忍び寄る魔の手
挨拶活動を始めてから野々山の支持率が急上昇した(新聞部集計)という記事が号外に載った木曜日の夕方。投票日まで四日をきって、桜庭陣営の動きも活発になってきたことに僕らは少し焦りを覚えていた。そんな放課後のことだ。
担任の篠山の手伝いを終え、偶然通りかかった新聞部の部室の前で僕はそれを耳にしてしまった。
「ふむ、確かに彼女の支持率は上がっていますが、彼はあなたほどのお方がここまで執心されるくらいの男なんですか?」
「ええ、立場が違えば間違いなくわたくしは彼を参謀に選んでいたでしょうね。それで、ここにわたくしを呼んだということは成果が出たということでしょう?」
凛とした声には聞き覚えがあった。盗み聞きをするつもりはなかったけれど、他人事とは思えない会話につい聞き入ってしまう。
「ええ、例の情報は手に入れましたよ。それも、これ以上にないというものを」
「うふふ、それなら」
「おっと、その前に後払いの報酬を戴かないことにはお渡し出来ませんね」
「……しっかりしていますわね。約束の物はここにありますわ。お好きになさい」
「うはー☆ これこれ! あぁ、こんなアップの物はなかなか手に入らないんですよ!」
荒い鼻息がここまで届きそうだ。
「それにしても、こんなものはあなたであれば簡単に手に入るでしょう?」
「いや、それが私は警戒されているのか、なかなか用心深くて。あ、そうそう。これが例のブツであります」
「これは……予想以上の情報ですわね」
扉の向こうでそいつが不敵に口元を歪めたのが見えるような声だった。
このやり取りが後に僕らの上手くいっていた歯車を狂わせることになるなんて、このときは知る由もなかった。
翌日、僕は肩に吸い付くたらこに起こされた。もうこの程度の寝起きで驚くことがなくなった僕はチキンを卒業したと喜ぶべきか、そういう寝起きしかできないことを嘆くべきなのか分からない。非常事態に免疫が付き過ぎている気がするのが少し虚しい。
野々山の支持率は今や桜庭と並び、コンマの下のパーセンテージを競っている状況だ。もちろん、元から支持率が高かった桜庭に比べ、短期間にこれだけの支持を集めた野々山に勢いは傾いているだろう。勝算がないと思っていたけれど、これならもしかして本当に奇跡を起こせるかもしれない。
っていうか、そろそろ起きろよ。いつまで僕の肩に吸い付いているつもりだ?
頭を押して剥がそうとすると、吸引力が増した。寝ているのに器用な奴だ。でも、吸引力が落ちないのは世界でダ○ソンだけで十分だからね。
この一週間でキスマークがなかった日がないというのは他の男子から見たら羨ましい悩みなのだろうが、恵まれ過ぎるというのも考えものだぜ?
諦めて視線を逸らすと、就寝時には僕の部屋のオブジェと化す釘宮(おはようのチュー強奪事件以来、部屋の隅に磔にしている)の右腕が拘束から解放されていた。
地味に恐怖を覚えた。こいつ、寝相で拘束を解きやがった。完全に縄抜けをする日はそう遠くないのかもしれない。もしそうなったら、僕の貞操は人生最大の危機を迎えるだろう。
そういえば、この選挙が終わったら釘宮にはちゃんと告白の返事をしないといけないよな。いつまでも彼女の純粋な好意を弄んでいるようで悪いし。
小さく嘆息をして視線を戻すと、野々山の目が開いていた。
「いつまで吸い付いているつもりだ?」
「……志穂に惚れた?」
ちゅぽんと音をたてて口を離した野々山の一言目がこれだ。おはようとか、他に言うことはないのかよ。
「どうしてそうなる」
「……志穂のこと見てた」
ああ、見ていたとも。警戒の意味でね。
「僕に惚れているのはあいつの方だろう」
「……じゃあ政宗は志穂に惚れてないの?」
「こいつの生き方には惚れるけどな。真っ直ぐで眩しいくらいだ。でもそれと恋は違う」
「……政宗はどんな女の子がタイプなの?」
「誰かを好きになったことがないから、そういうことは分からないな。一年生のときは神宮寺先輩に憧れていたけれど、それも恋とは違ったんだと思うし」
好きな女性のタイプに一番近いのは可憐さんかもしれないな。美人だし、家庭的だし、気が利くし、話し上手だから。っていうか、結婚してくれないかな。
でも、野々山家に泊まったときにお出かけのチューを叱られたくらい野々山はシスコンだから口にしない方が身のためだろう。
「……ふーん」
それだけかよ。
「強いて言うなら一緒にいて退屈しない人がいいかな」
「それならあたしにもチャンスがあるってことだね!」
「お前、いつから起きてたんだ?」
釘宮に対する気持ちを聞かれてしまっていないか不安になった。ばっさりと恋とは違うと否定しちゃったからな。この反応を見る限りは聞かれていないようだけど。
「早く解いてよー。最近、変な姿勢で寝ているせいで部活に影響出ているんだよ!」
確かに酷いことをしている自覚はあるけれど、こいつを夜に僕の部屋で解き放つのはリスクが高すぎる。
「じゃあ大人しく自宅へ帰れよ」
「ママがあたしに惚れたら帰るよ」
一生オブジェの人生を送ることになるぞ。
今日も僕たちは挨拶活動をするために早めに家を出る。天気は曇天。携帯の天気予報では夕方に降り出すそうだ。
校門に着くと、ちょうど反対側からやってきた黒塗りのリムジンが停車した。初めて実物の高級車を見たからちょっと興奮する。壮年の運転手が降りて後部座席を開けると、予想通り日傘を手にした桜庭絵里香が降りてきた。桜庭財閥の娘ということは知っていたけれど、まさかこんな豪華な登下校をしていたとは。
「あら、野々山さん、姫島くん。ごきげんよう」
ごきげんようなんて台詞を平然と言える奴がいるんだな。釘宮もいるのに、今回も華麗にスルーしやがったし。
「おはよう桜庭。いつもより遅い登校じゃないか」
ごきげんようという挨拶に対する礼儀なんて知らない庶民の僕は皮肉を返しておくことにした。いつもは僕たちよりも早く登校して挨拶活動をしているはずの桜庭が遅れてきた理由が気にならないわけではないけれど、彼女はあっさりと皮肉を聞き流し、僕らと対面する位置に立つ。
ただ日傘をさして立っているだけなのに、どうしてここまで優雅に見えるのだろうか。きっと野々山が同じことをしたら蓮の葉を傘にした中ト○ロにしか見えないと思う。無表情なところとかそっくりで可愛い。なんて言ったらたブン殴られるので黙っておこう。
隣で無表情を崩さずに「……おはようごじゃいましゅ」(あ、噛んだ)と挨拶している野々山を見て思う。
もう少し愛想良く出来ないのかね。それなのに支持率が上がるのだから不思議だよな。
午前中の授業が終わり、野々山のノートと釘宮の教科書に落書きがいくつか増えたが、先日のテストを乗り切ったこともあるし、大目に見てやろうと懐の広さを見せた昼休み。
曇天の下、僕らはいつものように体育館裏で弁当を広げていた。雨が降りそうだから教室で食べようと釘宮が提案してくれたけど、今は駄目だと僕が断ったのだ。
教室で昼食をとれば、今の野々山が持つ支持率では嫌でもクラスメイトに囲まれてしまう。そうなれば派閥が生まれてしまい、桜庭を支持する派閥との争いが起きてしまうからだ。選挙は競うものであって争うものではないと僕は考えている。一時的とはいえ、一度争ってしまえば関係を修復するのは難しい。一票でも多くの票が欲しい状況ではあるが、野々山が目指す『みんな仲良し学園』を作るためにはこういった準備段階から争いを避ける必要がある。という考えを話したら二人とも快く頷いてくれた。
もし野々山が当選しなかったとしても、ぎくしゃくした学園には通いたくないからね。
「ママ、あーん」
「…………めっ!」
「なんでさ?!」
「……協定違反よ」
「くっ、これも停戦協定が解けるまでの辛抱か……」
一体、どんな条件の協定を結んでいるのか気になるけれど、こういった行為を回避できるなら一生停戦してくれないものだろうか。不本意ながら学園の美少女ランキングに名を列ねる女子を二人も股にかけている僕は敵が多いのだから。特に男子に。
僕が敵を作らない生き方を変えてまで挑戦している選挙なんだから、願わくば当選したいよな。まぁ、当初の目標だった野々山のイメージアップは成就しているわけだから贅沢な願いなんだろうけど。




