↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/21

第六話 初めて知った「楽しい」

 翌朝。


 エレノアが目を覚ますと、部屋の空気がいつもと少し違っていた。


「……?」


 ベッドから起き上がり、窓へ近づく。


 窓辺に置かれた小さな花瓶。


 そこには、青や白の花が数本飾られていた。


 昨日、自分が選んだ髪飾りとよく似た色の花だった。


「……綺麗」


 エレノアは花の前にしゃがみ込む。


 そっと花びらに触れようとして――手を止める。


 それから、昨日のことを思い出した。


 ――触ってもいい。


 ――好きなだけ見ていていい。


 そして。


 ――欲しいと言っていい。


 エレノアは花にそっと触れた。


「……ありがとうございます」


 誰もいない部屋で、小さく呟いた。





 ◇


 朝食の席。


 エレノアが食堂へ入ると、すでにレオンハルトが座っていた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 エレノアが席につく。


 今日の朝食には、焼きたてのパンと卵料理、それから果物が並んでいた。


「今日は卵の形が違います」


 エレノアがぽつりと言う。


 レオンハルトが顔を上げた。


「気づいたのか」


「はい」


「料理長が新しいものを作ったらしい」


「そうですか」


 エレノアは一口食べる。


「……美味しいです」


「そうか」


 それだけの会話。


 けれど、以前より明らかに違っていた。


 エレノアが自分から話した。


 レオンハルトはそんな小さな変化を、いつの間にか気にするようになっていた。


「今日は何をする?」


「……」


 エレノアが考える。


「マリアさんと庭を見に行こうと思っています」


「そうか」


 以前なら、


『わかりません』


だった。


 今日は違う。


 自分で予定を決めている。


「好きにするといい」


「はい」


 エレノアは小さく笑った。





 ◇


 庭へ出ると、トーマスが花壇の手入れをしていた。


「お嬢様、おはようございます」


「おはようございます」


「今日はちょうどいいところですよ」


「?」


 トーマスが手招きする。


「こちらの花、蕾が開きそうなんです」


 エレノアがしゃがみ込む。


「昨日の花ですか?」


「そうです」


「……本当に開くのでしょうか」


「そろそろ咲くと思いますよ」


 エレノアはじっと蕾を見る。


「見ていてもいいですか?」


「もちろん」


 エレノアは花壇の前に座った。


 しばらく何もせず、蕾を見つめる。


 マリアが隣で笑った。


「お嬢様、ずっと見ているおつもりですか?」


「はい」


「飽きませんか?」


「……まだ、わかりません」


 その答えに、トーマスが笑った。


「では、咲くまで見てみましょう」


「はい」


 時間が過ぎていく。


 風が吹く。


 鳥が鳴く。


 雲がゆっくり流れる。


 そして。


「あ……」


 エレノアが小さな声を漏らした。


 蕾の先が、ゆっくりと開いていく。


「開いています」


「ええ」


「……」


 花びらが一枚。


 また一枚。


 朝露を残したまま、ゆっくりと開いていく。


「……綺麗」


 エレノアの瞳が輝いた。


 そして、思わず笑う。


「咲きました」


「咲きましたね」


 トーマスも笑う。


「待った甲斐がありましたね」


「はい」


 エレノアは花を見つめながら、何度も頷いた。


「……楽しいです」


 マリアが目を見開いた。


「え?」


 エレノア自身も少し驚いた。


「……楽しい、です」


 その言葉を、確かめるようにもう一度口にする。


 胸の奥が温かい。


 もっと見ていたい。


 もっと知りたい。


 そんな気持ちが自然に湧いてくる。


「これが……楽しい、ということなのですね」


 マリアは笑顔になった。


「はい。きっとそうですよ」


 エレノアは嬉しそうに花を眺めた。





 ◇


 その光景を、少し離れた場所から見ている人間がいた。


 レオンハルトだった。


 庭を通りかかっただけだった。


 だが、エレノアの笑い声が聞こえて、足を止めた。


 ――楽しいです。


 彼女がそんな言葉を口にしたことが、意外だった。


 そして。


 笑っている。


 これまで見たことのない笑顔だった。


 花を見つめる瞳も、少しだけ明るい。


「……」


 レオンハルトは、しばらくその場に立っていた。


「旦那様?」


 後ろからセバスチャンが声をかける。


「何でもない」


 レオンハルトは歩き出した。


 だが数歩進んでから、


「……あの花は何という名前だ?」


「どの花でしょう?」


「エレノアが見ている花だ」



セバスチャンが庭を見る。


「あれはリュミエールです」


「そうか」


 レオンハルトはそれだけ言って、屋敷へ戻った。





 ◇


 昼食。


 エレノアはいつもより少し食欲があった。


「今日はたくさん召し上がりますね」


 ローズが嬉しそうに言う。


「朝、花が咲いたので」


「花が?」


「はい」


 エレノアは楽しそうに話し始めた。


「昨日は蕾だったのですが、今日、開きました」


「まあ」


「ずっと見ていたら、少しずつ開いて……とても綺麗でした」


 ローズは目を細める。


「お嬢様、ずいぶん楽しそうですね」


「……そうでしょうか?」


「ええ」


 エレノアは少し考える。


「……楽しかったです」


「それならよかったです」


 ローズが笑う。


「いっぱい食べて、もっと元気になってくださいね」


「はい」


 エレノアは素直に頷いた。


 そしてスープをもう一口飲む。


「……これも美味しいです」


「おかわりありますよ」


「……いただきたいです」


「もちろん!」





 ◇


 午後。


 レオンハルトが執務室で仕事をしていると、ノックの音がした。


「どうぞ」


「失礼いたします」


 入ってきたのはエレノアだった。


 レオンハルトは少し驚いた。


 彼女が自分から執務室へ来るのは初めてだった。


「どうした?」


「……」


 エレノアは手に何かを持っていた。


「これを、公爵様に」


「私に?」


「はい」


 差し出されたのは、小さな花だった。


「庭の花です」


「……もらっていいのか?」


「はい」


「なぜ?」


 エレノアは少し考えた。


「今日、とても楽しかったので」


「……」


「公爵様にも見ていただきたくて」


 レオンハルトは花を受け取った。


 小さな青い花。


 彼女が今日、初めて「楽しい」と知った花。


「……ありがとう」


「はい」


 エレノアは笑った。


「それでは、失礼いたします」


「ああ」


 扉が閉まる。


 静かな執務室。


 レオンハルトは手の中の花を見る。


 仕事の書類よりも、ずっと小さい。


 価値だってない。


 それでも。


 なぜか捨てる気にはならなかった。


「……」


 机の端に花を置く。


 そして仕事へ戻ろうとする。


 だが。


 ふと気づく。


 自分は今、笑っていた。


 ほんの僅かに。


「……馬鹿らしい」


 そう呟きながらも、花を片付けることはなかった。





 ◇


 夜。


 エレノアはベッドの中で今日一日を思い返していた。


 朝、花を見た。


 庭で蕾が開くところを見た。


 美味しい食事を食べた。


 そして、自分で選んだ花を誰かに渡した。


 ――楽しかった。


 今まで知らなかった言葉。


 知らなかった感情。


 エレノアは胸元へ手を置いた。


「……明日も、楽しいといいな」


 それは。


 彼女が初めて、自分から願ったことだった。


 その頃、レオンハルトの机の上には、小さな青い花が一輪。


 彼はその花を見るたびに、なぜか今日のエレノアの笑顔を思い出していた。


 まだ、それが何を意味するのか。


 彼自身も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。