例題原案『欲しかった時計』
原案『欲しかった時計』
作品形式
単話完結。
主人公の高校時代と、十三年後の現在を描く。
高校生の頃にはどうしても欲しかったものが、それを自由に買える大人になったときには、もう欲しくなくなっている。
その心の変化を通して、憧れ、成長、喪失、時間の経過を描く物語。
主人公
中村雪。
物語前半では高校二年生、十六歳。
目立つ性格ではないが、友人といるときにはよく笑う。自分の希望や将来について、人へ積極的に話すことは少ない。
家庭は特別貧しいわけではない。しかし、高価なものを気軽に買ってもらえるほど裕福でもない。雪自身も、両親へ無理なお願いをすることに申し訳なさを覚えている。
物語後半では二十九歳。
大学卒業後に就職し、社会人七年目を迎えている。一人で生活し、高校生の頃には手の届かなかったものも、自分の判断で買えるだけの収入を得ている。
原案
高校二年生の中村雪は、放課後になると友人の佐伯美咲と一緒に、古い商店街を通って帰っている。
商店街には、八百屋、総菜店、和菓子屋、靴屋、雑貨店などが並んでいる。
店の人々は、毎日のように通る雪たちの顔を覚えている。
総菜店の前を通ると、店員からコロッケを勧められる。美咲は新しくできたクレープ店や、学校の友人、気になっている男子の話をする。
雪も笑いながら話を聞いている。
しかし、商店街の途中まで来ると、雪はいつも少しだけ歩く速度を落とす。
そこには、森川時計店という古い時計店がある。
看板の金色の文字は少しくすみ、店内には古い掛け時計や置き時計が並んでいる。
そのショーウィンドウの中央に、雪が欲しくてたまらない腕時計が飾られている。
細い銀色のベルト。
淡い青色の文字盤。
数字や装飾は少なく、静かで上品な形をしている。
値段は二万八千円。
高校生の雪には、簡単に買える金額ではない。
美咲は、その時計を少し地味だと思っている。
それでも雪は、毎日のように時計の前で立ち止まる。
ある日、美咲から、そこまで欲しいのなら誕生日に買ってもらえばよいと言われる。
雪は、腕時計に二万八千円も使ってほしいとは両親へ言えないと答える。
すると美咲は、大人になれば普通に買えるのではないかと言う。
雪はその言葉を聞き、時計を身につけた未来の自分を想像する。
きれいな服を着て働いている。
自分で稼いだお金を持ち、一人で時計店へ入る。
誰かに相談することも、許可を求めることもなく、欲しい時計を指さして言う。
「これをください」
雪にとって、それは大人の女性の姿だった。
雪は美咲へ言う。
「じゃあ、大人になったら買う」
美咲にとっては、帰り道に交わした何気ない会話だった。
しかし、雪にとっては、自分の未来との約束になる。
雪が時計を欲しがるようになった背景には、将来への漠然とした不安がある。
母親から進路について尋ねられても、雪には明確な答えがない。
大学で何を学びたいのか。
将来、どのような仕事をしたいのか。
どのような人間になりたいのか。
雪にはまだ分からない。
友人たちは教師や看護師になりたい、都会へ出たいなど、それぞれの将来を口にしている。
夢を持っていない自分を、雪は少し恥ずかしく思っている。
そんな雪にとって、時計は大人になった自分の象徴となる。
その時計を身につけている女性は、仕事ができる。
一人で知らない場所へ行ける。
自分で欲しいものを選び、自分で買える。
自分の時間を、自分で決めることができる。
雪は時計そのものだけでなく、その時計の向こう側にある未来へ憧れている。
しかし、当時の雪は、そのことに気づいていない。
ただ、時計を見るたびに胸が高鳴る。
どうしても欲しい。
いつか必ず、自分のものにしたい。
雪は少しずつ貯金を始める。
帰り道に買っていたジュースを我慢する。
美咲とクレープ店へ行っても、何度か注文を控える。
古い缶を貯金箱にし、五百円玉や千円札を入れていく。
最初のうちは、お金が増えることが楽しい。
硬貨や紙幣を数えるたび、時計へ近づいているように感じる。
しかし、高校生の小遣いにとって、二万八千円は遠い。
友人の誕生日がある。
部活動や学校で必要な出費がある。
参考書を買わなければならない。
少しずつ貯まっても、何かがあるたびに減っていく。
それでも、雪は貯金を続ける。
やがて、貯金は一万円を超える。
その頃、母親の誕生日が近づく。
雪は、母親が商店街の雑貨店にある手袋を何度か眺めていたことを思い出す。
雪は迷った末、時計のために貯めていたお金の一部を使い、母親へ手袋を贈る。
母親は驚き、うれしそうに何度も礼を言う。
「大切に使うね」
雪もうれしくなる。
その一方で、時計が遠ざかったことを少しだけ寂しく思う。
しかし、後悔はしない。
時計は大人になってから買えばよい。
雪は、そう自分へ言い聞かせる。
高校三年生の冬。
卒業を控えた雪は、一人で商店街を歩く。
美咲は塾へ通っており、その日は一緒ではない。
雪は地元の大学へ進学することになっている。
しかし、将来何になりたいのかは、まだはっきりしていない。
森川時計店の前へ来る。
淡い青色の文字盤を持つ時計は、まだ同じ場所にある。
値段も変わっていない。
雪は長い間、ガラス越しに時計を見つめる。
卒業祝いとして両親へ頼めば、買ってもらえるかもしれない。
けれど、雪は頼まない。
この時計だけは、自分で働いたお金で買いたいと思っている。
自分で稼いだお金を持ち、店の扉を開ける。
それができたとき、自分は本当の意味で大人になれるような気がする。
雪は、ショーウィンドウの中の時計へ心の中で語りかける。
待っていてね。
大人になったら、迎えに来るから。
それが、高校生の雪がその時計を見る最後の日になる。
それから十三年が過ぎる。
二十九歳になった雪は、仕事の研修を終え、電車で帰ろうとしている。
車窓から、かつて暮らしていた町の名前が見える。
実家には現在もときどき帰っている。
しかし、駅からは両親の車に乗ることが多く、昔の商店街を歩くことはほとんどなくなっている。
その日は予定より早く仕事が終わっている。
雪は思いつきで一駅手前に降り、久しぶりに商店街を歩いてみる。
商店街は変わっている。
八百屋は閉店している。
総菜店は代替わりし、明るい外観へ改装されている。
クレープ店のあった場所には、別の店が入っている。
高校時代には長く感じた道が、今では驚くほど短い。
雪は仕事用の服を着ている。
肩には鞄を掛け、財布には現金とクレジットカードが入っている。
高校生の頃に欲しかった二万八千円の時計なら、今の雪はその場で買うことができる。
生活を大きく切り詰める必要もない。
商店街を歩きながら、雪は森川時計店のことを思い出す。
まだ残っているだろうか。
懐かしさを感じた雪は、少しだけ歩調を速める。
森川時計店は、昔と同じ場所に残っている。
看板の文字はさらに薄れ、シャッターには錆が浮いている。
それでも、店先には営業中の札が掛かっている。
雪はショーウィンドウをのぞく。
そこには、あの腕時計がある。
細い銀色のベルト。
淡い青色の文字盤。
高校時代に見ていたものと、ほとんど変わっていない。
ただし、値札は新しくなり、三万六千円と書かれている。
高校生の頃なら、八千円の値上がりを途方もないことだと感じただろう。
しかし、今の雪には買えない金額ではない。
雪は時計の前に立つ。
十三年前、何度も想像した日が来ている。
自分で稼いだお金がある。
店の扉を開け、時計を指さし、
「これをください」
と言うことができる。
けれど、雪の胸は高鳴らない。
時計を見ても、欲しいと思わない。
思い出の中にあるものよりも、小さく見える。
銀色のベルトも、今の自分には少し華奢に感じられる。
淡い青色の文字盤も、昔ほど特別には見えない。
雪は戸惑う。
あれほど欲しかった。
何度も時計を眺めた。
少しずつお金を貯めた。
大人になったら必ず買うと決めていた。
それなのに、店の扉を開けようとは思えない。
値段を惜しんでいるわけではない。
買うかどうか迷っているのでもない。
ただ、もう欲しくない。
その事実を認めたとき、雪は少しだけ寂しくなる。
高校時代の記憶がよみがえる。
制服。
重たい学生鞄。
美咲との帰り道。
ジュースやクレープを我慢したこと。
貯金箱の硬貨を何度も数えたこと。
母親へ手袋を買い、うれしさと寂しさを同時に感じたこと。
あの頃の雪にとって、二万八千円は途方もない金額だった。
大人になることも、遠い未来だった。
しかし、実際に大人になった雪は、高校生の頃に想像したような完璧な女性ではない。
朝は眠い。
仕事では失敗する。
上司に叱られることもある。
夕食を作るのが面倒になり、簡単な食事だけで済ませる夜もある。
自分の時間を、すべて自由に使えるわけでもない。
大人になれば、迷わず生きられるようになると思っていた。
けれど、大人になっても迷うことはある。
それでも雪は、自分で働いている。
自分で部屋を借りている。
何を買うか、どこへ行くか、今日をどのように過ごすかを、自分で決めている。
いつの間にか雪は、高校生の頃に憧れていた場所へたどり着いている。
時計を身につけていなくても、大人になっていた。
雪は、自分が本当に欲しかったものについて考える。
自分が欲しかったのは、時計そのものではなかったのかもしれない。
今とは違う自分。
自分で何かを選べる未来。
誰かに許可を求めなくても、自分の人生を決められる人間。
雪は、その未来の姿を時計へ重ねていた。
だから、その未来へたどり着いた今、時計は役目を終えている。
欲しくなくなったのは、昔の夢を裏切ったからではない。
時計が必要なくなるところまで、自分が歩いてきたからだった。
店の中から、高齢の店主が出てくる。
店主はショーウィンドウの前にいる雪へ気づき、扉を開ける。
「その時計、気になりますか」
雪は少し迷ってから答える。
「昔、すごく欲しかったんです」
「そうでしたか」
「高校生の頃、毎日ここを通っていました」
店主は雪の顔を見る。
雪のことを覚えているのかどうかは分からない。
店主は、時計も長く店に置かれていると話す。
雪は、その時計が自分を待っていたわけではないことを思う。
ただ、長い間、同じ場所に置かれていただけなのだ。
店主は、試しにつけてみるかと尋ねる。
腕につければ、昔の気持ちが戻ってくるかもしれない。
そのまま買って帰ることもできる。
しかし、雪は静かに首を振る。
「いいえ。大丈夫です」
昔の自分との約束を破るような罪悪感はない。
むしろ、その時計の前へ再び戻ってきたことで、約束を果たしたような気がする。
時計を買うためではない。
もう買わなくてもよい自分になったことを知るために、ここへ来たのかもしれない。
雪は店主へ頭を下げる。
「ずっと置いていてくださって、ありがとうございました」
店主は少し不思議そうな顔をしながらも、穏やかに答える。
雪は時計店を離れる。
商店街を歩いていると、総菜店から揚げ物の匂いが漂ってくる。
高校時代、時計のために何度か我慢したコロッケを思い出す。
店先には、コロッケ一個百二十円と書かれている。
雪は一つ買う。
紙袋に入った熱いコロッケを持ち、商店街の端にあるベンチへ座る。
仕事用の服へ油を落とさないよう、少し前かがみになって食べる。
特別な味ではない。
それでも、温かく、おいしい。
雪は時計店のある方角を見る。
時計を欲しくてたまらなかった十六歳の自分は、もういない。
そのことを寂しく思う。
同時に、少し安心もする。
人の心は変わる。
かつて大切だったものが、いつの間にかどうでもよくなることもある。
しかし、今は欲しくないからといって、昔の気持ちまで嘘になるわけではない。
あの頃の雪は、本当に時計が欲しかった。
その憧れがあったから、まだ見えない未来を思い描くことができた。
大人になることを、少しだけ楽しみにすることができた。
今、時計は物として欲しいものではなくなっている。
しかし、十六歳だった雪の憧れとして、記憶の中に残っている。
コロッケを食べ終えた雪は、紙袋を小さく畳む。
スマートフォンを見ると、母親から連絡が届いている。
近くまで来ているのなら、夕食を食べていかないかと書かれている。
雪は少し考えた後、実家へ行くと返信する。
コロッケも買っていくと付け加える。
雪は立ち上がり、総菜店へ戻る。
その途中でもう一度、森川時計店の前を通る。
今度は立ち止まらない。
ショーウィンドウの中では、淡い青色の文字盤が夕方の光を受けている。
雪は横目でそれを見ながら、そのまま歩いていく。
胸は痛まない。
時計が欲しいとも思わない。
雪は、昔の自分へ報告するように、心の中で言う。
ちゃんと、大人になったよ。
そして、自分が今夜食べたいものを買うために、商店街を歩いていく。
物語の主題
欲しかったものが、手に入れられる頃には欲しくなくなっていること。
心が変わることは、過去の自分を裏切ることではない。
かつての憧れは、永遠に欲し続けるためにあるのではなく、人を未来へ歩かせる役目を持つことがある。
時計を欲しくなくなったことは、雪が夢を失った証ではない。
時計がなくても、自分の人生を選べる場所まで歩いてきた証である。
かつて切実だった願いが役目を終え、静かに過去へ変わっていく。
その寂しさと安堵を描く。




