↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/21

第三話 氷の公爵の調査

 エレノアがアシュフォード公爵家へ嫁いでから、三日が経った。


 その三日間。


 レオンハルトとエレノアが交わした言葉は、驚くほど少なかった。


「おはようございます」


「……おはよう」


「おやすみなさいませ」


「おやすみ」


 それだけ。


 食事の席が同じでも、エレノアは静かに食事をしているだけ。


 レオンハルトが仕事の話をしていても、彼女が口を挟むことはない。


 彼女自身のことを話すこともない。


 まるで、そこにいることさえ遠慮しているようだった。


 ――妙な女だ。


 レオンハルトはそう思っていた。





 ◇


「旦那様」


 その日の夜。


 執務室で仕事をしていたレオンハルトのもとへ、執事のセバスチャンがやってきた。


「何だ」


「先日ご命令いただきました、ベルナール男爵家についての調査が完了いたしました」


 レオンハルトの手が止まる。


「聞こう」


 セバスチャンは一枚の書類を差し出した。


「まず、ベルナール男爵家の借金についてですが……こちらはかなり以前から続いていたものです」


「知っている」


「はい。問題は、エレノア様についてです」


 レオンハルトは書類へ目を落とした。


「エレノア様は幼少期から、屋敷内の家事をほぼ一人で任されていたようです」


 レオンハルトの眉が僅かに動く。


「教育は?」


「最低限の読み書きと礼儀作法のみです。家庭教師をつけた記録はありません」


「社交界には?」


「ほとんど出ておりません」


「友人は?」


「確認できませんでした」


「……」


 レオンハルトは黙って書類をめくった。


「食事については?」


 その質問に、セバスチャンは少し間を置いた。


「十分な量を与えられていたとは言えません」


「理由は?」


「男爵家の財政難です」


「娘一人の食費まで削るほどか」


「……それだけではないようです」


 セバスチャンが一枚の紙を取り出した。


「エレノア様には、弟君が一人いらっしゃいます」


「弟?」


「はい。弟君には通常の食事が用意されていた記録があります」


 レオンハルトは黙った。


 つまり。


 家が貧しかったから食べられなかったのではない。


 ――エレノアには、与えられなかった。


「衣服も同様です」


 セバスチャンが続ける。


「成長に合わせた新しいドレスを購入された記録は、ほとんどありません。現在お召しになっているものも、古い仕立て直しだと思われます」


 レオンハルトは、初めて彼女と会った日のことを思い出した。


 確かに。


 あのドレスは、十六歳の令嬢が着るにはあまりにも質素だった。


「それから……」


 セバスチャンの声が少し低くなる。


「ベルナール男爵夫妻は、エレノア様を公爵家へ嫁がせることについて、一度も娘本人の意思を確認しておりません」


「……」


「男爵家が抱えていた借金の一部を肩代わりすることを条件に、エレノア様を差し出した形です」


 レオンハルトは椅子に深く腰掛けた。


「そうか」


 それだけ言った。


 怒りはない。


 同情もない。


 少なくとも、本人はそう思っていた。


「もう一つ、気になる報告がございます」


「何だ」


「エレノア様が公爵家へ向かう前、男爵夫妻から何度もこう言われていたそうです」


 セバスチャンが報告書を見る。


「『公爵家では絶対に逆らうな』」


「『捨てられたら、お前のせいだ』」


「……」


 部屋が静まり返った。


 暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


 レオンハルトは目を伏せる。


 あの日。


 エレノアに「私は君を愛するつもりはない」と伝えたとき。


 彼女は何の感情も見せず、


『はい。承知しております』


と答えた。


 普通なら。


 自分が愛されないと知れば、少なくとも悲しむ。


 政略結婚であったとしても、不安になる。


 けれど彼女には、それがなかった。


 ――最初から、期待していなかったのだ。


「……もういい」


 レオンハルトは書類を閉じた。


「下がれ」


「かしこまりました」


 セバスチャンが頭を下げる。


 扉が閉まる。


 一人になった執務室で、レオンハルトはしばらく動かなかった。





 ◇


 翌朝。


 レオンハルトが食堂へ入ると、すでにエレノアが席についていた。


「おはようございます」


「……おはよう」


 彼女の前には朝食が並んでいる。


 だが、やはり食べる量は少ない。


 パンを一切れ。


 卵を少し。


 それだけ。


 レオンハルトは昨日の報告を思い出した。


「それだけしか食べないのか?」


「はい」


「足りないだろう」


「問題ございません」


「……」


 同じ答え。


 レオンハルトは彼女の顔を見る。


 細い身体。


 血色の薄い頬。


 華奢な手。


「それは誰に教えられた?」


「……何がでしょうか」


「『問題ない』と言えば、何でも済むと思っているのか」


 エレノアは少しだけ目を瞬かせた。


「……申し訳ございません」


「謝れと言っているわけではない」


「はい」


「……」


 会話が続かない。


 レオンハルトは頭を抱えたくなった。


 なぜ、この女との会話はこんなにも噛み合わないのだ。


「今日は何をする?」


「……」


 エレノアはまた困った顔をした。


「わかりません」


「昨日は?」


「庭を散歩いたしました」


「楽しかったか?」


「……」


 エレノアはしばらく考えた。


「わかりません」


「そうか」


 そこで会話は終わった。


だが。


 食堂を出ていくエレノアの背中を、レオンハルトは無意識に目で追っていた。





 ◇


 昼。


 執務室へ向かう途中、レオンハルトは庭に人影を見つけた。


 エレノアだった。


 彼女は花壇の前にしゃがみ込み、庭師のトーマスと話している。


「こちらの花は、昨日より少し開いています」


「本当ですね」


「毎日見ていると変化がわかりますよ」


「……毎日、見てもいいのですか?」


「もちろんです」


「そうですか」


 エレノアが花へ手を伸ばす。


 触れる寸前で止めた。


「触ってもよろしいでしょうか?」


「もちろん」


 トーマスが笑う。


 エレノアはそっと花びらに触れた。


「……柔らかい」


 その声には、ほんの少しだけ温度があった。


 レオンハルトは足を止めた。


 あの少女が。


 初めて、自分から何かを口にした。


 ――柔らかい。


 ただ、それだけ。


 それなのに。


 なぜかレオンハルトは、その光景から目を離せなかった。


「旦那様?」


 後ろから声がする。


 振り返ると、セバスチャンが立っていた。


「……何でもない」


 そう言って歩き出す。


 けれど、数歩進んだところで、もう一度だけ振り返った。


 エレノアはまだ花を見ていた。


 小さな身体で。


 誰かに何かを求めることもなく。


 ただ静かに、花を眺めている。


 レオンハルトは目を細めた。


 ――不思議な女だ。


 その日の夜。


 レオンハルトは執務室の窓から、庭を見下ろした。


 そこには、昼間と同じ花が咲いている。


 そしてふと。


「……明日も、あそこにいるのだろうか」


 そんなことを考えてしまった。


 すぐに自分で気づく。


「……何を考えているんだ、私は」


 馬鹿馬鹿しい。


 妻の行動を気にする必要などない。


 そう思いながらも。


 レオンハルトは翌朝、いつもより少しだけ早く食堂へ向かうことになる。


 ――自分でも気づかないほど小さな変化だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。