透明な世界。色づく君へ
「今日はコロッケにしようね~一緒に作ってくれるかな?」
「うん!終わったら、一緒に遊ぼ!」
「いいよ~。なら、早く終わらせないとねっ」
「まずは、ジャガイモの皮を剝いて~その後は~」
徐々にお母さんの声と姿が遠ざかっていく。
「お母さんっ!」
必死に手を伸ばしてもその手は空をきる。何度だって、その小さな手を伸ばした。
「お母さんっ!」
授業の終わりを告げるチャイムが聞こえる。
「嫌な夢……」
授業は先生が体調を崩したとのことで自習となっていた。そのため、周りを見ても私と同様に寝ている生徒がちらほらいた。
「ふぅあ」
軽く伸びをして眠気を覚ます。周りの寝ていた生徒も続々と起きだして荷物をまとめている。部活に向かう準備をしているのだろう。私は部活と委員会どっちにも入っていないので下校するだけだ。
雨の中せっせと走り込みをしている運動部にご愁傷さまと心の中で呟きながら帰路に就く。途中で夕飯の材料を切らしていたので帰り道にスーパーによることにした。
夕飯の材料を買って家に帰っている時、通りすがりの親子の声が聞こえてきた。
「なんであの人、傘もささずに座ってるの?」
公園を通りかかった子供が一緒にいたお母さんへ話しかけていた。少年の指さした方向を目で追うと、傘もささずに公園のベンチに座る少女を見つけた。
彼女のことが何故か気になり、気づいたら五分ほど彼女のことを見つめていた。
ただ虚空を見つめて呆然と座っている少女に私は近寄って、声をかけた。
「どうしたんですか?」
少女は少し驚いていたが、答えてくれた。
「……家が無くなちゃってっ」
と笑いながら答えたが、見るからに空笑いだった。
「行く当てがないのなら、私の家に来ますか?」
同情? 憐憫? 自分でも分からない感情が溢れて、つい言ってしまった。
彼女は驚いたようにこちらを見上げ、「いいの?」と聞く。
「はい。大したものは出せませんが、それでも良ければ」
「ありがとう!」
感極まったのか、雨に濡れた体で抱き着いてきた。
「ちょっと、濡れてますからっ」
「ああ! ごめん! 嬉しくって、つい」
鞄から折り畳み傘を取り出して渡す。
「それを使ってついてきて下さい」
「うん」
歩き出すと、何が楽しいのか分からないが鼻歌まで歌い始めた。ご機嫌な彼女を連れて十分ほど歩き、自宅であるマンションの前に着いた。
「そういえば、貴方のお母さんとお父さんに連絡しなくてもいいの?」
「大丈夫です。ここには私しか住んでいませんので」
「え? 一人でここに住んでるの?」
「はい、高校に入ってからここに一人で暮らしています」
「今、何年生? 何歳?」
「一年で、十六歳ですね」
「一緒だよ~! 私も高校一年、十六歳!」
「そうでしたか。でも、高校はこの辺じゃありませんよね?」
彼女の制服はこの周辺で見る学生のものとは明らかに違ったものだった。
「まあ……ね。色々あってね。でも大丈夫、ここからでも通えるから!」
「それなら良かったです」
部屋に到着した。びしょびしょのまま中に入れるわけにはいかないので、中からバスタオルを持ってきて渡す。
「ある程度それで拭いてください。その間にお風呂の準備をしてきます」
彼女がタオルで髪や体をふいているのを確認したら、浴槽を掃除してお風呂を沸かす。
「着替えは、新品のものが有るので気にせず使ってください」
「何から何までありがとね」
「いえ、私がしたくてしてるのでお気になさらず」
「そういえば、こんなにいいマンションになんで一人で暮らしてるの?」
私が現在住んでいるのは3LDKの駅から徒歩圏内のマンションだ。高校生の一人暮らしともなれば、その疑問は当然だろう。
「高校が決まった直後、両親の転勤が決まったので、私だけここに残ることになったんです」
「へ~そうなんだ。しょうがないよね~転勤は。でも、寂しくないの?」
「特には」
「私だったら三日で孤独死しちゃうよ。すごいね!」
「そうでもないですよ。慣れです」
そんなこんな話していると、お風呂場から風呂が沸いたことを知らせる音楽が流れてきた。
「今着ている服は洗濯機の横に置いてあるネットの中に入れて、洗濯機に入れてください。あ、スカートとブレザー、下着類は別にしてください。分けて洗濯するので」
「分かりました!」
ピシッ! 敬礼のポーズをとる彼女を尻目に夕飯の支度にとりかかる。夕飯は昨日からある肉じゃがをリメイクしてカレーにする。肉じゃがを作った次の日はカレーにすると決めているのだ。
まずは米を研いで炊飯器にセットする。そして米が炊けるまでの間にカレーを作る。昨日の肉じゃがに、いつもより多く、具と水を足してから鍋に火をつける。具材に火が通ったら火を止めて、ルーを溶かす。ルーが溶けたら再度火をつけて、とろみがつくまで火を入れる。しばらく煮込んでいるとお風呂場から彼女が上がってきた。
「いい匂い。カレー作ってくれてるの?」
彼女の方を見ると、ぴちぴちのシャツを着てカレーの鍋をのぞき込んでいた。私としたことが、サイズの違いを考慮していなかった。彼女の身長は私よりもかなり高い、低く見積もっても七センチは違うだろう。胸部の差もかなりある。私は世間一般の言う貧乳であるが、彼女は貧しいという言葉には似つかわしくない物をお持ちだ。
「そのシャツと下着、キツイなら言ってください」
すると彼女は、私の胸と身長を見ながら「でも……代わりの物ないよね?」と聞いてきた。
「下着は急いで洗いますので、とりあえずそのシャツは脱いでください。もっと大きいものを渡します」
「ありがと!」
すると彼女は突然シャツを脱ぎ始めた。
「なんでここで脱ぐんですか!」
「えっ別に同じ女の子だし大丈夫だよ?」
「品がないです」
ぶーぶーと言う彼女を脱衣所に押し込み替えの服を渡す。脱衣所から出てきた彼女を見て、ふぅと一息つく。
「良かったです。サイズが合って」
「うん。じゃあ早速ご飯にしよっ! 匂いが良すぎてお腹がさっきからうるさいんだよ~」
「分かりました。ですからそんなに慌てないでください」
先ほどから聞こえてくるぐぅ~という音は彼女から出ていたのかと思いながら、ダイニングに向かう。
大きめのお皿に白米をよそぎ、そこにカレーを注ぐ。彼女にお皿を運んでもらい、席に着く。
「「いただきます」」
ふぅーふぅーしながら一口、我ながら美味しくできたんじゃないかと思う。顔を上げて彼女を見ると、無我夢中でカレーを口に運んでいた。よっぽどお腹がへっていたんだろう、どんどんお皿からカレーが無くなっていく。
「おかわりってありますか!」
「いくらでもどうぞ?」
「やったー!」
スキップしながらキッチンに向かって行った。
「そういえば聞き忘れてました。貴方の名前は?」
「名前? 名前はね~、白石葵。葵って呼んでね! それで、貴方の名前は?」
「私の名前は、黒澤 透佳です。透佳でお願いします」
「透佳ちゃん! いい名前だねっ!」
「ありがとうございます。貴方の名前も綺麗ですね」
「そうかなぁ? へへへ……ありがと!」
夕飯を食べ終わり、私がお風呂から上がると葵さんがお皿を洗ってくれていた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ、ごちそうさまでした。これぐらいはさせて下さい!」
彼女はそう言って、腕をまくる仕草をした。
「分かりました。ではお願いします」
彼女の思いを無下にするわけにもいかないので素直にその場を去る。
寝室は両親用の空き部屋がある。葵さんが寝られるようにマットとシーツを出す。自分の寝具を揃える時に、数量を間違えて注文してしまい物置きにしまっていたものだ。一応新品なので嫌がられることは無いと思う。
「よっこいしょっ」
マットが思いのほか重く、少し時間がかかった。
「後は上からシーツをかぶせてっ。出来た」
掛け布団の余りは無いがそこはタオルケットで我慢してもらおう。都会の梅雨は夜でも熱いので風邪をひくことは無いと思うが一応エアコンの点検をしておく。使っていなかったのでかび臭くなってるんじゃないかと心配だったが、その心配は杞憂で終わった。
リビングに戻るとソファに座ってうたた寝している葵を見つけた。
「葵さん。そこで寝ると風邪ひきますよ」
「もう食べられないよ~」
寝言を言い始めたので肩を揺する。
「起きてくださいっ。風邪っ! ひきますよ!」
「は! ごめん寝てた!」
「ベッドの支度が出来たので寝るならそっちで寝てください」
寝室に案内して別れを告げる。
「何か気になることがあれば私の部屋まで来てください。では、おやすみなさい」
「おやすみ~」
目をしばしばさせながらこちらに手を振る葵。あれなら五分もしないうちに寝るだろう。
「私もちょっと疲れました。今日は早めに寝ましょう」
翌日、いつもと同じ時間に起きると、すでに朝食が出来上がっていた。炊き立ての白米、カリカリベーコンと目玉焼き、みそ汁まで揃っていた。
「これ全部、葵さんが作ってくれたんですか?」
「うん! 昨日はごちそうになっちゃったからね!」
冷蔵庫の中を勝手に使ってごめんねと謝ってくる葵。
「気にしないで下さい。それより、朝ご飯ごちそうになりますね」
「うん。どうぞ召し上がれ!」
昨日の夕飯もそうだったが、誰かと一緒にご飯を食べるのは何年ぶりだろう。少し感傷に浸りながらご飯を食べる。
「美味しいです。ありがとうございます」
食事が終わり、一緒に後片付けをしている時に葵が聞いてきた。
「そういえば透佳ちゃんは何時ごろに家を出るの?」
「普段は七時ニ十分に家を出てます」
「へ~。結構近いんだ、いいなあ~」
「葵さんの学校はここからだとどのくらいかかるんですか?」
「う~ん、一時間ぐらいかなぁ」
「そこそこ遠いですね」
「まあね~」
時刻は午前六時半を過ぎたころだ。となるとそろそろここを出なければまずいのではないだろうかと心配になる。
「時間は大丈夫ですか?」
「あ~。昨日のうちに学校に連絡を入れてたんだ、明日休みますってね」
だから今日は休みなんだ~とのほほんとしながらお会いが答えてくれた。
「そうでしたか。では、合いかぎを渡しておくので家を出る際の戸締りはよろしくお願いしますね」
「うん、まかせて」
片づけを終えたら、次は部屋に戻って学校の準備をする。
下着の上にインナーを着る。そして、ハンガーにかけてあったワイシャツを手に取り、袖に手を通す。スカートを穿いてブレザーを着る。私にとって着替えは自分を変えるためのものだ。制服を着れば学校での自分になれるし、私服になれば家での自分になれる。といっても学校でも特に目立つようなことはしていない。あくまで気分の問題だ。
着替え終わると、ちょうどいい時間になったので家を出ようと思ったがその前に、葵さんに用があったのを思い出してリビングへ向かう。
「葵さん、今日の放課後空いてますか?」
「うん、空いてるよ~」
「なら、放課後に買い物へ行きましょう」
「いいけど、何を買うの?」
「貴方の下着や私服などです。ないと大変でしょう?」
「そっか! すっかり忘れてた」
「学校からまっすぐ帰ってくるので、それまでここで待っていてください」
「了解であります! 待ってるねっ。透佳ちゃん」
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃ~い」
何かが起こるわけでもなく授業が終わった。チャイムぎりぎりまで授業を続ける先生、それに対して文句を言う周りの生徒。私は外からそれを眺めているだけ。いつもと何ら変わりのない風景だ。学校には特別仲のいい友人はいないし、何か部活に入ってるわけでもないため、クラスメイトとの交流が浅い。そのためクラスの半分以上は名前を聞いたことがあるくらいで話したことがない。私の友人関係は今に始まったことじゃない。私は小学校でも友達が少なかった。というより、誰とも関わらないようにしてきた。だって、その方が楽だったから。けれど昨日、彼女を拾った。誰とも深く関わらないようにしてきたのに私から彼女に声をかけてしまった。授業中にそんなことを考えていたせいでその日の授業は全く頭に入ってこなかった。
マンションのドアを開けて中に入る。
「ただいま」
靴を脱いでいると奥の方からドタドタと足音が聞こえてきた。
「おかえり透佳ちゃん!」
「わざわざ迎えに来なくていいですよ?」
すると彼女は「寂しいこと言わないでよ~」といいながら抱き着いてきた。
「ちょっと、抱き着いてこないでください」
「そんなこと言って~。無理やり引き剝がしたりしないところを見ると、本当は嫌がっていないと見た!」
「ひゃあ! ちょっと! どこ触ってるの!」
「うわっ、肌すべすべ! ほっぺぷにぷに~」
「ちょっ、いい加減にしてください!」
さっきより強めに注意すると、少し名残惜しそうにしながらもようやく離れてくれた。
「ちぇ~」
どうにも彼女にリズムを崩されてばかりだ。着崩れた制服を直し彼女をまっすぐ見つめる。
「いい機会です。ルールを決めましょう」
「ルールって?」
「この家で今後暮らしていくための最低限のルールです」
「え? 私追い出されちゃうの⁉」
「追い出しません! でもルールは守ってくださいね? それがお互いのためです」
「分かった。それで、ルールは?」
「まず最初に、家の中での気軽なボディタッチはやめましょう。まだそこまでの関係性じゃありません」
「”まだ”ね」
「そういうことじゃありません! からかわないでください。そして二つ目、家事は分担してやること」
「ここで暮らさせてもらってるんだから私がやるよ~」
「そういうわけにもいきません。それでは私の気持ちが収まりませんから」
「そういういことなら、まあいいけど……」
「ありがとうございます。では、ご飯を片方が作ったら片方はお皿洗いをやる。洗濯物を干したら代わりにお風呂掃除をやりましょう」
「オッケ~」
「大まかなルールはこんな感じです。何か他に気を付けて欲しい事とかありますか?」
「う~ん、無いかな」
「ではこれからはルールに気を付けて一緒に暮らしましょう」
「うん! 一緒にねっ」
一緒にの部分を強調しながら言う彼女は、はちきれんばかりの笑顔だった。
「私は私服に着替えてくるので出かけるっ準備しておいて下さいねっ」
そんな彼女に見つめられて少し照れ臭くなりそそくさと部屋に逃げ込む。
私服に着替えて部屋出てリビングに向かうと準備を終えて寛いでいる彼女がいた。
「お待たせしました。行きましょう」
「かっこいいね! 寝巻は可愛かったけど私服はかっこいい系なんだね!」
「似合ってると受け取っておきます。行きますよっ」
携帯で写真を撮ろうとする彼女を置いて玄関に向かう。
「待ってよ~。一枚、一枚だけ!」
「待ちません」
「けち~」
「けちで結構」
彼女が玄関をでたら鍵を閉める。
「そういえば、どこのお店に行くの?」
「二駅先の総合ショッピングモールがあるのでそこに行きます」
「あそこか~便利だよね~」
「必要なものは大方あそこで手に入りますからね」
マンションから出て駅に向かっていると彼女がふと立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「いや~あそこで透佳ちゃんに拾ってもらわなかったら今頃はどうしてたんだろうな~って」
彼女の見つめる先には、昨日、彼女と会った公園が映っていた。
「おそらく警察に保護されてたでしょう」
「警察のお世話にはなりたくないな~」
「なぜです?」
「言いたくない」
彼女の一言には明確な拒絶の意思が感じられた。
「そうですか。なら結構ですよ」
「ありがとね」
「私も言いたくない事情の一つや二つありますから」
「そっか」
「はい」
その後は何も話さないまま目的地に着いた。
「久しぶりに来たよ~。前来たのは……いつだったかな?」
コテンと首をかしげる葵。
「私に聞かれてもわかりません」
「そうだよね~。で、どこから回る?」
「かさばらない物から行きましょう」
最初に向かうのはランジェリーショップだ。葵さんは現在着ている一組しか下着の持ち合わせがない、これは同じ女として見過ごすことができない。感情面を抜きにしても、衛生的にも問題があるため最重要事項だった。
「可愛いのいっぱいあるね~」
「そうですね」
「でも、こういうの高いんだよね~」
「お金の心配しているんですか?」
「そりゃあ、私のお財布には限りがありますので~」
「生活必需品なので私が払います」
「そういうわけにはいかないよ! ただでさえあの家に住まわせてもらっているのに、私の服にまで面倒はかけられないよ」
「私が責任をもって貴方を家に招いたんです。あなたの面倒を見るのは当然です」
「でも」
「言ってませんでしたか? 私の父は医者なのでお金には不自由していないんです。それに生活必需品なら父から渡されているカードで買っても何も文句は言われません」
「だからって……」
「甘えられるところは甘えておいた方がいいですよ?」
「……お言葉に甘えさせてもらいます」
私としては最初から全て払うつもりでいたので彼女の申し出は少し嬉しかった。
その後は少し遠慮しながらも好きなものを見つけたようだった。
「決まりましたか?」
「うん! これがいいんだけどいいかな?」
値段を見ながらこちらをうかがっている彼女に安心するように伝える。
「気にしないでください。安い方ですよ」
「これが安いんだ……。もしかして透佳ってお嬢様?」
「何言ってるんですか? お嬢様なら一人暮らしなんてしませんよ」
私と七歳離れた妹のことを思い出しながら自嘲気味に呟く。
「そっか……。それで、透佳は何選んだの?」
「私ですか? なんで私が下着を選ぶんですか?」
「せっかくここまで来たんだから買おうよ~」
「別に私は困っていませんし」
「透佳の下着見たいな~」
「見せませんよ?」
「じゃあっ、選ばせて!」
「何でですか!」
「私のも選んでいいからさっ」
なんでそういうことになるの分からなかったが葵の方は引きそうにない。
「似合わなくても知りませんよ?」
「大丈夫、大丈夫!」
「どこから来るんですかその自信は」
ため息をつきながらも仕方なく彼女用の下着を選ぶ。
「これなんてどうですか?」
「適当に選んだでしょ」
「はい」
「もう! ちゃんと選んでよ!」
「分かりましたからっ。静かにしてください」
もう少し真剣に選ぶ。葵は地毛にしては明るすぎる茶髪を持っている。しかも顔の造形も整っていて、実は地下アイドルやってますと言われても驚かないほどだ。スタイルに関しては、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいるという、まさに男が好きそうな体形をしている。彼女の下着姿を想像しながら下着を見ていく。店内を見ていくと、ひときわ惹かれる物があった。それを取り葵に渡す。
「これがいいと思います」
渡したのは白を基調として、ところどころに桜のレースがあしらわれている下着だ。
「へ~。こういうのが好きなんだ~」
渡された本人はにやにやしながらこちらを見てきていた。
「透佳ちゃんの頭の中では私はこんな下着を着させられてるんだね~?」
「っそ、そんな想像してません!」
「ホントかな~」
一応試着をしてもらい、違和感もないとのことで購入。ついでに同じブランド、同じサイズの下着をもう二セット購入した。
「それでは、私は選んだので次行きますよ!」
「待った! まだ私が選んでないよ?」
勢いでごまかして次に行こうとしたのだが、腕を掴まれてしまった。
「私のはいいですからっ」
「いや~、さっき良いの見つけたんだよね~」
そんなセリフを言いながら私を店の奥に引っ張っていく。
「はい、これ」
渡されたのは黒のレースの下着だった。
「こんなセクシーなの似合わないですよ!」
「いいからいいからっ。試着してみて?」
ウインクをする彼女に半ば強引に試着室に押し込まれた。どうやら逃がしてはくれないらしい。
これ以上ここで時間を食うわけにもいかないので覚悟を決める。
上半身の服を脱いで今着けているブラジャーを外す。ハンガーからブラジャーを外し肩紐に腕を通す。後ろでホックを止めて鏡を見ると、自分では少し違和感を感じてしまった。普段から濃い色の下着を買わないので似合っているのかよくわからない。着け心地自体はかなり良く、正直今使っている物より生地がよく、肌触りが格段に良かった。
「どんな感じ?」
「はい、着け心地は良いで……」
「よかった~」
「って! なに入ってきてるんですか~!」
「だって見せてくれないんだもん」
「それはそうでしょう!」
「そうなの? 友達同士ならこれぐらい普通だよ?」
「え? もしかして私がおかしいの……」
「まあまあそれは置いといて、似合ってるよ!」
「そ、そうでしょうか? どうにもこういった下着は初めてなものでよくわからないんです」
「似合ってる、似合ってる。私が男なら襲っちゃってたよ~」
「怖いので本当にやめてくださいね?」
「分かってるって」
「似合ってるといっても、これは少し恥ずかしいです……レース部分が特に」
もちろんレース部分が透けているわけではないが、どうしてもいやらしさを感じてしまう。
「それがいいんだよ~。恥ずかしがってる透佳ちゃん可愛い~!」
葵が抱き着いてきそうな気配を感じたので即座に離れる。
「買いますからっ、なのでとりあえず出ていってください!」
「オッケー」
「というより、ルールを守ってくださいよ!」
すっかりルールのことを忘れていた。
「でもルールだと「家の中での」って言ってよね?」
「わかりました。今からは外でも気を付けてください」
「善処しま~す」
反省していないのを隠そうともしない彼女に少し呆れつつも、言うことに意味があると信じ言い続ける。
「いいですか? あのルールはお互いが一緒に暮らしていくうえで、問題を起こさないためのルールなんです」
「でも、嫌じゃないでしょ?」
「それは……。とにかく! 過剰なスキンシップは禁止! いいですね?」
「は~い」
本当に分かっているのか不安だ。下着を買い終えたら、次は私服を揃えに向かう。
私服はさっきより時間はかからなかった。どうやら買い物に時間をかけるのはあまり好きじゃないらしい。こちらでもさっきと同様に意見を求めらたが、葵は何を着ても似合うので私が好きな服を選んで渡した。
その後は掛け布団や生活必需品などを買い足した。帰り道、何度もお金の心配をされた。
「買い物中は楽しくて忘れてたけど、本当にお金は大丈夫なの?」
「はい。何度も言いますけど、生活に必要なものですので何も言ってきません。それに父からしたらこんなのはした金でしょうし」
「お医者さんってそんなに儲かるんだ……」
「みたいですね」
「本当の本当にいいの?」
「しつこいです。そんなに気になるのであれば別の形で返してください」
「別の形って?」
「お金以外の方法でということです」
「もしかして、体でってこと⁉」
「違います! そんなこと言ってないじゃないですか!」
「いつでもいいんだよ?」
葵はこちらを揶揄うように耳元で囁いてきた。
「ふぁ!」
耳がぞわぞわして変な声が出てしまった。
「かわいい~!」
「もう知りません!」
「照れてるところも可愛いぞっ」
その後も揶揄われながら家までの道を歩いた。こうして私と葵の奇妙な共同生活が始まった。
葵と暮らし始めて二カ月が経った。葵との暮らしで分かったことが二つある。
一つは、葵は朝に弱いということだ。彼女が掛けた目覚ましで私だけ目が覚めることも多い。なので朝食は私が作ることになった。私としても目を覚ますのに丁度良いので異論はなかった。もう一つは、コミュニケーション能力の高さだ。マンションではゴミ出しなどでほかの部屋の人会う機会が多い。私はゴミ出しの時ですら挨拶以外にまともな会話をしなかったのだが、彼女はいつの間にかマンションの住民と仲良くなっていた。そしてどうして二人で暮らしているの聞かれると「従妹なんですよ~、私の学校が私の実家よりこっちのほうが近いので居候させてもらってます」と怪しまれない程度の嘘をついていた。
二カ月の暮らしの中で何度も注意したのだが、葵が私を揶揄うのは無くならなかった。とはいえ、葵に揶揄われるのは不快じゃない。恐らく葵は私が不快に思うラインの見極めがわかっているのだろう。一人暮らしの時より、はるかに騒がしい二カ月だった。
そんなある日、いつものように学校から帰って宿題や部屋の掃除などをして葵の帰りを待っていたのだが、普段帰ってくる時間になっても葵が帰ってこない。
「どうしたんだろ?」
少し心配になって携帯にメッセージを送ったが、既読がつかない。普段の葵なら、爆速で既読を付けるのだが半刻が過ぎても一向に既読にならない。
「探しに行きましょう」
充電が切れているだけかもしれない、マナーモードの可能性もある。でも、そうじゃなかったら?
彼女の事情は知らない。家が無くなったということだけしか知らない。それ以外は明るくて可愛いいただの女子高生だ。ちょっと意地悪なところもあるけど、気遣いができて優しい女の子なんだ。もしかしたら? と考えてしまうと居てもたってもいられなかった。
最初は駅に向かった。葵は人混みにいても目立つから一目で気づけると思って。ホームや、駅ビルなどを三十分ほど探したが居ない。次はスーパーに向かった。葵は意外と料理が好きでスパーで食材を見て回るのが好きだったからだ。もしかしたら珍しいものを見つけて立ち止まってるのかもしれない。居なかった。
次はゲームセンター、その次は商店街、次は、次は、次は……。
そうやって最後にたどり着いたのは、彼女と出会った公園だった。公園内を探していくと、丸いゆりかごの遊具の中に彼女を見つけた。
「どうしたんですか?」
「……」
「とりあえず帰りましょう?」
「――に?」
「なんですか?」
「どこに帰ればいいの?」
「私の家です」
「そうだね、透佳の家だよ。私の家じゃない」
「違います、今はあなたの家でもあります、葵」
「違う。私は透佳の家族じゃない。私は、くそったれな父親の娘。私もそんな父親と同類」
「なら、私も同じ同類ですね」
「違う! 透佳はそんなんじゃない! いつも優しくて、甘えさせてくれて、怒ることもあるけどそれは全部私のためで……。私とは全然違うよ」
「葵。昔話をしましょう」
私が物心ついた頃、すでに両親は不仲でした。何かと言い争い、喧嘩が絶えませんでした。それでも両親は私には優しかった。お父さんは医者さんでしたが、忙しい時間を縫っていっぱい遊んでくれました。お母さんは料理が上手で、栄養満点でおいしい料理を毎日作ってくれました。私はそんな両親のことが大好きでした。
けれど、私が小学校に上がる直前、二人は別れました。その日のことは今でも覚えてます。いつもはお母さんが幼稚園の迎えに来てくれていたんですけど、その日はお父さんが迎えに来ました。私はお父さんに「お母さんは?」と聞くと、お父さんは困った顔をして黙り込んでしまいました。
不安になった私は、家中を探しました。けれどお母さんの姿が見当たりませんでした。それどころかお母さんの荷物が全部なくなっていました。いくら呼んでも、いくら待っていても、お母さんは一向に帰ってきませんでした。
もう一度お父さんに聞きました。お父さんは苦虫を噛みつぶしたような顔でこう言いました。
「お母さんは、君を置いて家を出て行った」
最初は何を言ってるのか分からなかったです。ただお父さんの言った言葉を繰り返し呟くだけでした。きっと頭では理解していたんでしょう、でも心がそれを拒絶していた。その拒絶も長くは続きません。何度も呟くうちに、徐々に分かってしまいました。おさえていた涙が溢れてきました。どうして家を出ていったのか。どうして私を置いていったのか。私のことがもう嫌いになっちゃったのか。いろんなことが頭をよぎって辛かったことを覚えています。その後は部屋に籠って布団を被り、夜通し泣いてました。お母さんのことを思い出すたびに、涙が溢れて止まりませんでした。
それから、お父さんとの二人暮らしが始まりました。最初はお父さんも仕事から早く帰ってきてくれて、料理や家事などをしてくれました。私もお父さんと早く一緒に遊びたくて一緒に手伝いました。けれど、徐々にお父さんの帰りが遅くなっていきました。十七時だった帰りが十八時に、十八時が、十九時にと、どんどん遅くなっていきました。家事が溜まりに溜まって困ったお父さんは、お手伝いさんを雇いました。お手伝いさんが夕飯や洗濯、掃除をしてくれるようになったおかげで、家事と仕事で疲れきっていたお父さんの顔色がだいぶ良くなりました。しかし、それと同時にお父さんの帰りはさらに遅くなっていったんです。一月も経つと、私が寝る時間になっても帰ってこなくなりました。それからは一人寂しく夕飯を食べて寝る日々が続きました。
そんなある日です。いつものように一人で学校から帰ってくると、珍しくお父さんが帰ってました。私は「今日は早かったね」と言うと、お父さんは嬉しそうな顔で「話があるんだ」と言って、ソファに座るように言いました。私の正面にお父さんが座ると、お父さんは話始めました。
「父さん、再婚するんだ」
ショックでした。お父さんがお母さんのことをもう好きじゃないということが。それに、私の存在を否定されたようで悲しかった。それでも良い話であることは子供の私でも理解できました。悲しさを押し殺して笑顔を作りました。
「良かったね! どんな人なの?」
「職場の人なんだ。すぐにでも籍を入れて、一緒に住みたいって言ってくれてる」
「私も早く会いたいな!」
「大丈夫、すぐに仲良くなれるさ」
まだ、お母さんが出ていって一年もたっていなかった頃の出来事でした。辛かったですけどお父さんに心配をかけたくなかったので元気な自分を演じました。
一週間後、新しいお義母さんとの生活が始まりました。ほとんど初対面の人との暮らしに最初は戸惑いました。それでも私なりに仲良くなろうと頑張りました。お父さんの帰りも早くなり、三人で仲良く夕飯を食べる日が続いてすごく安心しました。
三人で暮らし始めて半年が経つ頃、お義母さんのお腹に赤ちゃんが出来ました。この日を境に私の暮らしは一変しました。
お父さんはお義母さんとお腹の子に夢中で私のことは目もくれなくなりました。お義母さんも私のことはもうどうでもよくなったかのように、扱いがぞんざいになっていきました。そうして赤ちゃんが生まれました。
その後、二人の関心はより一層赤ちゃんに向かって行きました。私のことは存在しないものとして扱うようになり、授業参観の紙を持って行っても無視され、話しかけても無視されるようになりました。私も話しかけなくなりました。無視をされて傷つくぐらいなら話かけない方がマシです。それからの私はいない物として振る舞うようになりました。話しかけず、邪魔をせず、迷惑をかけない。唯一良かった点は、両親が周りの目を気にして私を捨てなかったことですね。
私が高校生になると、ついに家からも追い出されました。正確には高校近くのマンションの鍵を渡され「今日からお前の家はそこだ」と言われました。クレジットカードも渡され、必要な物はそれで買えとのことでした。あの家で私に拒否権などありません、言われた通りにマンションで一人暮らしを始めた。
「葵の両親がどんな人かは知りません。でも私の両親もかなりのくそったれです」
「……」
「貴方の言い分によると私も同類です」
「透佳は違う」
「違いません。もし違うのなら、葵も違います」
「……」
「話してくれませんか? 私も話しましたので葵の話も聞きたいです」
「良くある話なんだけどね」
そう前置きをして葵は話し始めた。
「私の両親はさ、両方とも親の反対を押し切っての結婚だったんだ」
「はい」
「私を産んだ時は、すっごい大変だったんだって。両親とも親とは絶縁状態でさ、だれにも頼れない状態で育てなきゃいけなかったからね」
「それでも頑張って私を育ててくれたんだ。でもね、私が中学二年生の頃、私に告白してきた子が居たんだ。私は断ったんだけど」
葵の声が徐々に涙ぐんできた。
「どうやらその告白を見られたみたいなんだよね」
「誰にですか?」
「その男子を好きな子がさ」
「それはご愁傷さまですね」
「うん、本当に運が悪かった。しかもその女の子、私が彼をこっぴどく振ったって噂を流してさ」
「風評被害もいいとこですね」
「何よりひどかったのは、その女の子のお父さん、お父さんの会社の親会社で常務を務めたみたいなんだよね」
「その女の子、私の有る事無い事をお父さんに言ったらしくて、お父さん首になっちゃった」
非常に重たい空気がその場を支配していた。
「それからお父さんは……。 乱暴になっていった」
凍るような葵の声に思わず息を呑む。
「就職活動もしてたんだけど、国の経済が悪かったのもあって、なかなか決まらなかったんだ。結局再就職先が見つからなくて、就職活動も辞めちゃった」
「その時期の話は聞いたことあります。倒産する会社も多かったですね」
「昼間からお酒を飲んで、夜はどこかへ出かけに行く、そんな生活をしてた」
「その後は?」
「ギャンブルにもはまってさ、負けて帰ってくると物に当たりちらかすんだ」
「最初は物だけだったんだけど、その対象は徐々に変わっていった。最初はお母さん、お母さんが居ない時は」
――私に――。
そう呟いた彼女の声は震えていた。
「お金はどうしてたんでしょうか?」
「お父さんとお母さんは私の教育費用の口座を作ってたんだけど、その口座から引き出してたみたい」
「いくらほど貯められてたんでしょう?」
「お母さん曰く、大学の授業料と入学費分は貯めてたらしいよ?」
「それは、かなりの額ですね」
「うん。私と透佳ちゃんが初めて会った日、その前日にお母さんが確認したら、残高がすっからかんになってたんだって」
「それでですか」
「そう家を出ていったってわけ。お母さんと一緒に行こうとしたんだけど、お父さん、ちょっと怪しい所からもお金を借りてみたいでさ。お母さんが一緒にいるのは危ないから警察に保護してもらいなさいって」
「どうして、お父さんと同類なんて言ったんですか?」
「……さっきお父さんを見かけたんだ。お父さん、見かけだけは良いからさ、可愛い女の子ひっかけてた」
葵が話を再開するのを待つ。
「女の子が心配でついていったら、お父さんがお金をもらってるの見たんだ」
「それで?」
「お父さんのことを見ながら思ったんだ、今の私もやってることは一緒だって」
葵は自身の行動が実の父親と同じだったことで自分に対して嫌悪感を抱いていた。
「でも、葵とお父さんは違います」
「同じだよ。透佳に寄生してる」
「寄生なんてしてません。その証拠に家事なんかをしてくれてるじゃないですか」
「そんなの寄生先を追い出されないための行動だよ!」
「本当にそう思ってやってたんですか?」
「⁉」
言葉に詰まる葵へ優しく問いかける。
「私にはとてもそうは見えませんでしたよ?」
「心の中ではそう思ってたんだよ」
そう言う彼女の声にはいつもの力強さが無かった。
「では、ご近所づきあいも私によく思われるためですか?」
「そう」
「一緒に買い物へ付き合ってくれたのも?」
「そう」
「私を揶揄っていたのもですか?」
「……そう」
「そうでしたか。だとしても私は良いと思います」
「どうして?」
「そんなんで私が貴方を嫌いになると思ってるんですか?」
「⁉」
彼女の言葉の節々から私のことを嫌いになってという気持ちが溢れていた。そんな彼女に少し腹が立ち、強い言葉が出てしまった。驚いている彼女を上から見上げ、続けて言い放つ。
「言っておきますけど、寄生ができる内はしとけばいいんです。甘えられる環境が有るなら甘えていいんです。葵は甘えられる人がいるじゃないですか、どうして甘えないんですか?」
「でも、」
「でもじゃない! 甘えたきゃ甘えろ! それができるのにやらないのは私を馬鹿にしてるのか? 甘えたくても甘えられる人がいなかった私を!」
「貴方の気持ちぐらい想像できます」
――私がいなくなればもしかしたら両親は戻ってくるんじゃないか――。
「違いますか? 私も経験があります、六年前の私もそうでしたから」
俯いていた葵がこちらを見上げてくる。
「私は、誰とも親しくなることを選びませんでした。誰かに近寄ることは自分自身が傷つくことと同じだからです。傷つくくらいなら最初から近づかなければいい。そうやって私は過ごしてきました」
「でも、貴方のおかげで少しだけ変われました」
「!」
「葵と関わっていくうちに、他者との接触は傷つくだけじゃないことを知りました。傷ついても癒せばいいものだと教えられました」
「どうして、どうしてそんなことを言ってくれるの?」
「葵が好きだからです」
「⁉」
耳まで真っ赤になった葵の頭を撫でながら続ける。
「葵になら揶揄われても嬉しい、葵になら触られても大丈夫」
熱を疑うレベルで葵の体が火照って、その熱が抱きしめていた私にも伝わってきた。
「葵の無邪気な声が好きです。揶揄ってくるときの声なんか特に好きです。意地悪なのに私のことを思っているのが伝わってくるんです」
「私はそんな声してない」
「私の思い込みです。たとえ違ったとしても好きです」
「私のせいでお父さんが首になった! 私のせいでお母さんは殴られた! 全部私のせいで!」
「違います。それらの責任はすべて貴方のせいじゃないです。お父さんのことは、お偉いさんの娘さんの、お母さんのことはお父さんの責任です」
「違う!」
「違くないです。葵は優しいから、優しいから全部を自分のせいにしているんです。そうすれば周りが傷つかなくて済むから」
「……」
「こんなに優しい気持ちをどうして自分に向けられないんですか?」
「私は自分が嫌いだから」
「なら好きになれるよう手伝います」
「どれだけ時間がかかるかもわからない」
「いくらでも付き合います」
「本当に?」
「はい」
抱きしめていた葵が突然離れたかと思ったら。
――チュッ――。
啄むようキスをされた。
「私も透佳のこと大好き」
「良かったです。ひとまず、家に帰りましょう?」
その夜を境に葵と私の関係は大きく変わった。
「ピーー!」
自分のではないアラームに違和感を感じつつも、鳴り続けるアラームを止める。
「葵さんのか」
手に取ったのは葵の携帯電話だった。画面を見ると、午前六時を表示していた。上体を起こして、しばらくぼーっとしていると、小鳥のさえずる音が窓の外から聞こえてきた。
「これが朝チュンですか……」
縁遠いものだと感じていた分、感慨深いものだった。普段何気なく聞いている小鳥の声が何故か特別の物のように聞こえてくる。
「そろそろ起きてください」
「ん~あと五分」
「寝顔を撮ってもいいんでしたら良いですよ?」
「起きますっ。起きました!」
寝顔を撮られるのが相当嫌だったらしく、バネにはねられたかのように勢いよく飛び起きた。
「惜しかったです」
「何か忘れてるよう……。あ! 目覚まし!」
「止めましたよ?」
「違う、携帯!」
「それならそこに」
アラームを止め、枕もとに置かれた携帯を指さす。
すると、ものすごい勢いで携帯を自らの胸に抱えてこちらを睨んでくる。
「見た?」
そういわれても何を指しているのか分からない。
「何をですか」
「ホーム画面」
「アラームを止めただけですよ。ホーム画面なんて開いてません」
「良かった~」
安心したのか、ふ~っと息を吐きだす。
「そんなに見られたくないんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「言いにくいならいいですよ、言わなくて」
「……言っても怒らない?」
「はい」
「透佳の寝顔」
「……へ?」
「昨日のうちにホーム画にしちゃったんだ~」
「消してください」
「怒らないって言ったじゃん?」
「怒っていません。恥ずかしいんです」
「可愛いから、だ・め」
「分かりました。次は私が葵の恥ずかしい写真撮ります」
「いいよ~。ジャンジャン撮ってね!」
「今回はそれで勘弁してあげます」
「いつでもいいんだよ~」
くねくねと腰をうねらせながらポーズをとる葵を尻目にキッチンに向かう。
キッチンで、朝食とお弁当の具を作る。一人で暮らしていた頃は朝食を食べない日もあったのだが、二人で暮らすようになってからは欠かしたことがない。
何を作るか悩んだが、今朝のことを思い出し、ちょっとした悪戯を思いついた。
「今日のっごっはんはな~にっかな~」
リズムに乗ってウキウキな葵がやってきた。
「もう少し待ってください」
「あ! 豆腐ハンバーグだ。好きなんだよね~」
お弁当用のおかずに早くも目を付けた様子の葵。
「それはお弁当用なので食べないでください」
「分かってるって~」
そういうと葵はそそくさとキッチンから離れていく。
「今の内に……」
葵がいない今の内に葵のお弁当の中にある物を入れておく。
「私そこまで好きではないですが、栄養価が高いのでね」
私のお弁当にも入れておく、葵のだけに入れるのは不公平なので。
その日のお昼、葵の携帯からメールが届いた。
「すいません」
とのことだった。どうやら副菜に入れていたゴーヤの胡麻和えが相当苦かったんだろう。しかめっ面のキャラのスタンプも一緒に送られてきた。
「許しますか」
そう言って私もゴーヤの胡麻和えを一口頬張る。
「これ、苦いですね」
自分でも苦いと感じ、葵に悪いことをしたなと反省することにした。
付き合い始めて三か月が経った。葵は相変わらず揶揄うのを止めないが、たまに反撃すると顔を真っ赤にして自室に逃げ込んでしまう。それでも揶揄うのやめない葵には少し尊敬してしまう。なにがそんなに葵を突き動かすのだろう。
「葵さん、起きてください」
「もう少し~」
「いい加減にしないと引っぺがしますよ?」
「え! 何を?」
「お望みとあらば」
「やめて!」
「どうしてですか?」
「……今、可愛いの着てないから」
恥じらう葵の余りのかわいさに思わず絶句してしまった。
「もうっ、起きるからさ」
葵はそう言い、やっと布団から出てきた。
「早く起きればいいんですよ」
「分かってるけどさ、布団が離してくれないんだよ~」
葵はさっきまで抱いていた布団を撫でる。
「あなたが離さないだけです」
「布団とは相思相愛なのです」
「浮気ですか?」
「違うよ!」
「ならいいです」
「あれれ~? 嫉妬してるんだ~」
「違います」
「素直になっちゃいなって」
「ち・が・い・ま・す!」
「照れちゃって~」
「とにかく! ご飯ができてるので冷めないうちに食べましょう」
これ以上の追撃を避けるため葵の部屋から脱出する。
私と葵の関係の他にもかなり変わったことがる。
それはお互いの両親との関係だ。
葵は、お母さんと再会し、私と葵の関係を明かした。最初はびっくりした様子だったけれど娘が幸せならそれでいいとのことだった。
そして、葵のお父さんは警察に捕まったらしい。どうやら集団詐欺や暴行事件、拉致誘拐にも手を染めていたらしく関係者ともどもお縄についたと葵のお母さんが言っていた。葵は安心したのと同時に少しだけ寂しがっていたがそれもほんの一瞬だった。
まだ驚くことが続いた。葵のお母さんは、私、黒澤透佳の実の母親と友人関係にあったのだ。
今でも交友が続いているらしく、私のことを知らせたいとのことだった。私としては、お母さんの方が会いたくないのではないか? と思ったのだが、そんなことは無かったようで、すぐに会うことになった。
そうして実際に会って話を聞くと、お母さんが当時家を出ていった理由が、お父さんに伝えられていた理由と違うことが分かった。当時のお母さんは司法修習生で、日中は家を空けることが多かったのだが、そのことを勘違いしたお父さんが離婚を言い出したらしい。当時のお母さんの経済状況では私を保育園に通わせながらの生活は難しかったため、私を泣く泣く手放すことになったとのことだった。
その時のことを泣きながら抱きしめて言われ、私も涙があふれて止まらなかった。
私も、現在の置かれている状況を説明すると、お母さんは私を抱きしめながら「今度は絶対に離さないからっ」と言ってくれた。
その後、お母さんはお父さんに私の親権に対しての裁判を起こし、見事勝利。お母さんが私の親権を奪い返してくれた。その時に、前住んでいたマンションは解約し、現在は新しいマンションに家族四人で暮らしている。
誰って? 私とお母さん、それに、葵と葵のお母さん。
驚いたことにこの二人、一緒に暮らし始めてから付き合うようになったらしい。親と子は似るものだねと葵と一緒に笑っていた。
この家族とならいつまでも楽しく暮らせるだろう。
「行ってきま~す」
「行ってきます」
二人でドアを開けて学校へ向かう。春からは同じ高校だ。辛いこともあるかもしれない、それでも彼女と一緒ならきっと大丈夫。
「葵」
「な~に?」
「大好き」
「ちょっといきなりはずるいよ~」
桜が散る歩道を、逃げるように走る彼女には、透明であろうとした頃の姿は見当たらなかった。