夢幻の果実
阿瀬比村の外れ、『禁断』の根元に、設備が整った診療所がありました。
入所するのはただ一人。まだ中学生に満たない、芥子ナズナという少女です。今はたくさんのコードを体に付けられ、自力で動くことができません。
生まれながらに虚弱だったナズナは、まともに学校に通うことすらままならないのです。とはいえ、調子のよい日は家に帰ることもあります。
彼女をよく思わなかった父親は、いつまでもナズナを見捨てずにいた母親を嫌い、今やこの村で見ることはありません。
ナズナは偶然にも見てしまった、両親が話し合いつつ書類を書く姿を忘れられずにいます。
ボーッと、昔の悪夢を思い出しつつ、物思いにふける日々。寂しさのあまり涙が零れます。
「だれも、来てくれない……」
友人などいません。妹想いだった兄も、離婚した父親に連れられ、会うことは叶いません。母親すら、顔を見せてくれることは少なくなりました。
そんな最悪な環境のせいで病状は悪化し、もはやナズナは余命宣告を受けていました。日に日に衰えていく体から、ナズナはやっとその時が来たのだと、どこかホッとしている自分を見つけます。
けれどナズナには、まだ心残りがありました。
「……せめて、あと一ヶ月だけ」
――だれかといっしょにいたい。
純粋で清らかな願い事。その瞬間、ガラッと病室のドアが開きました。
「ナズナ!」
「……お兄ちゃん?」
そこに立っていたのは、ナズナの兄、我妻義久でした。
「ごめんなナズナ、ずっと来れなくて」
頭を下げる義久をよそに、ナズナは一人泣き出していました。
「お前がもう一ヶ月も生きられないって母さんから聞いて、父さんの反対を押し切ってきた」
あまりにも都合の良い展開。けれどこれは間違いなく現実でした。
「お兄ちゃん……ありがと……」
「当たり前だろ?」
当然だと胸を張り、ごほんと咳払いする。
「お兄ちゃん、なんだからさ」
涙目なままナズナはくすりと笑います。
「へんなの」
言葉とは反対に、とても嬉しそうな、晴れやかな表情です。
義久はどこか後ろめたい気持ちを隠しながら、無理矢理笑顔を作っていました。
「そうだ、果物を買ってきたから剥いてやろうか」
誤魔化すように、折り畳みナイフで真っ赤なリンゴの皮を剥いていきます。
「ほら」
ささっと手早く皿に盛りつけ、フォークを刺して渡しました。
「うさぎさんだ!」
数年分の感情が一気に溢れだしたかのように、ナズナは目一杯はしゃぎます。
「ゆっくり食べろよ」
「うんっ!」
シャクシャクとリンゴを齧る咀嚼音だけが響き、最後の一口を食べる頃にはナズナはお腹いっぱいで眠くなりつつありました。
「ナズナ、大好きだよ……」
シャリという何かを食べる音を耳に、ナズナは眠りについていました。
☆☆☆
あれからどれくらい経ったでしょう?
ナズナが目を覚ますと、すでに義久の姿はありませんでした。
体を起こそうとすると、ちょっとした違和感に気づきました。いつもより軽く、気分もスッキリとしているのです。
ナズナは不思議そうに自分の手を眺めました。
「ナズナちゃん、入りますよー」
ドアが開き、看護師さんが入ってきます。いつも通りナズナの体調を確認し、手帳に結果を記していきます。
「今日はいつもより体調が良いみたいですね」
にこりと微笑み、別の仕事へと向かおうとする手を、ナズナは無意識に止めていました。
「ナズナちゃん?」
「あの、お兄ちゃんは」
「え?」
とっくに帰った相手を求められてしまったからか、看護師は一目でわかるほどに困惑していました。
「なんでも、ないです」
これ以上相手を困らせまいと、ナズナは黙り込んでしまいました。
表情も曇りきってしまい、今にも闇に呑まれてしまいそうな危うさがありました。
「そうだ!ナズナちゃんの調子が良いこと、先生に伝えてくるわね?もしかしたら外出の許可が出るかもしれないわ」
わざわざ自分のために人が動いてくれることは、ナズナにとって重荷でしかありません。
自分では何もできない、ただ息をしているだけの人形のようであると、無力さに打ちひしがれるのです。
「自分で聞きにいきたい」
けれど勝手に動くことを許されるはずがなく、看護師はナズナを寝かせ、病室を出ていきました。
静寂の中、小鳥のさえずりだけが耳に届きます。
あまりにも静かで、いつもいつも嫌な考えばかりが頭を過ります。
「わたし、生きててもいいのかな……?」
誰かに助けられなければ
誰かに支えてもらえなければ
誰かと一緒でなければ、生きていけない。
望むこともできず、呆気なく命は消えようとしているのです。そう、それはまるで――
「はかない夢、みたい……」
一人ごちるとなおさら孤独感は増してしまい、ナズナは胸が苦しくなりました。
ズキズキと、病が身体ではなく心を蝕んでいくような感覚に、ナズナは悲痛の表情を浮かべます。
「良かったわねナズナちゃん、外出許可が下りたわよ!」
自分のことのように喜ぶ看護師の声に、ナズナの感じていた痛みは消えていました。
この、鳥かごのような場所から出られる。それだけでナズナの心は幸福に満ち溢れていました。
「さあ、出かける準備をしましょう!」
めったにできないオシャレをして、いつもと違う世界に出る……たったそれだけのことでも、ナズナにとっては特別な日として記憶に刻み付けていました。
ナズナの髪の毛をいじり終えると、看護師は悲しげに呟きました。
「本当は一緒に行ってあげたいけれど、急患が来るかもしれないから、私はここに残らなきゃいけないの……ごめんなさい……」
内容的にも、感情的にも、看護師を責めることなどできません。むしろナズナは自分のために仕事の合間を使って動いてくれたことに、深く感謝をしなければいけないほどです。
「ありがとうございます」
ペコリと丁寧にお辞儀すると、看護師も少しだけ罪悪感が消えたようでした。
診療所を一歩出ると、ナズナは感嘆の声をあげました。
「……ぜんぜん、変わってない」
時代と共に人や生活は代わり行くもの。決して発展を望んでいないわけではありません。
けれど、ナズナは置き去りにされていないという実感が欲しかったのです。
間近で見上げる『禁断』も、ナズナにとっては災厄などもたらすことはありません。むしろ希望の大樹でした。
「お願いかなえてほしいな……なんて、ムリだよね……」
ナズナは『禁断』から視線を外すと、家に向けて歩き出しました。
畑や民家には人だけでなく、迷い混んだ動物達もいます。
のどかな暮らしを微笑ましく、暖かい目で見つめます。
「あれ?ナズナか?」
声をかけてきたのは、友人とアイスを食べつつ歩く中学生。鬼灯と亜佐でした。
「ほーづきお姉ちゃん!」
とてとてと小走りに鬼灯に近寄り、ナズナは抱きつきました。
「こら、離れろって」
口ではしかりつつも、鬼灯は甘やかすように頭を撫でていました。
「ほんとに、ほーづきお姉ちゃんだ……」
くんくんと犬猫のようにナズナは鬼灯の匂いを嗅ぎます。鬼灯もまんざらではなさそうでした。
亜佐がじーっと興味深そうに見つめているのに気づき、鬼灯は慌ててナズナを突き放します。
「お姉ちゃんのイジワル」
たった一言で、どうやら鬼灯のプライドを崩すのは充分だったようです。胸に手を当て、膝をついてしまいました。
「姉ちゃんが悪かった!」
むぎゅうと先ほどより強く抱かれ、ナズナは目を白黒させていました。
最近は本音を洩らすようになった鬼灯ですが、まだ素直になれない時があるようです。
「鬼灯、急がないと」
「あ、そうだった!じゃあまたな!」
何か大切な用事があったのか、二人はその場を去っていきました。
ナズナが家に着くと、母親がごはんを作っているところでした。
「お母さん、ただいま」
「おかえりなさい、ナズナ」
優しい母親と共に、ナズナは台所に立っていました。手際よく、包丁を片手に野菜を切り刻んでいきます。
「そういえばお母さん」
母親はナズナへと顔を向けます。
「お兄ちゃんは?」
「何言ってるのよ、お兄ちゃんなんかいないでしょ?」
その一言で、ナズナはある真実に気がつきました。
この世界に我妻義久という人間は存在せず、誰の記憶にも居ないのだということに……
看護師の困惑に関しても、その理由で筋が通っているようでした。
「ここは、現実じゃない……?」
――愛しの兄である義久がいない。
ナズナはそれだけで世界を絶望へと染め上げていきます。
義久を捜すため、ナズナは家を出ました。けれど、行く手を阻むかのように暴風雨が訪れています。
それでもナズナは屈することなく突き進みました。
バチバチと水とは思えぬ音を立て、身体を突き刺していく雨。
見えない壁となり足を止めさせ、むしろ遠くへと吹き飛ばそうとする風。
世界に抗うなと、雷鳴が轟きます。
肌が痛みを訴えるように赤く腫れ上がり、風が撫でるだけでズキッと鋭い苦痛を伴います。
足はくたくたで立っているのがやっとという状態です。
先が見えないまま歩んでいると、ようやく光を見つけました。
自然と雨風は止み、まるでここへ導くのが役目だったように感じます。
光の先には診療所がありました。導かれるままに中へと入っていきます。
「やっと見つけました。私の片割れ」
そこで待っていたのは、禁断の果実と同じ、真っ赤な双眸の少女でした。
「もう気づいているんですよね?」
「うん……」
この世界は、終わらない悪夢。ナズナにとって最も望まないことが起きた世界でした。
「この果実を食べて、目覚めれば終わります」
ナズナは躊躇していました。差し出された果実は本当に食べても大丈夫なのか、心配になったのです。
「片割れって、どういうこと?」
「正反対な存在、互いに望む物を持っている存在です」
ナズナは運命という言葉の意味を身をもって感じていました。
無邪気に笑い、果実にかじりつきます。すると、周囲が白い光に包まれました。
光はパキパキと氷のように砕け、ナズナを暖かく包んでいきます。
「起きたらお兄さんにキスしてあげてください。そうすれば彼の願いである永遠の眠りから覚めます」
「あ、あの!」
夢が終わろうとしていることにナズナは気づきました。けれど、言葉がまとまらず、口にすることができないでいます。
お見通しであるというように、少女はくすりと笑って言いました。
「石蕗とでも名乗っておきます」
手を胸に当て、腰を折る姿は優雅でした。
「さようなら、金雀枝」
世界が砕け、視界は真っ白な空白の世界となります。そして突然反転し、暗闇として消えてしまいました。
☆☆☆
目を覚ました義久は目を疑いました。
「な、なずな?」
自分の唇に、妹が口づけしていたのですから当然です。
「おはよう、お兄ちゃん」
ナズナはとても元気な様子で、生き生きとしていました。このすぐ後に、ナズナの病状はすこしずつ良くなり、無事に退院しました。
芥子ナズナ=芥子、ナズナ
花言葉…芥子=眠り、ナズナ=あなたに全てを任せます
我妻義久=東菊
花言葉…しばしの別れ
石蕗=先を見通す力
金雀枝=はかない夢