姫島家のノリが良い女たち
放課後になり、野々山のノートに落書きが二つ増えていたことに軽くツッコミを入れた僕は荷物をまとめる。
あれから釘宮は一度もこちらに振り向くことなく、帰りのホームルームが終わった途端に部活へと走って行ってしまった。よく走る奴だ。さすが陸上部と感心したのは嘘だ。
そんなわけで僕と野々山の恋人疑惑が晴れることがないまま、周囲の視線を集めながら廊下を闊歩する。一歩後ろで袖を抓む野々山は僕の中では既に装飾品扱いだ。呪いのアイテムみたいなものだよ。
『姫島政宗は野々山秋葉を装備した』
『呪われた。外すことが出来ません』みたいな。
そう考えると、触ると呪われるという噂はあながち間違いではないのかもしれない。
「……今日もうちに来る?」
「ああ、だけどその前に一度自宅に戻るよ」
一年生のときに使っていたノートを持って来ないと話にならないからな。それに、姫島家の家族もちゃんと紹介しておかないと、完全にモブキャラ扱いにされてしまい、ただでさえ僕のキャラが薄いのに姫島家のキャラの薄さが際立ってしまう。
まぁ、妹はかなりキャラが濃いからレギュラー入り濃厚なんだけど、母さんに至っては電話の対応専門のモブキャラになりかねないのだ。
「……ん」
小さく頷いた野々山は先に自宅へ戻る。というのが理想だったのに、どうして袖を放さないのでしょうか、あなたは?
「おい、放せ」
「……今度は私が政宗の家に招待される番」
順番とかあったんですか? いや、それよりもこの流れはまずいぞ。
「だが、断る!」
「……大丈夫、えっちな本を見つけてもみんなには内緒にしてあげるから」
そういう問題じゃねぇよ! それにみんなって誰のこと言ってんだよ。僕以外に友達がいないくせに変なところでつまらない見栄を張るなよ。見苦しいことこの上ない。
「……もしもしお姉ちゃん、今日は政宗の家に泊まるから」
「待てコラアアアアアアアアアアアァッ!」
「…………ぷつり」
本当に通話終了のボタン押しやがった。
「……ん、これで大丈夫」
「どの辺が大丈夫なの?! むしろお前の頭が大丈夫か?! いろんな意味で手遅れになっているじゃねぇか!」
こいつは常に僕の想像の遥か上を行くブッ飛んだ思考の持ち主なのだと痛感する。
「……そんなに嫌がられると、もっと行きたくなる」
「ドSか、お前は?!」
「……着替えを取りに行くからついて来て」
「おい待て、話聞けよ!」
自慢じゃないけど僕は生まれてから一度も友人を家に招いたことがないんだぞ! 招く友人もいなかったのだけど。しかもそれが女の子となると条件はさらに厳しくなる。
泊まるだと? 論外だッ!
そもそも常識人の可憐さんがそんなことを認めてくれるはずがないじゃないか!
「それじゃ政宗くん、秋葉をよろしくね」
「……ん、よろしくお願いします」
「…………」
何が起きているんだ?!
野々山家に到着した僕は、可憐さんの予想外の反応に絶句した。しかも、何このでかい荷物? 女の子のお泊りってこんな移動民族みたいな荷物が必要なのか? それじゃ修学旅行とか大変だよな、同情するよ。
「今日から秋葉のことをよろしくね」
満面の笑顔でそんなことを言う可憐さんの日本語が、今だけは理解できない。ニホンゴムズカシイデスネ。つーか、理解できる奴がいるなら解説してもらいたい。
今日から? ちょっと待って、まったく話についていけないぞ。そしてとても嫌な予感がする。この展開は不幸が待っている可能性が高いと、昨日今日で備わった自己防衛本能が告げている。
「あの、ひとつ訊いてもいいでしょうか? 野々山には何て聞いているんですか?」
電話では少なくとも今日は泊まるとしか言われていないはずだ。あの短い通話のやり取りで姉妹にしか分からない意思疎通があったのだろうか?
「月曜日にテストがあるから、それまで一日中付っきりで秋葉に勉強を教えてくれるんでしょう? 秋葉の成績には私も前から困っていたから、政宗くんの厚意はとっても嬉しいわ」
あんた、エスパーですか? つまり僕は今日から六日間、こいつを我が家に泊めて勉強を教えないといけないらしい。っていうか、一日中? もちろん学園に通いながらですよね?! いや、そもそもまだ許可していないんですけど! って言っても聞く奴らじゃないよな……。
そんなわけで可憐さんの美しい笑顔に見送られて歩くこと約十分。
僕らは今、姫島家の門前にいる。ついに来てしまったというか、やっとの思いで辿り着いたというべきか。春なのに滝のように流れた汗のせいで、制服が体に貼り付いて気持ちが悪い。
というのも、可憐さんが用意してくれた登山家ですかお前は?! とツッコミを入れたくなるような一週間分の荷物をここまで担いで歩いてきたのだから仕方ない。だって野々山がこれを背負ったら背骨とか折れそうだし。いや、マジで。
「……ここが政宗の家?」
「普通の一軒家で悪かったな。生憎、僕の家庭はそこまで裕福じゃないんだよ」
アパート暮らしをしているお前に言うことじゃないか。少なくとも、親が同居しているだけでも僕は幸せ者だろうし。
そういえば野々山はどうして可憐さんと二人で暮らしているんだろう? 考えてみればこいつの両親の話は何も聞いたことがない。まぁ、家庭の事情なんてものは人それぞれだよな。
玄関の戸を開けると、ちょうど妹も学校から帰って来たところらしく「あ、お兄ぃ、おかえ……り?」と首を傾げた。だってこの荷物だしな。
登山用リュックの陰に隠れていた野々山がひょっこりと前に出て丁寧にお辞儀をした。
「……野々山秋葉です」
妹こと姫島このみは今年中学三年生に進級したばかりで、バスケ部の部長をやっているだけあって身長が高く(今は僕より高い)、兄である僕が贔屓目に見て美少女の部類に入るだろう。ショートカットの髪型は、引退したら伸ばすのだと豪語していた。性格は一言でいうと破天荒。唯我独尊をそのまま体現した少女が、このみである。
「あ、どうも姫島このみです。お兄ぃの妹してます」
そんな破天荒な妹が、あまりに唐突な美少女の登場に本分を忘れて普通に自己紹介してしまうくらい衝撃的だったのだろう。いつもならもっと派手な自己紹介をする奴なんだけどな。
「……花嫁修業に参りました」
おいこら、どの口がそんな笑えない冗談を抜かしやがる。頬を掴むと、野々山はひよこのように唇をパクパクと動かした。
「お、お母さーん! お兄ぃがお嫁さん連れて帰って来たー!」
お前はお前で素直に受け入れて誤解を広めるなよ! どう考えてもありえないだろ!
ああ、ほら。母さんが台所で何かをひっくり返した音が玄関まで響く。そりゃ驚くよ。何せこの歳まで色恋沙汰とは無縁だった長男がいきなり嫁を連れて帰って来たら、台所も大惨事になるだろう。
ダダダッと家内を全力疾走する足音が聞こえて、直後にエプロン姿の母さんが廊下に滑り出してきた。勢い余って壁に激突してしまい、軽くふらつきながら玄関の前で息を切らす母さんこと姫島春江は息子の僕から見てもかなり見苦しい。というか、情けない。確かに第一印象はインパクトが大事だけど、母さん……それは失敗だって。
野々山もさすがに驚いたのか、瞳をぱちくりさせているけれど、すぐに我に返って丁寧にお辞儀をする。はじめてのお遣いを見ているような気分で何故か心が和んだ。
「……野々山秋葉です」
「あらあらまぁまぁ。あなたが政宗の?」
おい、完全に近所のおばさんの反応になっているぞ。それにあなたが政宗の、何なんだよ?
まさか本当に嫁を連れてきたと勘違いしているわけじゃないよな?
「母さん、いきなりで悪いんだけど、今日からしばらくこいつを泊めてやってくれないかな?」
無理だよな、無理だと言ってくれ! 幼い頃に僕が拾ってきた子犬とはわけが違うからな。ちなみにその子犬は現在、老犬になっていて、リビングでゴロゴロしていることだろう。
「……よろしくお願いします」
再び丁寧にお辞儀をした野々山を見て、母さんは「あなたたちはまだ高校生なんだからそれはまだ早いわよ」と諭してくれる。はずだったのだけど。
「こ、こちらこそ狭い家でローンがまだ十五年ほど残っておりますが寛いでいってください」
と頭を下げた。いや、混乱しすぎだろ。
隣ではこのみがお義姉さま! と野々山と固い握手をしている。兄を持つ妹としては、姉というものにただならぬ憧れを持っていたようで、その瞳は無駄に輝いていた。いや、でもさぁ。
「二人とも、こいつは別に僕の恋人とかそんなんじゃないからね。来週の実力試験でこいつの成績を上げないといけないから、そのためにしばらく勉強を教えてやるだけだから」
「政宗が女の子を家に連れて来たことに意味があるのよ! 今夜は赤飯ね」
「うおー、やった! 赤飯だぁ!」
どうやら僕の苦悩は続くらしい。
「あ、でも部屋空いていないよな?」
「……政宗の部屋でいい。……そうじゃないと泊まりに来た意味がない」
おいおい、それは問題発言だろう。目の前に母さんいるんだぞ。
「じゃあ布団は後で政宗の部屋に持って行くからね。夕飯は今から作るから、ちょっと遅くなると思うけど大丈夫かしら?」
「久々のご馳走だ!」
「……ん」
「ちょっと待て。どんだけ性教育に寛容な家庭なんだよ、姫島家!」
野々山家に勝るとも劣らない非常識な家庭がこんな身近にあるとは思いもしなかった。っていうか自宅だし。いいのかよ、それで。
色々とツッコミたいけれど、混乱状態の彼女たちに何を言っても仕方ない。少し時間を置いて冷静になったところで改めて部屋を用意してもらおう。それより今はこの荷物を下ろして風呂に入りたい。
「野々山、ちょっと風呂に入りたいからリビングで待っていてくれ」
僕も正直、ここまであっさり受け入れられると思っていなかったので頭の中を整理したい。野々山をリビングへ案内すると、ソファの隣で丸くなっていた愛犬ゴールデンレトリバーのエリザベス(このネーミングセンスの悪さはこのみによるものだ)がぴくりと反応してこちらに振り向いた。
元々、捨て犬だったエリザベスはとても気高い女性だ。ベタベタ触られることを嫌がるし、自ら他人に歩み寄ることもしない。人の善悪を見抜く目を持ち、悪徳セールスの撃退にはとても役立つ我が家の頼れる用心棒でもある。
こちらを一瞥したエリザベスは、ふんと小さな溜息を漏らして再び丸くなる。長い間、家族をしているから分かるのだけど、彼女が言いたいのは「おや、政宗かい。女連れとは大そうなご身分になったものだねぇ」で間違いないだろう。野々山にまったく興味を示さない辺りがとても彼女らしい。
「……ん」
何故か野々山が構えていた。もしかして犬が苦手なのだろうか?
「野々山、警戒しなくてもいいぞ。エリザベスは気高い女性だから無意味に噛まないし、何よりじゃれるのが嫌いなんだよ」
「……えりざべす?」
「彼女の名前だよ」
「ただいまー! エリザベスぅ!」
早速、妹に絡まれて迷惑そうな顔をするけれど、エリザベスはこのみを家族と認めているので抵抗はしない。
恐々といった様子で野々山が歩み寄ると、尻尾が敏感に反応した。エリザベスの前に膝をつき、目線の高さを合わせた野々山は丁寧に頭を下げる。大和撫子のような洗練された礼だ。相手が犬であろうと、世話になる家の家族ならば失礼があってはいけないと考えたのだろう。
結構、律儀な奴だな。
「……野々山秋葉です。……今日からしばらくお世話になります」
人間の言葉なんて理解できないと思われがちだけど、エリザベスは聡明な女性だ。悪口を言われれば機嫌を損ねるし、ちょっとツンデレ気質だけど褒められれば喜ぶ。
野々山の誠意だって理解しているだろう。だから、エリザベスも立ち上がる。野々山に顔を擦りつけて彼女の誠意に応えた。
「良かったな、野々山。彼女もお前を認めてくれたみたいだ」
本当に良かったな。エリザベスが家族以外の者を認めることなんて滅多にないんだぞ。
こっちは心配なさそうだな。
「それじゃ、ちょっと風呂入って来る」
「……ん、今日は一緒に入る?」
今日はって何ですか? まるで昨日、僕が野々山家に泊まったときに混浴したと誤解されるようなことを平気で言わないでくれる?
「お兄ぃはもう大人の階段を上がっていたのかー! あたいは嬉しいような、置いて行かれたような複雑な気分だぜ」
補足しておくけれど、妹は男の子口調だ。だから彼氏ができないんだよ。
「僕がいつお前と一緒に入浴したんだ? 純粋な妹の前で僕らの関係を捏造しないでくれよ」
お前は一体、この家でどんな存在になりたいんだよ。