる渚先生はどこで何をしているのだろうか。こんなときこそあんたの出番だろう。楓先生を捕まえてきたときくらい迅速に駆けつけてほしいんだけど。
しかし、無いもの強請りをしている余裕はない。不良たちは僕を囲むようにして手に持った得物をリズミカルに床へ叩きつけているのだから。お前なんていつでもブン殴れるんだぞという顔で。
視界に入った桜庭がこの状況下でも慌てることなく落ち着いているのを見て、僕とは根本的に格が違うのだと思い知る。
「シカトこいてんじゃねぇ、コラアァッ!」
あんたら巻き舌上手ですね。僕にもご教授願いたいものだ。どうせ使う機会はないだろうけど。
「悪いが今は授業中だ。放課後になったら用件を伺うので、今は大人しく引き下がってくれませんか?」
一丁前の男は引き際を弁えているものだろう?
「あぁん?! テメェ何様だよ。喧嘩売ってんのか、コラアァッ?!」
喧嘩を売りに来たのはお前らだろう。被害者ぶってんじゃねぇよ。
喉まで上がった買い言葉を何とか飲み下して、出来るだけ相手を刺激しないように言葉を選ぶ。
どうにかしてここは穏便に済ませたい。僕はこの学園では優等生だし、何より今は野々山の補佐をしているのだから、ここで問題を起こすわけにはいかない。
「これは君たちの為にも言っているんだ。もうすぐこの騒ぎを聞きつけて、うちの学園で最も恐れられている先生がここへやって来るから」
「ナメてんのかテメェ? 先公なんて関係ねぇんだよ! 俺たちは大人の言うことを聞かねぇから不良って呼ばれてんだよ。半端な覚悟で突っ張ってんじゃねぇんだぞ!」
不良のくせに案外深いこと言いやがるじゃねぇか。ちょっと感心しちゃったぞコラアァッ!
他校ではそれでも良かったかもしれないけど、うちでその自分ルールを貫くのは自殺行為だと思うぞ。いや、マジで。如月渚という名前を聞いただけで逃げ出す奴がいるくらいなのだから。あの先生、一体どれだけ有名なんだか。
「……バカに何を言っても無駄。……痛い目に遭わないと分からないからバカなのよ」
いつからそこにいたのか、僕の背後に袖を抓んだ野々山がいた。
あんまり刺激するなよ。相手にするのが面倒だから渚先生という救世主が来るまでの時間稼ぎをしているんだから。
挑発に乗った不良どもが「あぁん?」と表情をさらに険しくさせる。
「おいコラ、テメェ! バカってのは俺のことを言ったのか?」
「……他に誰がいるのよ。……具体的にはあなたたちのことを言ったつもりなんだけど、頭だけじゃなくて目も悪いのね。……こんなところで暴れている暇があるなら、まずお医者さんへ行くべきじゃないかしら? ……もちろん頭の病院にね」
久々の毒舌だった。と言っても、僕が知っているのは釘宮の受け売りだから、本家の罵倒を見るのはこれが初めてなんだけど。さすがあの釘宮を落ち込ませただけあって迫力が違う。
目の前で罵倒された不良はまるで言葉という鈍器で殴られたようにたたらを踏んだ。僕の言いたかったことを見事に代弁してくれてすっきりしたけど、それは言い過ぎだと思うぞ。
「姫島くん、野々山さん。彼らをあまり刺激しないで」
僕は刺激してないんですが。野々山が起こした沈黙を破るように凛とした声で桜庭が間に入ると、不良どもはまるで示し合わせたように僕の顔を見た。
「姫島? お前が姫島なのか。そいつは捜し出す手間が省けたな」
こいつらはどうやら僕のことを捜していたようだ。でもどうして? 僕はこいつらの顔に覚えはないし、会ったこともないと思う。
不良どもは首を傾げる僕の疑問に答えてくれた。
「お前さ、こないだゲーセンで喧嘩したことを覚えてんだろ? ほら、始業式の日だよ。お前にやられた奴らはうちのグループなんだよ。それでうちの頭の土方さんがお前のことを捜し回ってんだよ」
ここでは明かされたくない真実だった。優等生を装う姫島政宗という仮面に亀裂が入った音が聞こえた気がする。教室の隅に避難している生徒たちからも困惑の声が漏れる。
まずい、今の僕は野々山の補佐をしている立場上、過去のこととはいえ問題が露呈するのは致命的だ。驚く生徒たちの中で唯一、表情を崩さない桜庭を見て、先日盗み聞きした新聞部室の会話が頭を過ぎる。
ちくしょう、そういうことか。あの日から抱えていた蟠りが解け、ひとつの真実が見えた。桜庭は新聞部に僕に関する調査を依頼していて、始業式の日に学園をサボって喧嘩していた情報を掴んだのだ。
そして、この不良が言う土方という男のことを知り、彼らに情報を提供したのか。さっき相手を刺激していないのに僕の名前を呼んだのは計算の内だったということ。
そこまでやるのかよ。こうなってしまえば今さら足掻いても無駄だろう。野々山への被害を最小限に抑えるために奥の手を使わせてもらうぞ。
胸ポケットに忍ばせていた封筒を取り出して、背後にいる野々山に握らせる。
「野々山、これを釘宮に渡せ。僕に預かったと言えば分かるはずだ。ついでに渚先生を呼んで来るように伝えてくれ」
「……何これ?」
「いいから行け、早く!」
困惑しながら小さく頷いて駆け出した野々山を追いかけようとする不良どもを遮るために入口の前に立ちはだかる。あとはどう時間を稼ぐかが問題だ。
「テメェ、何を企んでいやがる?」
「別に何も。幻想殺しの下準備だよ」
今から僕は必死に守ってきた『姫島政宗は優等生』という幻想をブチ壊す。どうせここまで明かされたら隠し通せるとは思わない。そもそも野々山と友達になったときに不良の烙印は押されているようなものだからね。後は時間との勝負だ。
「それで、土方とかいう奴が僕を捜しているんだって?」
ズボンのポケットに手を入れて注意を惹き付けた一瞬で時計を一瞥。放課後まで七分。陸上部で短距離走のエースをしている釘宮なら廊下を全力で走ればすぐにあの切り札を届けてくれるだろう。
不穏な会話を盗み聞きしたときに、念のために用意しておいてよかった。いや、よくはないか。結果的に僕が自滅することでしか状況を打開出来ないのだから。
「テメェ、あの女に何を渡した?」
「君たちに被害があるものじゃないから安心してくれ」
一番被害を受けるのは僕だし。さて、そろそろ釘宮は到着した頃だろうか? 出来れば授業が終わる前にこいつらを学園の外へ追い出したいところだ。
「それで、土方って奴はどこにいるんだ? こっちから挨拶に伺ってやるよ」
「ついてこい」




