お弁当パニック!
「あとで勉強教えてやるから。とりあえずここで食べようか」
「……ん、その前にちょっとついてきて」
袖を引っ張られて向かった先には移動パン屋のワゴン車が停まっていた。このパン屋は平日の十一時から夕方の五時まで学園の中庭の隅に来ていて、野々山の話によると早弁の生徒のために十時頃には学園の外に待機していることを知っているのは通の証だそうだ。
こいつが昨日食べていたメロンパンはここで購入したもので、一個百円という若者の財布に優しい価格設定と、移動パン屋なのにワゴン車の中にオーブンを設置しているので新鮮な味わいを楽しめることで密かな人気があるらしいけど、早弁の定刻を知っている野々山って何者なんだろうと疑問を抱く。
「やあ、秋葉ちゃん。今日は早弁なしだったんだね。メロンパンでいいかい?」
「……ん、三つください」
常連だったのかよ! つーかお前、どんだけメロンパン好きなんだよ。
焼きたてのメロンパンを紙袋に包んでもらい「彼氏ぃ?」とからかわれながら中庭のベンチや芝生が既に生徒で埋まっていることに気がついた僕らは仕方なく体育館裏へ戻ってきた。なんか便所飯くらい後ろ暗い気分になるな、ここ。
メロンパンが入った紙袋を抱きしめた野々山の手には二つの弁当箱がある。
あれ、二つ? ひとつしか生き残らなかったのではと思う方もいるだろうから、ここで補足しておくと、もうひとつの弁当箱はあの後可憐さんが作ってくれたものだ。
つまり確率は二分の一。そして、青い布に包まれたものが爆心地の英雄、桃色の方が可憐さんの愛情たっぷり手作り弁当となっている。ここはプライドをかなぐり捨てて桃色に手を伸ばしたいところなんだけど、そう上手くいかないのが人生というもので、野々山は青き英雄を僕に差し出した。
この英雄たちは野々山が自発的に弁当作りに挑んだ謂わば彼女の愛の塊だ。というよりも、まさに愛のバクダンってこのことを言うんじゃないか?
中身にどんなダークマターが潜んで僕の命を狙っているのか分からないけど、それでも野々山が一生懸命に、台所を爆心地に変えてまで作ってくれた弁当なのだ。
それに美少女の手作り弁当だぞ。男なら黙って受け取り、逝くべきだろう。
黙って受けと……
「野々山、せっかく二つあるんだから二人で分け合おうぜ」
いや、軽蔑しないでくれ! あの爆心地を直に目撃した後ではお前らも絶対に躊躇するって! 僕ひとりで逝けるか、バカ野郎!
「……嫌」
「いやいやいや、何ひとりで助かろうとしてやがる?! お前が作ったんだろ?」
「……私はまだ、死にたくない」
僕だって死にたくないよ……。
お前がそこまで頑なに拒むとさらに弁当を開ける勇気がなくなるじゃないか。自分自身を説得して、妥協まじりではあったけれど勇気を振り絞った僕の思考時間と優しさを返せよ!
「そうはいくか! 僕たちは友達だからな。死ぬときはお前も道連れだ!」
醜いなすり合いは約十分に及んだ。結局、「……政宗のために一生懸命作ったんだから政宗が全部食べるの」という彼女の上目遣いに根負けして、英雄は僕の下に舞い降りた。
「……開けるぞ」
「……ん」
別に爆弾が入っているわけでもないのに、僕らは息を呑む。弁当の包みを解く手が、心なしか震えているのが自分でも分かる。まるで玉手箱と分かっていながら自宅に着く前に開けることを強要されている気分だ。
もし本当に煙が出てきたらどうしよう? あの爆心地から生まれたものだから、その可能性は否定できない。
弁当箱の蓋に手をかける。自然に訪れる沈黙。野々山と顔を合わせて無言で頷き合う。
よし、ここまできたら覚悟を決める!
僕は思いきって地獄の扉を開いた。
「「…………」」
煙は出なかった。いや、期待していたわけじゃないけどさ。本当に煙が出ても困るし。
色々な意味で僕の期待を裏切る弁当がそこに詰まっていた。
なんていうか、普通なのだ。
あれだけの大惨事に発展した弁当の生き残りだから、僕はてっきりダークマターが所狭しと詰められていて、マグマのようにボコボコと奇妙な熱気と泡を生産している何かを想像していたのに。だって、台所を爆心地に変える物語のヒロインが作る料理って大抵はそんな感じの得体の知れないものだと相場が決まっているだろ?
それなのに、同じ爆心地出身の野々山秋葉が作った弁当は普通なのだ。綺麗に焼けている厚焼き玉子、彼女の手の平サイズ(小さいという意味で)のハンバーグは丸焦げになっていないし、脚を作り過ぎだとツッコミたいタコさん(?)ウインナーは脚がやたら多くて気味が悪いだけで至って普通だ。から揚げやエビフライも良い感じの狐色だし、ご飯は……まぁ失敗のしようがないよな。白いご飯の上にハートを意識したのだろう歪な模様の鮭フレークが野々山の可愛らしさを主張している。
愛妻弁当のような乙女心がそこには詰まっていた。でもハートってお前。もしかして僕のこと好きなわけ?
……それはないか。どうせ可憐さんのアドバイスだろう。しかし、まだ油断してはいけない。
いくら見た目がまともでも、一口含んだ瞬間に相手を絶命の淵に追いやるスペシャル暗殺弁当を作るヒロインだっているからな。
ん、いや待て。そもそもこいつはヒロインじゃない。と、思いたい。
確かにこんな美少女とキャッキャウフフ(死語)できるとすれば男冥利に尽きるというものだけど、どう考えてもそれはないだろ。
こいつと恋人になるなんて想像できねぇ。むしろ主人とペットという主従関係の方が妥当であり、健全だ。そもそも野々山が男子と仲睦まじく交際している姿なんて想像できないし。
同じ美人で選ぶなら僕は断然、可憐さんをヒロインに推すね。っていうか、嫁にしたいくらいだ。それに、これまでの物語の流れ的に一番ヒロインに近いのは野々山じゃなくて釘宮だろう。さっき告白みたいな言葉も聞いてしまっているわけだし。
というわけで、この弁当は危険度が低い。
「……あーんしてあげようか?」
「どうして僕がお前とそんな恋人みたいな茶番をしなきゃいけないんだ」
「……むぅ」
何故か膨れてしまった。さて、この弁当の危険性が低いことが分かった今、躊躇する必要なんてない。冷静に考えてみればあの爆心地には可憐さんもいたのだ。可憐さんが手取り足取り指導して出来上がった弁当なんだから、何を恐れることがありましょうか!
箸を手に取り、まずは無難にギザギザハートの子守唄ご飯を口に含む。うむ、鮭ご飯最高!
続いて厚焼き玉子を口に含んだ瞬間、事件は起きた。
「……ッ?!」
「……どう?」
不安そうに僕の顔を覗き込む野々山の無表情が、一瞬ノイズが走ったようにブラックアウトする。可憐さん、あなたがついていながらあの爆心地では一体、何が起きていたんですか?
第一印象は硬かった。厚焼き玉子のはずなのに、石のように硬かった。そして何故か辛かった。「からい」と「つらい」という両方の意味で。
「うむ、お前も一口食ってみろよ」
できるだけ平静を装い、何とか噛み切った厚焼き玉子を野々山の(可憐さん作)弁当の上に乗せる。
これって間接キス? なんて邪心は微塵もない。僕が普通に食べたことで警戒を緩めた野々山は「……ん」と何の疑いもなくそれを口に運んだ。
ふっ、かかったな。
「……ッ?!」
無表情で涙目になるという器用な顔で野々山は僕に振り向く。
お前にも分かっただろう、その衝撃が。
「……ぺっ」
「出すな! そして僕の弁当箱に返すな!」
ああっ! この中で唯一まともな鮭ご飯が野々山の唾液に汚された!
「……何これ?」
僕に訊くなよ、お前が作ったんだろうが! 行儀悪くぺっぺと唾を吐き散らして野々山は目尻に溜まった涙を指で拭う。よほど口に合わなかったらしく、パック牛乳でうがいを始めたくらいだ。こいつ、頑固者のくせにプライドが欠片もないな。思いながら、僕はタコさん(笑)ウインナーに箸を伸ばす。
「……(笑)?!」
こら、地の文を読むな。釘宮といい、世界観を平気で無視する奴らだなぁ。もし僕が地の文で野々山好きだ、愛してるなんて言ったらこいつはどんな反応をするのだろうか? といっても、それは朝目覚めたら虫になっているくらいありえないことだけど。
さあ、タコさん(笑)ウインナーはどんな衝撃を僕に与えてくれるんだろうか?
一発目の味覚が刺激的すぎたせいでなんだか楽しくなっていた。
今度は硬くない。食感はウインナーそのものだ。っていうか、厚焼き玉子の食感がおかしすぎただけだよな。そして気になる味は。
「……甘い」
手緩いな、と強者ぶったわけじゃなく、文字通り甘いのだ。しかも、砂糖系の甘さではなく、柑橘類の独特な甘さを感じる。どう調理すれば肉が柑橘類に進化するのか、是非教えていただきたい。石厚焼き玉子と合わせて学会に発表したら間違いなくノーベル賞を受賞できる大発明だ。
こいつってある意味天才なんじゃないか? バカと天才は紙一重って言うけど、まさにその通りだよ。
いつかこいつがテレビに出る姿が何となく想像できる。事件を起こした犯罪者としての未来を含めてだけど。
甘いという言葉に反応したのか、野々山はまたしても僕の食べかけのタコさん(笑)ウインナーに箸を伸ばす。またしてもと言っても今回は自発的だけど。やっぱり女の子は甘いものが好きなのかな。男子が一度口を付けたものでも躊躇しないところはどう見ても乙女とかけ離れているけどな。
「……うむ」
うむ、じゃねぇよ。何だそのどや顔は。明らかに失敗作だからな、これ。
嘆息しながら今度はハンバーグに箸を伸ばす。元々一口サイズなんだけど、野々山が手をつける可能性を考慮して半分に切り分けておこう。箸で切り分けられたってことは硬くはないな。そして、徐に口に運ぶ。
さて、今度はどんな味のイリュージョンが待っているのか。辛い、甘いときたら次は苦いがくると覚悟していたのだけど……。
「ぐはっ、熱いッ?!」
どうして調理から六時間近く経過しているはずなのにこんな熱いんだよ! 灼熱の太陽を頬張ったような贅沢な気分だぞ!
おかしいのは味だけだと油断していた。灼熱のマグマは確かに実在したのだ。こいつのヒロインの素質を認めざるを得ない。
「はべうか?(食べるか?)」
「……(ふるふる)」
まったく、好き嫌いが多い奴だな。そんなことじゃ大きくなれないぞ。主にプロポーション的な意味で。
「……むぅ」
急所に貫手をくらいました。お前、それ殺人技だから空手界では禁じ手なんだぞ! っていうか、地の文読むなよ。
灼熱の太陽を必死で消火していると、野々山がパック牛乳を差し出してくれたのでありがたくいただいた。鎮火に成功。危うく体がバーニングしてしまうところだったぜ。
「……間接キスだ」
僕が返したパック牛乳のストローを見つめながら野々山がぽつりと呟く。お前は小学生か! しかも今さら過ぎるだろ。
「……ちゅるちゅー」
ちゅーと音をたてながら野々山はストローに潤い満点の柔らかそうな唇を付けた。何を考えているのかよく分からん奴だ。っていうか、ちらちら僕を見るな! こっちまで恥ずかしくなるだろうが!
「満足か?」
「……こんなものか」
どうしてだろう、今こいつを本気で殴りたくなった。
さて、残る強敵はから揚げとエビフライと彩りをつけるためのレタスだ。レタスは手の施しようがないので安全だと考えて、問題は揚げ物兄弟か。いや、姉妹制作だから揚げ物姉妹なのか? まぁ、そんなことはどうでもいいか。
今度はどんな味覚のフランス革命が待っているのだろうか。新感覚の連続に、僕は既に暴走し始めていた。これを完食する頃、僕が魔女狩りに遭ったマリー・アントワネットのようになっていないことを切に願う。
どちらから攻めるべきだろうか。無意識に拒絶反応を起こして箸が震える。
よし、君に決めた! 帽子のつばを後頭部に回してというのは嘘だけど、僕はから揚げに箸を伸ばす。こうなりゃ自棄だ! そしてひと思いに口に放り込んだ。
……昨日、野々山に勝手に殺された父さんの顔を思い出した。っていうのは嘘で。正直涙が出そうになった。
今、僕の頭の中では小田和正の美声が流れている。
あなたに逢えて、本当に良かった。嬉しくて、嬉しくて言葉にできない。
めちゃくちゃ美味しかった。
「……揚げ物はお姉ちゃんが触らせてくれなかったの」
そういうことか。じゃあ、残るエビフライも当たりというわけだ。可憐さん、グッジョブ!
こうして僕は見事に爆心地の英雄たちを平らげた。思えば衝撃の連続だった。石のように硬く辛い厚焼き玉子、何故か柑橘類の甘さを身につけたタコさん(笑)ウインナー、灼熱の太陽(あれがハンバーグだったことを僕は認めない!)……そして、救済措置として舞い降りた女神(揚げ物)たち。
野々山が唾液で汚した厚焼き玉子を無理やり食べさせられたときは本気で死んでもいないはずの父さんの姿が走馬灯のように流れたものだ。
「ご馳走さまでした!」
「……ごちそうさまでした」
二人で丁寧に手を合わせて食後の挨拶をする。達成感に涙が出そうになった。歳をとると涙腺が弱くなって困るぜ。
少し時間が余ったので、何をするわけでもなく僕らは体育館裏で晴れ渡る空を眺めた。
いつか、あの空に手が届く日が僕らにも来るといいな。
こいつの夢であり、僕が挫折した夢であるあの空へ。そのためには、まず地上で羽ばたくことを覚えないとな。こいつの誤解を解いて、みにくいアヒルの子を白鳥に成長させてやらないと。さあ、ここからが僕の腕の見せ所だ。
待ってろ、野々山。僕が必ず空の広さを教えてやるからな。
僕は心の中で誓いを立てた。この広い青空に。