例題1『欲しかった時計』――素朴・静謐型純文学ブラッシュドアップ実例
中村雪は、森川時計店の前へ来ると、いつも少しだけ歩くのが遅くなった。
立ち止まるほどではない。隣を歩く佐伯美咲に気づかれないよう、ほんの半歩だけ歩幅を狭くする。
けれど、美咲はとうに気づいていた。
「また見てる」
そう言われて、雪はショーウィンドウから目をそらした。
「見てないよ」
「見てたやん」
美咲は笑った。雪もつられて笑った。
高校から駅まで続く古い商店街には、八百屋や総菜店、和菓子屋、靴屋、雑貨店が並んでいた。看板はどれも少し日に焼け、店先には値段を書いた紙が洗濯ばさみで留められている。
「今日はコロッケ、揚げたてやで」
総菜店の前を通ると、白い帽子をかぶった店員が声をかけてきた。
「雪、食べよ」
「今日はいい」
「また我慢?」
「お腹すいてないだけ」
「はいはい」
美咲は一つ買い、紙袋から出したコロッケを半分に割った。湯気が上がり、油とじゃがいもの匂いがした。
「一口いる?」
「いらない」
「時計のため?」
雪は答えなかった。
その代わり、森川時計店のショーウィンドウへ、もう一度目を向けた。
くすんだ金色の店名の下に、古い置き時計や目覚まし時計が並んでいる。その中央に、雪が欲しくてたまらない腕時計があった。
細い銀色のベルト。
淡い青色の文字盤。
数字も飾りも少なく、針だけが静かに時を示している。
値札には、二万八千円と書かれていた。
雪のひと月の小遣いでは、何も使わずに貯めても一年近くかかる。誕生日や正月にもらうお金を足せば、もう少し早いかもしれない。それでも、簡単に手の届く金額ではなかった。
「地味じゃない?」
美咲が言った。
「そうかな」
「もっとかわいいのあるやん。ピンクとか、文字盤に石がついとるやつ」
「これがいいの」
「なんで?」
雪は答えようとして、やめた。
どうして欲しいのか、自分でも分からなかった。
ただ、ガラスの向こうにある時計を見ると、胸の奥が少しだけ忙しくなった。その時計を身につけている自分を思い浮かべると、まだ知らない場所へ近づけるような気がした。
「そんなに欲しいなら、誕生日に買ってもらえばいいやん」
「無理」
「聞いてみたら?」
「腕時計に二万八千円も使ってって、言えない」
家が貧しいわけではなかった。
けれど、欲しいものを値段も見ずに買ってもらえる家でもない。父も母も毎日働いている。雪は、自分の腕につけるもののために二万八千円を出してほしいとは言えなかった。
美咲は残りのコロッケを口に入れた。
「まあ、大人になったら普通に買えるんちゃう?」
「大人になったら?」
「働いたら二万八千円くらい、自分で出せるやろ」
雪は、もう一度時計を見た。
その言葉の向こうに、見たことのない自分がいた。
きれいな服を着て働いている。肩には小さな鞄を掛け、財布には自分で稼いだお金が入っている。
一人でこの店へ入り、誰にも相談せず、誰の許可も求めず、時計を指さす。
『これをください』
そう言える人になっている。
何の仕事をしているのかは分からなかった。どこに住み、誰と暮らしているのかも見えなかった。
それでも、その女性は雪よりずっと迷いが少なく、自分のことを自分で決められるように見えた。
「じゃあ、大人になったら買う」
雪が言うと、美咲は何でもないことのように頷いた。
「それがええわ」
美咲にとっては、帰り道に交わした話の一つだった。
雪にとっては、未来との約束になった。
その頃、雪は進路希望調査の紙を机の引き出しへ入れたままにしていた。
大学へ行きたいとは思っている。けれど、何を学びたいのかは分からなかった。
母から尋ねられても、
「まだ考えてる」
と答えた。
教師になりたいという友人がいた。看護師になりたいという子もいた。東京へ出たい、外国へ行きたい、家の仕事を継ぐつもりだと話す者もいた。
みんなが本当に迷っていないのかは分からない。
けれど、雪にはそう見えた。
夢のない自分は、まだ何者にもなれていない気がした。
森川時計店の時計だけが、そんな雪の未来を形にしてくれた。
あの時計を身につけた自分は、仕事ができる。
一人で知らない場所へ行ける。
欲しいものを自分で選び、自分で買える。
朝起きる時間も、帰る場所も、誰と会うのかも、自分で決めることができる。
雪は時計そのものより、その向こう側にいる女性を見ていた。
けれど、十六歳の雪は、そのことを知らなかった。
ただ、あれが欲しいと思っていた。
どうしても欲しかった。
雪は、ふたのへこんだ古い缶を貯金箱にした。
帰りに買っていたジュースを我慢し、五百円玉ができると缶の中へ入れた。正月にもらった千円札も、何枚か残した。
最初のうちは、お金を数えるのが楽しかった。
硬貨を机の上へ並べ、百円、五百円、千円と足していく。増えた数字を見るたび、あの淡い青色へ少し近づいた気がした。
けれど、二万八千円は遠かった。
友人の誕生日が来れば、贈り物を買った。部活動で必要なものもあった。模試の代金や参考書を出すこともあった。
貯まっては減り、減ってはまた貯めた。
美咲とクレープ店へ行った日、雪は注文せず、店の外で待った。
「百円や二百円で変わらんやろ」
美咲はそう言いながら、いちごのクレープを少し差し出した。
「変わるよ」
「いつ買えるん?」
「いつか」
「大学生になってバイトしたほうが早そう」
「それでも今、貯めたいの」
雪は差し出されたクレープを一口だけ食べた。生クリームは少し冷たく、いちごは思ったより酸っぱかった。
自分で買っていないことが、なぜか申し訳なかった。
貯金が一万円を超えた頃、母の誕生日が近づいた。
商店街の雑貨店には、濃い茶色の手袋が置かれていた。手首のところに小さな飾りボタンがついている。
雪は、買い物の途中で母がその手袋を見ていたことを覚えていた。
母は値札を裏返し、しばらく眺めてから、
「まだ今のが使えるから」
と言って棚へ戻した。
それだけのことだった。
誕生日の前日、雪は一人で雑貨店へ行った。
財布の中には、時計のために貯めたお金が入っていた。
手袋を買えば、時計はまた遠くなる。
そう思うと、棚へ伸ばした手が一度止まった。
店の奥から、包装紙の擦れる音が聞こえていた。外では、自転車のベルが鳴った。
雪は手袋を持ち、レジへ向かった。
「贈り物ですか」
店員に聞かれ、頷いた。
淡い色の紙に包まれ、細いリボンをかけられた手袋は、値段より少し立派なものに見えた。
母は包みを開けると、最初に驚いた顔をした。
「これ、あのお店の?」
「うん」
「雪のお金で買ったの?」
「少し貯めてたから」
何のために貯めていたかは言わなかった。
母はすぐに手袋をはめた。指を曲げたり伸ばしたりしながら、何度も眺めた。
「ぴったり。ありがとう。大切に使うね」
その声を聞いて、雪もうれしくなった。
胸の内側に、温かいものがゆっくり広がった。
同時に、机の中の缶が軽くなっていることを思った。
その二つの気持ちは、どちらも本当だった。
時計が遠ざかったことは寂しかった。
けれど、手袋を買わなければよかったとは思わなかった。
時計は、大人になってから買えばいい。
雪はそう考えた。
むしろ、自分で働いたお金で買うほうが、あの時計にはふさわしいように思えた。
高校三年生の冬、雪は一人で商店街を歩いた。
美咲は受験のために塾へ通っていた。二人で帰る日も少なくなっていた。
雪は地元の大学へ進学することが決まっていた。
合格を伝えたとき、両親は喜んだ。担任も安心したように笑った。
それでも、将来何になりたいのかは、まだ分からなかった。
森川時計店の前まで来ると、淡い青色の文字盤は、以前と同じ場所にあった。
値段も二万八千円のままだった。
雪は足を止めた。
卒業祝いに頼めば、両親は買ってくれるかもしれない。
欲しいものはあるかと、母からすでに聞かれていた。
けれど、この時計だけは頼みたくなかった。
自分で働いたお金を持ち、この店の扉を開ける。
それができたとき、自分は本当の意味で大人になれる気がした。
雪はガラスの向こうの時計を、長いあいだ見つめた。
(待っていてね)
声に出さずに思った。
(大人になったら、迎えに来るから)
夕方の光が、文字盤の上を薄く滑っていた。
それが、高校生の雪がその時計を見る最後の日になった。
◇
十三年後、雪は仕事の研修を終え、帰りの電車に乗っていた。
窓の外を流れていく景色は、どこも似ていた。住宅、駐車場、閉まった工場、小さな川。
やがて、かつて暮らしていた町の名が、駅の看板に見えた。
雪は今でも、ときどき実家へ帰っている。
けれど、最寄り駅からは父か母の車に乗ることが多く、昔の商店街を歩くことはほとんどなかった。
その日は予定より早く研修が終わっていた。
雪は少し考え、一駅手前で降りた。
特別な理由はなかった。
ただ、急いで帰らなくてもよいと思った。
駅を出ると、昔より広く感じる道路があり、その向こうに商店街の入口が見えた。
アーケードの看板は新しくなっていたが、骨組みの形は変わっていなかった。
雪は仕事用の紺色のジャケットを着ていた。肩には鞄があり、財布の中には現金とクレジットカードが入っている。
二万八千円のものなら、その場で買うことができた。
今月の生活を大きく切り詰める必要もない。
八百屋は閉店し、店の中は空になっていた。総菜店は外壁が明るい色に塗られ、若い店員がレジに立っていた。クレープ店のあった場所には、携帯電話の修理店が入っている。
高校生の頃には長く感じた道が、ひどく短かった。
雪は、自分の歩く速度が速くなったせいかもしれないと思った。
仕事では、時間を気にして歩くことが多い。乗り換えに間に合うように。会議へ遅れないように。昼休みが終わる前に戻れるように。
自分の時間を自分で決められる大人になりたかったのに、時計を見る回数は、高校生の頃より増えていた。
そのことがおかしくて、雪は少し笑った。
森川時計店のことを思い出したのは、総菜店の前を通ったときだった。
揚げ物の匂いが、昔と同じように外まで流れていた。
あの店は、まだ残っているだろうか。
残っていたとしても、時計はもうないだろう。
そう思いながら、雪は少しだけ歩調を速めた。
森川時計店は、同じ場所にあった。
金色だった文字はさらに薄くなり、シャッターの端には赤茶色の錆が浮いている。それでも入口には、営業中の札が掛かっていた。
雪はショーウィンドウをのぞいた。
古い置き時計や目覚まし時計のあいだに、淡い青色が見えた。
細い銀色のベルト。
飾りの少ない文字盤。
高校生の頃に見ていた時計と、ほとんど変わらない姿で、そこにあった。
雪は、思わず息を止めた。
値札だけが新しくなっていた。
三万六千円。
十六歳の雪なら、八千円の値上がりを途方もないことだと思っただろう。
けれど今の雪には、買えない金額ではなかった。
十三年前、何度も想像した日が来ている。
自分で稼いだお金がある。
一人で店へ入り、時計を指さすことができる。
「これをください」
そう言って、鞄の中から財布を出せる。
誰にも相談しなくてよい。
誰の許可もいらない。
雪は、時計を見つめた。
胸は高鳴らなかった。
懐かしいとは思った。
まだあったのだという驚きもあった。
けれど、欲しいとは思わなかった。
記憶の中にあったものより、小さく見えた。
銀色のベルトは、今の自分には少し細すぎた。淡い青色の文字盤も、あの頃ほど特別な色には見えなかった。
雪はしばらく、その事実を受け入れられずにいた。
あれほど欲しかった。
ジュースを我慢した。
クレープを買わなかった。
缶の中の硬貨を、何度も数えた。
大人になったら必ず買うと決めていた。
それなのに、店の扉へ手を伸ばそうとは思わなかった。
値段を惜しんでいるのではない。
買うかどうか迷っているのでもない。
もう、欲しくなかった。
そう認めると、胸の中に小さな空白ができた。
ガラスに映った自分は、高校生の頃に想像していた大人の女性とは少し違っていた。
仕事用の服を着ている。
自分で買った鞄を持っている。
一人で電車へ乗り、知らない会社へ研修に行くこともできる。
けれど、仕事では失敗する。
上司から注意を受け、帰宅してからも言われた言葉を思い出す夜がある。
朝は眠く、洗濯物を畳まずに寝ることもある。夕食を作るのが面倒で、納豆と味噌汁だけで済ませる日もあった。
大人になれば、迷わず生きられるようになると思っていた。
実際には、二十九歳になっても迷うことばかりだった。
それでも雪は、自分で部屋を借りていた。
何を買うかを自分で決め、どこへ行くかを自分で選んでいた。
疲れた日は早く寝てもいい。休みの日に何もせず過ごしてもいい。母に手袋を贈りたいと思えば、今では貯金を崩さずに買うことができる。
時計を身につけていなくても、雪は大人になっていた。
高校生の頃に見ていた未来へ、思い描いた形とは違うまま、いつの間にかたどり着いていた。
店の奥で、人が動く気配がした。
やがて、高齢の男がショーウィンドウのそばへ来た。白い髪を短く整え、薄い灰色の上着を着ている。
男は雪に気づくと、店の扉を開けた。
小さな鐘が鳴った。
「その時計、気になりますか」
雪はすぐに答えられなかった。
男の後ろには、狭い店内が見えた。壁に掛かった時計が、それぞれ少しずつ違う音を立てている。
「昔、すごく欲しかったんです」
やがて雪は言った。
「そうでしたか」
「高校生の頃、毎日ここを通っていて」
店主は雪の顔を見た。
覚えているのかどうかは分からなかった。毎日のように立ち止まっていたといっても、雪は店の中へ一度も入ったことがない。
「これは、ずいぶん長く置いてありますからね」
店主は時計を振り返った。
「こういう細いものは、今はあまり選ばれなくなりました」
「そうなんですね」
「試しにつけてみますか」
店主は扉を少し大きく開けた。
腕につければ、何かが戻ってくるかもしれない。
細い銀色のベルトが手首に触れた瞬間、十六歳の自分の気持ちがよみがえるかもしれない。
そうなれば、買って帰ることもできる。
昔の約束を、予定より十三年遅れて果たすことができる。
雪は時計を見た。
けれど、店の中へ入ろうとは思わなかった。
「いいえ。大丈夫です」
静かに首を振った。
「そうですか」
店主は引き止めなかった。
雪は、もう一度ショーウィンドウを見た。
「ずっと置いていてくださって、ありがとうございました」
店主は少し不思議そうな顔をした。
それから、穏やかに笑った。
「いえ。こちらこそ、覚えていてくださって」
扉が閉まると、もう一度、小さな鐘が鳴った。
時計は雪を待っていたのではない。
ただ、長いあいだ売れずに、同じ場所へ置かれていただけだった。
それでも雪は、あの時計の前へ戻ってこられたことをうれしく思った。
約束を破った気はしなかった。
買わなかったことで、ようやく約束を果たしたような気さえした。
時計を迎えに来たのではない。
もう迎えに来なくてもよい自分になったことを、確かめに来たのかもしれなかった。
総菜店の前まで戻ると、揚げたてと書かれた紙が店先に出ていた。
コロッケ一個、百二十円。
高校生の頃、何度か我慢したことを思い出した。
雪は一つ買った。
紙袋はすぐに油が染み、持っている指が温かくなった。
商店街の端にあるベンチへ座り、仕事用の服へこぼさないよう、少し前かがみになって食べた。
衣は軽く、じゃがいもは甘かった。
特別な味ではなかった。
それでも、温かく、おいしかった。
時計を欲しくてたまらなかった十六歳の自分は、もういない。
そう思うと、少し寂しかった。
同時に、ほっとしていた。
人の心は変わる。
大切だったものが、いつの間にか必要ではなくなることもある。
けれど、今は欲しくないからといって、昔の気持ちまで嘘になるわけではない。
あの頃の雪は、本当にあの時計が欲しかった。
時計の向こうにいる大人の自分を信じたかった。
何になりたいのかも分からないまま、未来へ行くことだけは楽しみにしていたかった。
淡い青色の時計は、まだ見えない明日を、雪の代わりに形にしてくれていた。
コロッケを食べ終え、紙袋を小さく畳んだ。
鞄からスマートフォンを出すと、母から連絡が届いていた。
『近くまで来ているなら、夕食を食べていかない?』
母には、途中で商店街へ寄ると伝えていた。
雪は少し考えてから、返事を打った。
『行く。コロッケも買っていくね』
送信すると、すぐに既読がついた。
雪は立ち上がり、総菜店へ戻った。
その途中で、もう一度、森川時計店の前を通った。
今度は立ち止まらなかった。
ショーウィンドウの中で、淡い青色の文字盤が夕方の光を受けていた。
雪は横目でそれを見て、そのまま歩いた。
胸は痛まなかった。
時計が欲しいとも思わなかった。
ただ、十六歳の自分へ報告するように、心の中で言った。
(ちゃんと、大人になったよ)
それから雪は、今夜食べたいものを自分で選ぶために、総菜店の明るい店先へ向かっていった。




