1-2「我が名はサクラ・ライゼンなり」
竜人・チェリーは、とある竜人たちの住む集落で生まれた。
それは本当に小さな集落であり、総数にして五十に満たない竜人たちしかいなかった。
だが、竜人にとってそれは普通の事でもあった。
何故なら彼らは寿命が極めて長く、『ヒト』の中でも強大な力を有している反面、繁殖能力やその意欲は他の『ヒト』に比べて大きく劣っていたからだ。
また、『ヒト』の中でも不器用であり、国を作り維持するだけの統率能力を持たない者が多かったのも理由の一つにある。
人里離れた山奥にあるその集落で、チェリーは生まれた当初は神童と呼ばれていた。
それは高い潜在魔力を誇る竜人の中でも、とりわけ強大な……最高と言い換えてもいいほどの魔力を秘めて生まれてきたからである。
だが、それも幼年期までに過ぎなかった。
チェリーは『魔法』が使えない子供だったのだ。
魔法の使い方は、呼吸と同じ。誰もが自然に使えるものであるはずだった。
勿論、複雑な魔法になれば専門の学習は必要になる。だが、最低限……竜人が竜と人間の姿を切り替えたり、竜のブレスを吐き出すような原初の魔法は、その限りではなかった。
他の竜人の子どもが三十歳……通常の人間換算で三歳を超える頃には人の姿になれたのに対し、チェリーは一向に竜の姿を変える事は叶わなかった。恵まれた魔力を持ちながら、その魔力を扱う事が何一つ出来ない。
その事実が大人たちを失望させ、子ども達の嘲笑の対象となるのに時間はかからなかった。
どうして自分は人の姿になれないのか。
どうしてブレスを吐く事すら出来ないのか。
チェリーは悩んだ。どれだけ悩み、もがこうともそれらの疑問に答えが返ってくることは無かった。
限界が来たのは、チェリーが生まれてから百二十年を過ぎた頃だった。
その頃、大人たちは実の両親を含めてチェリーを無いものと扱っていた。いや、全くの無視をされていたわけではない。チェリーの持つ誰よりも高い魔力は、かけがえのないものだったのだから。
故に、大人たちはチェリーが子供を産めるまで育ったら、優秀な竜人を産む母体にしようと考えていた。
その事実に気付いたのは、ほんの些細な偶然だった。
人格を無視され、勝手に未来を決めつけられる。その事実はチェリーの絶望を加速させるに十分だった。
チェリーが里を離れる決意をしたのはそれから三日後。
魔力の高さは、そのまま肉体強度の高さにも繋がる。里を離れようとした際に、多くの竜人にせき止められようとしたチェリーだったが、その圧倒的な力で全てをねじ伏せ、強引に飛び去った。
それから当てもなくあちこち彷徨い、ようやく自らの居場所を見つけたのは数か月後の事。
近くに人気もなく、深い森に囲まれた小高い山にぽっかりと空いた洞窟。
そこで惰眠を貪りながら静かに生きていこうとチェリーは考えていた。
――はずだった。
そこに見ず知らずの冒険者が現れて、突然攻撃されるまでは。
それは三十年ほどの時を穏やかに過ごし、その日も変わらずチェリーが昼寝に甘んじていた間の事。
ふと何かの気配を感じ目を開くと、目の前に武器を携えた人間の男が立っていた。
何事かと思うよりも早く、男よりも後方から矢が飛んでくる。
咄嗟にそれを振り払っている間に、目の前の男が剣を振りかぶっていた。チェリーは翼を羽搏かせて飛び退る。
何故。
チェリーの頭には疑念が浮かんでいた。
人に襲われる理由など、一つも浮かばなかった。強いて言えば故郷の竜人たちだが、目の前の冒険者たちが故郷の竜人とかかわりがあるようには見えなかった。
何か誤解があるのではないか、と思い立ち口を開こうとした。
しかし、問答無用とでも言わんばかりに更に矢の嵐が襲い掛かってきた。
対話をしようにも相手の戦意が強すぎる。
そう悟ったチェリーはまずは退こうと飛び上がった。例え相手に殺気があるといえど、同じ『ヒト』を殺す気にはなれなかったのだ。何故なら、彼らに悪意があるようには見えなかったからだ。
しかし、チェリーの思いとは裏腹に風の魔法や矢が執拗に襲ってくる。
一度離れた方がいいと判断したチェリーは、天井の穴から外に出ようと考えた。
それが失策だった。
嫌な予感が走った。チェリーが視線を向けた先、そこにはじっと立ち尽くす魔法使いの恰好をした女がいた。
彼女の手には、見慣れない道具が怪しく光っている。
そう思ったとほぼ同時、閃光が視界を覆った。
その閃光から溢れる殺意に、チェリーは己が死を確信した。
避けられない。
彼らの狙いはこれだったのか、と今更ながらに気付く。
その時、チェリーの脳裏にはこれまでの人生が走馬灯のように溢れていた。
生まれてから友達など一人もいなかった事。
どれだけ声をかけても無視をする大人たち。
怒りと絶望とで大暴れして故郷を離れた時の事。
良い思い出など、何一つ浮かびはしなかった。
その事実に、余計に悲しさが増して。
せめて次の人生は一つでも良い事がありますように、と思ったところで。
不意に、それは押し寄せた――
――タイムリミットが来てしまった――
チェリーの脳内に声が響く。それは聞いた事の無いはずの、だがしかし懐かしい感覚を覚える声だった。
――だが、この夢だけは諦めたくない。諦めきれない――
夢。チェリーが一度として抱いた事のないはずのその言葉が、痛烈に胸を揺さぶる。
――今生には叶わずとも、来世ならば――
来世ならば、それは今しがた考えていた事だ。だが、どこか違和感があった。
――そうだ。私は必ずこの手で造り上げる――
造り上げるとは、何を?
――私の夢。それは――
それは?
チェリーの脳裏に浮かび上がるシルエットがあった。
それは人の形をしていたが、人ではなかった。
思わず手を伸ばす。
しかし、チェリーの手は届かない。
諦めてはダメだと何かが囁く。
チェリーは更に力を入れて手を伸ばした。
ほんの僅か、指先がそれに触れた。
その時。
シルエットだったその全景が、姿を現した。
同時に、チェリーは理解した。
囁く声の正体を、己の正体を、そして自分が何をするべきなのかを。
――気付いた時、チェリーの姿は人の形となっていた。まるでそれが当たり前の姿だったように。
自身を焼き尽くすはずだった閃光が、頭上を通り過ぎていく。身の丈が変わった事で辛うじて直撃を避けられたようだった。
人の姿になった事で翼は消失し、チェリーは地面に勢いよく落下していた。
咄嗟に受け身の姿勢を取り、地面を転がる。衝撃を上手く逃がせたようで痛みは然程感じなかった。あるいは竜人としての身体能力が落下の衝撃をものともしなかったのかもしれない。
地べたに立ち、チェリーは改めて自身の肢体を確認する。
獲物を切り裂く鋭い爪も、鋼を弾く鱗もない。滑らかな肌に丸っこい爪。地面に触れる足も、目の前で握る両の手も、間違いなく人間のそれだった。
見た事はあれど、初めて体感するはずのその肉体が、しっくりと馴染んでいた。
胸に手を当てる。体はぼろ切れを纏っていた。かつて竜人の集落で、まだ神童と呼ばれていた時に贈られた、人間の姿になれた時用の子供服の残骸だった。
己が体を確かめたチェリーは、次に先ほどまで戦っていた冒険者たちへと視線を向けた。
彼らは目の前にいるチェリーを、信じられない物を見るような目で呆然と見ていた。
「君は……竜人だったのか」
「うむ。私は……いや」
冒険者の声に、チェリーは……否、その竜人は名乗ろうとし、その口を一度噤んだ。
何故なら、既にその意識はチェリーのままではなくなっていたのだから。
遠い遠い過去からの想いが、悦びとなって彼女の全身を駆け巡っていたのだから。
「覚えておくがいい! 我が名はサクラ! サクラ・ライゼンなり! はーっはっはっはっは!」
彼女……チェリー改めサクラは天まで響き渡るような大声で笑いあげた。
それは。
記憶の奥深くから聞こえてきた声が教えてくれた名前。
竜人チェリーが、ただの人間であった頃。夢を追いかけていた頃の名前。
死の間際に思い出した、前世の名前だった。