忘却の果実
あるところに、森林に囲まれた自然豊かな村がありました。とても小さな村なので、空からだと木々に溶け込んでしまい、どこにあるのか見つけることは困難です。
ただ唯一村を探すための目印になるものがありました。
新緑が揺れる木々の中で一際高く、真っ赤に実る果実をぶら下げる大樹です。村人は災いをもたらす悪魔であると捉え、これを『禁断』と呼ぶことにしました。
当然ながら禁断に村人が近寄ることはありません。災いを恐れ、家に神棚を置いて祀り上げるほどです。そして、子供達も知っているはずでした。
けれど子供達の間では、この考えに反する噂が流れていました。
「あの果実を食べると、願い事が叶うんだって」
大人達の様子から、鵜呑みにする子供はあまりいません。それでもきっと、わずかに可能性があるのならば――
☆☆☆
――キーンコーン
甲高いチャイムの音が響くのは、この村の中学校でした。体育館やプールなどは小さな校舎の中に詰め込まれ、外にはやけに大きな校庭が広がっています。
そんな校庭のトラックを、必死に走る1つの影がありました。
「はぁ……はぁ……」
彼の名は花菱蒼。授業が終わった放課後の時間、蒼はいつも走らされていました。気弱な彼は、学校を支配する番長のおもちゃなのです。自分より弱いものが苦しむ姿を楽しんでいるようでした。
今の時点でいくら走り続けているのかはわかりません。けれどもヘトヘトで今にも倒れこんでしまいそうなことはわかります。
「おい、花菱!まだあと4周残ってんだぞ!」
「まだたったの2周だろ?くたばってんじゃねーよ」
「ばーか、3周までは頑張ったみたいだぜ」
やんややんやと野次を飛ばすのは、校舎の窓をギャラリーとし、ゲーム機で遊ぶ少年達です。楽しそうにパシャっと写真を撮る者もいます。
「もう、むり……」
ついに蒼は地面にへたりこんでしまいました。
「花菱のヤツ、ギブアップかよ」
「じゃあ罰ゲームだな」
退屈そうにしていた少年の一人が、窓から校庭へと飛び出してきました。
ノルマを走りきれなければ罰ゲームという名の暴行――少年達のサンドバッグとなってしまうのです。
どうにかして蒼は立ち上がろうとしますが、そんな余力は残っていませんでした。
努力も虚しく、少年が蒼の元へと辿り着いてしまいました。拳を高々と振り上げます。
蒼は目をぎゅっと瞑りました。
「あんたたち!また蒼をいじめてんのっ!?」
その声は学校の外からかかったものでした。当然ながら少年の動きは止まります。
「ちっ……女に守られて恥ずかしくねーのかよ……」
そんな言葉を吐き捨てて、少年は校舎へと戻っていきました。
声をかけた少女が駆け寄ってきます。
「大丈夫?」
「ありがとう茜姉」
少女は夕狩茜。蒼の隣の家に住む幼馴染みで、お姉さん的な存在でした。今は高校生なので、近所とはいえ、放課後に会うことは少なくなっていました。
優しく手を差し伸べてくれる茜。蒼がその手をとろうとした瞬間、脳裏に少年の言葉が浮かびます。
「蒼?」
心配そうな表情の茜から目を背け、蒼はぶっきらぼうに呟きました。
「いつまでも、子供みたいに守られたくない……」
少しだけ回復できた体力を使い、蒼は立ち上がります。そして、複雑そうな茜の顔を見ず、校舎の中へと入っていきました。
茜は寂しそうにその背中を見送ると、家に帰るために歩き出しました。
中学校を離れれば、いくつもの家が建ち並んでいました。人口は少なくとも、村人はとても活気に溢れています。
子供達はみな村人の子。特に茜はしっかり者のお姉さんということで、とても可愛がられていました。
畑を耕すおじさんには「茜ちゃん!今朝採れたての白菜持ってかないかい?」と声をかけられ、割烹着を着たおばあさんには「鹿を捕まえたから、お肉分けてやろうか?」と包みを渡されます。
幼い子供達にも慕われており、遊ぶ約束や勉強などを教える約束を取り付けていました。
そんなこんなで茜が家につく頃には、荷物は倍に増えていました。
「ただいま」
「おかえりなさい、茜」
家に帰れば優しい母親が出迎えてくれる、とても暖かく、幸せな環境でした。
「あんた……」
そんな平和を意図も簡単に崩してしまう怒号が、家の外から聞こえました。
「また家事サボったの!?」
――バチンッ!!
凄まじい張り手の音が響き、女の人による声になっていない怒鳴り声が耳をつんざきます。
それは隣の家から聞こえたものでした。
蒼は学校でいじめられ、家で親に虐待を受けているのです。
茜はその音声だけで蒼の状態を想像し、心を痛めていました。
対して蒼は涙を流すことなく、母親にされるがまま、口を閉ざしていました。
怒りや不満の感情を蒼にぶちまけた母親は、すっきりした様子で出掛けて行きました。村を歩くにしては派手な装いなので、もしかしたら街まで出るつもりなのかもしれません。
しばらく蒼は一人きりで過ごすことになるようです。
蒼は放心状態のまま、考え事をしていました。
何故自分は他人に侵害されるのか
何故自分はこんなにも弱いのか
何故誰も助けてはくれないのか
何故――こんなにも悪い事ばかり、記憶を埋め尽くしていくのだろうか……
けれど、記憶の中で唯一救いの光を見つけました。それはとある噂話です。
街の外れにある『禁断』という名の大樹。その大樹に実る果実を食べると、願い事が叶うというのです。
「禁断の果実を食べれば、願い事が叶うなら……」
裸足のまま家を飛び出し、蒼は大樹の元へと向かいました。足裏がボロボロの泥だらけになることさえも気にしていないようです。
けれど、せっかく大樹まで来たにも関わらず、あまりにも高い所に果実は実り、どう足掻いても届きそうにありません。幹が太いために登ることも困難です。
「……こんな記憶、いらないのに」
悔しげな蒼の言葉に応えるように、真っ赤な果実が1つ、空から降ってきました。
なりふり構っていられない蒼は、迷うことなくその果実にかぶり付きました。
その瞬間果実は砕け、カケラは光となって蒼に降り注ぎました。
「きれい……」
蒼はすっかり光を見ることに夢中になっています。光は最後には粒となり、空へと昇っていってしまいました。
「あれ?でもどうしてこんなところにいたんだっけ……?」
疑問を解決するヒマなどなく、蒼には変化が起こり始めていました。
思い出せないことがいくつもあるのです。
「疲れてるのかな?」
疲労が原因であると考え、蒼はおとなしく帰ることにしました。
家の側まで来ると、茜が玄関先を掃除をしていました。蒼の姿を確認し、にっこりと微笑みます。
「おかえりなさい」
安心したように蒼は返します。
「ただいま」
そうして蒼は母親のいない安息の地へと帰って行きました。
茜は朝が早かったのか、大きく欠伸をしました。
「今日は、早く寝ようかな」
そう言って茜は屋内へと戻り、さっさと眠りについてしまいました。
眠りの中で見たのは、蒼が禁断の果実を口にするところ。茜は止められず、ただ眺めていました。
普段なら簡単に忘れてしまう夢。けれど珍しく、目が覚めても記憶に残っていました。
違和感を抱きながら布団から起き上がり、寝間着のままお茶の間へと向かいます。
「きゃあっ!」
悲鳴をあげたのは茜の母親でした。明らかに茜のことを訝しみ、恐怖していました。
「お母さん?」
目を擦り、不思議そうに茜は母親を見つめます。
「私に娘なんていません!」
キッパリと告げられた言葉をすぐに理解できるわけがなく、茜は今にも泣き出してしまいそうでした。
服を着替え、茜は村を走り回り始めました。道中の人に声をかけたところで「どこの子供だい?」と、まるで村に存在していないかのような振舞いです。
学校でさえも、自分を認知してはくれませんでした。
茜は大きな不安を抱えながら、最後の砦である蒼の元へと急ぎました。
真っ暗な玄関に足を踏み入れ、中へと声をかけます。
「蒼!私、夕狩茜だよ、わかる?」
のそのそと奥から現れた蒼は、キョトンとした表情を浮かべます。
「だれ?」
もうこの村には、茜を――夕狩茜を知る人間はいませんでした……。
深い絶望感に陥る茜に対し、蒼は予想外なことを呟きました。
「ぼくは、どうしてここに?」
蒼の願いは記憶の喪失。その代償となったのは、茜の存在でした。
茜はそのちょっとした言葉だけで事実に気がつきました。
そして考えます。
――これは蒼を救えなかった自分への罰。蒼のために自分の時間を使えば、私のことを想ってくれるんじゃないか、と
「蒼、あなたの家はここじゃない。一緒に、この村を出よう?」
茜が優しく手を伸ばすと、蒼は今度こそその手をとりました。
「……うん」
嬉しそうに微笑み、茜は蒼を連れて村を出ました。どこか遠く、二人きりで住むことができる場所を目指して――
花菱蒼=花菱草
花言葉…私の願いを叶えて
夕狩茜=ユーカリ、茜
花言葉…ユーカリ=記憶・思い出、茜=私を想って




