放課後☆silent science
そのとき理科室から怪しい声。
生徒たちもあらかた帰路につき、昼間の賑わいを忘れたこの廊下にまだ居残っているのは、扉一枚に耳をくっつけている僕くらいのものだった。
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心臓がバクバクと鳴り響く。これじゃあ、せっかく鳴りを潜めたってのに、すぐにバレてしまうのではないか?
もっとも、アッチがその状況によるスリルを楽しもうってな算段なら、物音の一つ立てても僕に罪はないのだろうが……。
できれば聴いて(聴こえて?)しまったこちらのことに関しても少しくらい配慮……というか、そもそも遠慮して欲しかった──と、いうのも。
「わ……いますごく反応しましたねえ」
「いやあーカナちゃん上手だね、ふっ、才能あるんじゃない?」
「べつに要りませんよおー、こんな才能……あ、また」
このドアの向こう、つまり第二理科室である。主に物理や科学の実験を行う。そう、至って健全で学業的な場──の、ハズだ。
遡ること十五分前……。
僕は放課後の校舎が好きだ。人気のない階段。数十分前とはまるで異なる表情を見せる、物静かな教室。窓の外には、部活動の生徒たちの声。
当番の清掃も終えた時間の、透き通った雰囲気と、心も開放してくれる広々とした空間にて、僕は青春を独り占めする。
「なんて清々しい気分なんだ!」
先生たちも職員室に居るし、貸し切り状態のこの教室はもはや僕だけのお城だ。その上、これくらいの叫びを発しても、誰かを気遣う必要もないなんて。
僕の行く場所は、直感により日替わりだ。そしてそこは、間違いなくその日の僕にとって最高な場所。
くだらないと思われるかもしれない。子供っぽいとか、馬鹿じゃないのだとか、指摘されるかもしれない──でも。
ココが、僕の『居場所』なんだ。
「今日はー、いずこにー、しようかなっ」
舞い上がった埃も寝静まった頃、即興の自作ソングをデタラメに口ずさみながら、東階段へと歩を進める。そういえば、国語科の西先生が四階に展示されている一年生の習字の作品をそろそろ剥がすとか言っていたっけ。
目的地が決まり、軽やかにステップを上昇させる。五十二段をあっという間に昇り終えた僕は、左折し、経路をそのまま辿る。右前方より、今回のトレジャーが見えてきた。歩行が、期待が、無意識に加速する──しかし。
旅はここまでだった。
「────?」
「──!」
なにやら、人の声が聞こえた。視線を九十度曲げると第一理科室が目に入った。ああ、補習か。勉強熱心なのはいいことだ。それにこの時間まで付き合う教師も、素晴らしい教育者じゃないか。僕は気分良く通り過ぎ──
「ふわ、おっきいですねえ」
ガタッ。
とっさに壁に張り付いちまったよ。しょうがないよね、男の子だもん!
それにしてもこんな台詞がまさか学校で聞けるとは思わなかった、というか焦った……。ところで、ナニが大きいんだろう?
「それに、それに、重いです、文鎮みたいですう……こんなのはじめて見ましたあ」
おも……? ちん……?
と、そこで僕は気づく。この特徴的な喋り方はまさかっ!
「はっはっ、先生のはトクベツだからね。それに、君が相手してくれるから、おっきくなったんだよ。ちゃんとよく見ておくんだぞ」
……この声もまさかっ!
腰を屈めてつま先で移動する。抜き足差し足忍び足。緊張をほとばしらせながら、ドアのガラス張りを覗き見る。
「おっきくなっちゃいましたか、ふふっ」
「おっきくなっちゃったよ、ははっ」
……机とか椅子とか実験器具とかでよくは見えなかったが、確かに教室には──A組のカナさんと理科担任の君田がいた。
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市立朱雀坂第四中学校、二年A組のカナさん。C組の僕とは隣の隣のクラスだ。
彼女を一言で表すとするならば、なんかふわふわしている、だ。天然っ娘である。ドラ◯もんみたいに地面から三ミリ浮いているんだ、たぶん。
「あ、なんかいま、ちょっとビクってなりませんでしたかあ?」
「カナちゃん、もう少し強くやって」
「こうですかあ? ……ひゃっ」
小さな悲鳴があがった。
顔が紅潮しているのすらも自覚できる。──咄嗟に隠れてしまった。
(何をやっているんだ、あいつら!?)
(『生物』は第一理科室だろ!?)
(つーか、『生物』って、ナマナマしいわ!)
……独りツッコミをするくらいには、僕の脳ミソは参っていた。混乱する。
ちらり、と教室の時計に目を遣る。ここからなら頑張れば見える角度だ。午後六時五分。部活の連中はとっくに居ない。校舎に残っているのは、僕だけだと思ったが……。
「いやあー勉強熱心だねえ、カナちゃん。先生もヤリがいがあるよ」
「はい……先生に見られると、嬉しいですう……」
(勉強熱心!?)
(見られると嬉しい!?)
……デブで豚みたいに脂ぎった理科担任君田と、華奢でふわふわした生徒カナさんの光景図が脳裏に閃く……。
「お、いいねーヤル気満々だねー、ハッハッハ」
(何抜かしてんだ教師君田!)
(相手は女子○学生だぞ!?)
……ふつーに中学生だ。なぜ伏せ字にしたのかは自分でもわからん。
「よーし、じゃあ先生もホンキ出しちゃうかな……ソレッ」
「うわ、おっきく動きましたあ」
「そう。この固いのを速く、しごけば、おっきくなるのだよ。ハッハッハ」
(やめろ君田!)
(あと何でカナさんも乗り気なんだ!)
(つか反応が雑過ぎないか!?)
「ほら、カナちゃんも、積極的にっ」
「はい……」
(はいじゃねえ!)
「握ってっ」
(握るな!)
……周りを見る。誰もいない。がらんどう。かろうじて向かい校舎の二階、職員室の電気が点いている。あそこまでは、こっから二階下って、渡り廊下を渡らなければ……。遠いな……。
(誰か来てくれ……)
「そのまま上下に動かしてッ」
「上下…? どっちがx軸ですかぁ?」
「さあその先生のx軸を動かすんだッ」
(おもんねえわ!)
……クソッ!
あの教師今すぐぶっころがしてえ!
「向き、反対にしてッ。そんで、挿れると……ほうら」
「あ、そっぽ向いちゃいましたあ」
「でも、おっきく揺れたでしょ?」
「はい、ビクってなりましたあ……」
……やべえ、やべえよ……。
つーかさっきから、地の文がカッスカスだ。
「カナちゃん、ホント飲み込みがいいねえ」
「いえ、先生の教え方が上手いんですう……」
「ハッハッハ。いいコには先生がごほうびあげちゃおうかな」
「えーいいんですかあ」
「皆にはヒミツだぞ? ハッハッハ」
「うふふふふっ」
(……ナンヤコレェ)
……ワイ、困惑気味。関西弁なってまうほどに。
もう地の文を書く気も失せた。
低能モード突入。
「ウウッ……カナちゃん、来ちゃうよお……ビリビリが、来ちゃうよお……」
(え)
「はい、大丈夫ですう……ちゃんと、繋がってますう……。ゴムから、はみ出てますう……」
(ま、待て)
「来ちゃうよお……カナちゃん、来ちゃうよお……」
(いやそれはダメだろ!)
(……今までのも充分アウトだが!)
「来ちゃうよお……カナちゃん先生のビリビリ来ちゃうよおおおおおおおおおおお!」
(はい、アウトオオオオオオオオオオオ!)
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「やめろこの鬼畜○行教師ッ! 通報するぞ!」
ガラッ! とドアを思いっきり開けた。
「「え」」
理科室には、女子生徒カナさんと教師君田がいた。
その机には、でかいコイルと磁石があった。
「……え?」
コイルにはゴムから顔を出したワニ型クリップに、電流計が繋がっていた。
……うん?
「おお、君はC組の鈴木くんじゃないか──なぜここに? もう帰る時間だぞ」
「鈴木くん……?」
君田とカナさんが僕を見た。
「いや……えっと……」
「……わかったぞ! 君もこの電磁誘導の補習実験に参加したいのだな? いいコいいコ、点数あげちゃう」
君田教師は人の良い笑顔で笑い、両腕を上げた。歓迎のサイン。
「さあ! 三人で楽しく勉強しよう!」
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実験の後、僕は君田教師に勧められて理科部に入った。カナさんも『わたしも是非』、と言って入部した。僕とカナさんは放課後理科部で会話するようになり、仲良くなり、告白し、付き合った。進学後も関係は続き、同棲し、妊娠し、結婚し、出産した。
(了)
結婚式の主賓挨拶は君田。