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金魚すくい

作者: やすたね

 暑さのあまり頭が可笑しくなってしまったようだ。


 目の前に不見不知みずしらずのものがいる。いや、毎日顔を突き合わせているのだから、そう言ってしまうのは語弊があるのかもしれぬ。しかし、常識的に考えれば本来それはこの場にいるはずがないのである。

 金魚であった。

 数年前、縁日で戯れに金魚すくいをした。群れを成して泳ぐ橙色の塊のうちから、ただの一匹も掬うことが出来なかった。それを哀れんでかそこの小母さんが一匹、恵んでくれた金魚である。それ以来一塊から無理矢理引き離されて、我が家の狭い金魚鉢の中で橙色に近い朱色の体をひらひらと水に漂わせていた。それが今何故か私の目の前に、毛羽立った古い畳の上でぴょんぴょん私の踝あたりまでの高さに飛び跳ねていた。

 今朝、金魚に餌を与えようと金魚鉢を覗き込んでみれば、それは忽然と姿を消してしまった後であった。猫にでも喰われてしまったのやも知れぬ。私は一人嘆いた。窓を開け放っていたのが悪かったのか。これでは野良猫が自由に出入りできるではないか。猫が魚を食うのは自然の摂理である。だが、人の家に忍び込んで大切な金魚を喰ってしまうなどとは酷いではないか。私は今更ながら自分の滑稽さと猫の狡猾さを恨んだ。いや、猫というものはもともと狡猾な生き物なのだ。狡猾が毛皮を着たもの、それが猫という生物であるに違いない。

 しかし、金魚である。その猫にでも喰われてしまったのかしらんと私の気分を暗くさせた張本人である。それがなぜか水を離れ、今こうして畳の上にいるのである。私はじっとそれを見据えた。金魚はあいも変わらず畳の上を私の踝のあたりの高さまで飛び跳ねており、私の視点は上下に動き一向に定まることはなかった。

「おい、金魚」

 試しに呼びかけてみたが、返事はなかった。当たり前である。金魚に口が利けるわけが無い。いや、それを言ってしまえば金魚が畳の上を跳ねていること自体がもう可笑しいのだ。頭が痛くなってきた。暑さのあまり頭が可笑しくなってしまったのやも知れぬ。

 とにかく、金魚を鉢に戻さねばならない。

 私は金魚と見つめあうのを止めて金魚の捕獲にかかった。しかし、金魚はぴょんぴょん、私の手をすり抜けて逃げてゆく。足が生えていないくせに、逃げ足が速い。右へぴょん。左へぴょん。前へぴょん。後ろにぴょんぴょん。私は閉口し、捕獲をあきらめた。


 気分を切り替えようと幾許か遅い夕食をとることにした。今晩の献立はご飯とお隣さんから頂いた焼き魚である。焼き魚は丁度良くこんがりと焼けていた。至極旨そうであった。全く、隣人とはありがたいものである。隣人がこれを恵んでくれなければ、私は白米のみの飯を食う羽目になっていたやも知れぬ。飯を終える頃には金魚も鉢に戻るだろう。もしくは、私の頭もこの夢から解放されるであろう。現実に金魚が逃げるなどありえる話ではないのである。しかれば、これは夢か暑さの生んだ幻想に相違ないはずなのである。私はそう踏んでいた。

 畳の上の金魚はもう飛び跳ねることも止め、ただ畳の上でじっとしていた。瞼の無い円らな瞳が眩しい。なんと澄んだ目をしているのか。そんな目で私を見るな、と叫びたい衝動に襲われる。

 その視線から逃れるように、私は小さく口の中で頂きますと呟いて、まずは魚に箸をつけた。旨かった。隣人にはいくら感謝してもしたりぬほどである。飯、魚、飯、魚と交互に箸をつけ、口に運ぶ。すると妙な視線に気付いた。金魚である。金魚が例の瞳で、まだ、じっとこちらを見つめていた。流石に金魚の前で焼き魚を食うのは不味かったかと一人冷や汗をかいたが、どうやら金魚が見ているのは私ではなく私の飯である。もしかしたら空腹であるのかも知れぬ。こいつは朝餌を食っていないのだから、そりゃ腹も減るというものだろう。

 私は戯れにご飯を一塊それに向かって放ってみた。鯉は米を食うので、もしかしたら金魚も、と考えたのである。当然のように金魚はそれのほうにぴょんぴょん飛びながら近寄って、瞬く間に胃袋に収めてしまった。可愛い奴だ。もともと随分と可愛がっていた金魚である。この貧しい暮らしを共にしてきた唯一無二の友なのだ。ついでだから貴重な焼き魚の身も少し解して与えてやる。パクパクと旨そうに食べた。可愛い奴だ。もういい。金魚のくせに畳の上でぴょんぴょんしていようが、共食いなどしようが金魚である。赤貧を共にしたわが友である。友は私と共に行動をするために鉢から飛び出てきてくれたのだ。なんとも義理堅い金魚だ。これは夢でも私の頭が暑さにやられたわけでもない。正真正銘の現実なのである。感無量とはまさにこのこと。なんとありがたいことか。


 その晩は金魚と枕を並べて寝た。良い夜だった。金魚は瞼がないので目を閉じることはできないが、それでもぴょんぴょんしていないところをみると眠ってしまっているのだろうと、私は暗闇の中一人目を細めてそれをみつめながら少し微笑ましい気分になった。一人暮らしの侘しさの中、なにか温かいものが胸にこみ上げてくる。それがたまらなく嬉しかった。たかが金魚。されど金魚。今までは水槽の中でしか行動できなかった金魚も、自由になれて嬉しかろう。外の世界はやはりよいものだとでも思ってくれているやもしれぬ。


 金魚はいつでも私の後ろをぴょんぴょん、跳ねながらついてくる。ただし、私が家の外に出て行くときはおとなしく留守番をしている。食事も共に摂り、煮魚以外はなんでもぱくぱく食べた。好き嫌いのない良い金魚である。私の好物が煮魚なので尚更良い。時々、こいつは水生生物なのに水を浴びなくても平気なのかしらと心配になって行水をさせてやった。金魚はそれこそ水を得た魚の如く喜んで更に高くぴょんぴょん飛び跳ねた。ただし、深い水に沈めてしまうと金魚のくせに、なんと、溺れた。謎の生物であった。


 その晩の夕餉は米とお隣さんから頂いた煮魚であった。此処最近お隣さんから頂く惣菜は魚の率が異様に高い。今まで意識した事がなかったから断言は出来ないが、隣人は魚が好きなのかもしれなかった。調理して渡してくれるところも尚良い。生のまま渡されれば私はそのまま生臭い魚を食うしかできぬからである。今までは気付かなかったのであるが、私はずいぶんと恵まれた人間関係を持っているのである。水生生物のくせに鉢から飛び出てまで私との友情を深めてくれるわが友、金魚。それにわざわざ料理して惣菜をくれる隣人。なんともありがたいことよ。

 いつものように金魚にご飯と魚を与えてみたが、やはり金魚は煮魚を食ってくれなかった。こんなにうまいものを食わぬとは、わが友はずいぶんとおかしな舌を持っているとみえる。いや、違う。いや、別に金魚には舌がない、などと言うつもりはない。そうではなく、きっと、金魚は私の好物が煮魚であることを知って、わざと遠慮をしているのだ。そうに違いない。友よ。私はなんともすばらしい友を持ったことだ。そう思って金魚に抱きつこうとしたが、当然の如く逃げられた。わが友はどうやら照れ屋さんらしい。


 夕飯の後は湯屋に行くことにした。日課ではあったが、此処最近は懐具合や金魚がいることから少々ご無沙汰気味であったので、いい加減垢がぽろぽろと零れるようになってしまった。臭い気もする。もしかしたら金魚は私が臭いのでさっき逃げたのかも知れぬ。風呂のある家に住みたいものである。金魚はいつものように家に残るのかと思いきや、その日は何故か家の外までぴょんぴょんぴょんぴょん着いてきた。下駄がからころ。金魚がぴょんぴょん。金魚も物見遊山の気持ちなのか、随分と嬉しそうである。

 湯屋についた。不思議なのは金魚を見ても誰もなにも言わぬところである。まあこちらとしては嬉しい限りなので、あえてその事には触れるようなことはしない。第一金魚のお湯代まで取られては明日の食事も危うい。

 番台のおばさんにお湯代を払い、男湯の青い暖簾を潜る。金魚も後からついてきた。

 浴衣を脱いで籠に入れていたら、直ぐ横に私と同じ年くらいの坊主頭の男がいた。着ているものからして書生さんらしかった。どこかそれに引け目を感じて無意識のうちに心持分少し離れてみた。金魚も私とは違う意味でその男に興味を抱いたようで、私の傍を離れて書生さんの周りをぴょんぴょんしている。私は金魚をその男に取られたようで悔しくなり、もう我武者羅の気持ちで脱衣所とお風呂場を仕切る引き戸の前まで直進した。驚いたように金魚は少し遅れてついてくる。やはり金魚は私の友なのである。私が一番なのである。私はなにかその男に対し優越感のようなものを感じて少し誇らしげな気持ちになった。

 引き戸を開ければ向こう側は酷く曇っていた。見知らぬご老体が一人湯船に浸かっており、後は体を洗っている。今日はそんなに混んでいないようである。酷いときには自分が馬鈴薯になった気持ちになるので、今日は幸福な気分でお湯に浸かれそうだ。私は更に嬉しくなった。

 枝が入ります。一言声を掛けて湯に浸かる。暑い日に熱い湯に入るというのもまたオツなものである。手足を存分に伸ばせばそれだけで開放感が溢れ、私は思わずなんともいえない声を無意識のうちに発していた。

 金魚はそんな私の様子を物珍しげに眺めていた。まさか湯に飛び込んでは来ぬだろう。湯は金魚がいつも行水をしている桶よりもずっと深い。しかし、金魚はいつもの行水を思い出したのか、それとも気持ちよく湯に浸かる私を見て、自分も、と思ったのか、いきなり湯に飛び込んだ!

「金魚!」

 思わず叫んだ。隣のご老体が狐憑きでも見るような眼でこちらを見ていたが、そんなことを気にしている余裕はない。桶よりもずっと深いということは、金魚が溺れぬ道理がない。その上、浴槽を満たしているのはお湯である。金魚にとっては熱湯である。叫んでみても最早遅い。金魚はぐったり、橙色に近い体の色を更に鮮やかに朱に染めて、湯の上に白い腹を見せ浮かび上がってきている。金魚! もう一度叫んで慌てて両手で掬い上げる。今度は掬えた。しかし救うことは出来なかった。金魚はもうへたへたと、いつものようにぴょんぴょん跳ねたりはしてくれなかった。金魚。なぜ湯船で煮られねばならぬのだ。今度はようやく搾り出した声がむなしく湯屋の中をこだまする。

 見知らぬご老体はうろんげな顔で一部始終を見ていたが、終に湯船から上がってどこかにいってしまった。なぜか今まで体を洗っていたその他大勢もいつの間にかこっちを見ており、私と視線が合うとなにか化け物でも見たような顔をしてさっさと視線を反らした。顔見知りらしい男達はなにかひそひそ話している。内容までは聞えぬが、声だけなら私にも届いていた。しかし私としてはそんなこと、もうどうでもいい。今一番大切なのは金魚である。唯一無二のわが友である。祈るような思いで掌に乗った友を見つめる。友はぴくりとも動かなかった。そしてそのまま、私の掌からゆっくりと消えていってしまった。


 帰り道。下駄がからころ鳴る。行く道のあの楽しい気分はどこへやら。心なしかその音が寂しい。意気消沈。すっかり肩を落とし、とぼとぼとぼとぼ歩く。帰りの道のりがやけに遠く感じる。金魚。もしかしたら茹で上がってしまったのか。金魚がいないと酷く寂しい。喪失感。下宿先についた。駆け上るようにして階段を上がる。下駄の音がやかましい。我が家だ。扉を乱暴にあけ、下駄を脱ぎ捨て、そのまま金魚鉢を覗きにいく。水の入った透明な金魚鉢。白い腹を上にして浮かぶは朱色の金魚。まごうことなくあの金魚である。金魚はぴくりとも動かない。最早死んでしまったようである。私は鉢を持ち上げた。水はなみなみと注がれていたが、思ったよりも軽かった。足りないのは金魚の魂の分の重さかもしれぬ。煮魚以外はなんでもぱくぱく食べた、友はもういないのである。目線の高さまで持ち上げて呼びかける。返事はなく、ただ白と朱色の対比が美しい飾りものになってしまったそれは水に揺れていた。

 鉢を元の場所に戻す。金魚。私の後をついてきた、可愛い金魚。わが友。唯一の友。

部屋は暑かったが、私は窓を閉め切った。友の亡骸を猫如きに取られるわけにいかぬ。涙が溢れそうであった。友をどうすべきか。私は悩んだ。悩んだ挙句、金魚鉢の中に手を突っ込んだ。

金魚がこの鉢の中で一生を終えていようが、本当に鉢を出て我が元に現れ、そして湯船で煮金魚になっていようが、私には関係のないことである。この金魚は我が友である。それだけは変わりようのない事実なのだ。

 掌に乗せられた友はぬるぬるとし、水と同じに生暖かかった。金魚。蘇生してはくれぬものかと期待をこめて優しく名を呼ぶが、やはり無駄であったようである。私はそのまま、金魚を口元に運び、飲み込んだ。友の小さな体は、つるんと喉越しさわやかに、私の体の中へと消えた。これで良い。これから私は友と体を共用するのだ。

 汗が滴り落ちる部屋の中、生き残りの蝉の声が耳を劈く。二度と金魚は飼うまい。私は友の眠る腹を撫でながら誓った。


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