第三十二話 時間がない
蛇目は犬井の困惑を気にせずに語る。
「アバタール投射法の開発をしている時に事故が起きた。私はダンジョンで彷徨う魂となった。どうにか地上に帰ってきたが、その時には私の体に僧正の魂が入っていた」
信じられないような話だが、意見は挟まない。蛇目は言葉を続ける。
「アバタールは地上では長く存在できない。困った私はダンジョンに戻ると、闇を纏った魔物が接触してきた。闇を纏った魔物は僧正の空いた体にアバタールを憑依する策を勧めてきた。僧正の体に入って私は命を繋いだが、今度は僧正の体から出られなくなった」
今までずっと蛇目の体に入っていた僧正が、探索者を騙していたのか。
奇怪な事件だが、起こりえる事態だと思った。
「探索者と接触していたのは本来の身体に戻るためですか?」
「私はダンジョンで自分の体を取り戻す研究をしていた。僧正が放った探索者の刺客とも戦った。刺客を倒して実験体にもした」
以前、僧正に連れていかれた探索者は本物の僧正が放った刺客だったのか。刺客となった探索者もまさか僧正と蛇目が入れ替わっているとは考えない。蛇目にしても殺しにきた相手に悠長に事情は説明できないから、殺し合いになっても仕方ない。
「誰かに真相を話して助けを求めなかったんですか?」
蛇目がふっと笑った。寂しげな笑いだ。
「探索者の大半にとって僧正は強敵だ。先手を取らねばやられる。しかも、僧正はしゃべれない。何かを話そうとしても、人間の耳にキリキリの音にしか聞こえない」
犬井とて僧正と話し合おうとは一度もしなかった。蛇目も探索者も責められない。
「愛花ちゃんの件はどうなんです? なぜ、愛花ちゃんを攫ったんですか」
「誤解だ。私は探索者としか戦っていない。愛花ちゃんの失踪と私は無関係だ。ただ、ダンジョンには闇を纏った魔物が管理する未知の領域があり、人が囚われている」
蛇目の言葉が本当なら俺はいいように騙された? 違う、闇を纏った魔物は愛花ちゃんを攫ったのは僧正だとは一言も言っていない。こっちが勘違いするようお膳立てしただけだ。だが、僧正は蛇目と入れ替わったあとに何をしようとしていたのだろう。
「本物の僧正の目的はいったい? 人間の生活を楽しみたかったわけではないでしょう」
「碑文石から魔物を製造する方法を僧正が研究していた痕跡がある。バフォメット級の魔物を量産して地上に出す気だ。必要な碑文石はもう充分に集まったはずだ」
全ては逆だった。災害を止めようとして協力させられていたのか。蛇目は本物の僧正の野望を知り、止めようとしていた。真実とはわからないものだ。
「本物の僧正は今どこに?」
「ダンジョンの奥で儀式を執り行う気だ。成功すれば魔物は地上に出て災害に変わる。
バフォメット一体でも千人単位の死者が出る。そんなのが何体も出てきたら札幌に死体の山ができる。闇を纏った魔物が教えてくれた『僧正が僧正を止めないと、大勢の人間が死ぬ。死んだ人間はダンジョンに連れていかれる』
ミスリードされた。完全に闇を纏った魔物にいいように利用された。
「僧正の行き先はわかりますか? 早く止めないと危険だ」
「僧正の研究成果を調べたが、魔物の製造には時間がかかる。バフォメット級となると今日明日ではできない。僧正の潜伏先は早急に調査するから待っていてくれ」
知らなかったとはいえ、僧正と闇を纏った魔物の計画の片棒を担がされたので早く止めたい。だが、ダンジョンは広い。闇雲に探しても無駄足になる。犬井は待つしかなかった。
タクシーで家に帰る。家のドアを開け部屋の電気を点けるとスマホが鳴った。知らない番号からだった。普段なら出ないが、いまは緊急を要する急ぎの用件なら困るので犬井は電話に出た。
「野山羊です。蛇目さんをご存知ですか?」
野山羊なら会社の誰かから電話番号を聞いていても不思議ではない。だが、なぜ、野山羊の口から蛇目の名前が出るかわからなかった。
「知っているけど、どうしたの?」
「蛇目さんを紹介してもらえませんか。前に話していた中国系探索者組合の玉麗が研究について知りたいそうなんですよ。なんでも、蛇目さんの研究成果があると中国で進む環境破壊が止められるとか」
そういえば中国系探索者組合は僧正に懸賞金をかけていたな。これも本当のところは本物の僧正と中国系探索者組合が組んで蛇目を始末しようとしていたとすれば厄介だ。
中国系探索者組合が本物の僧正に騙されていたのならいいが、本物の僧正の真意に気付いて協力するために蛇目を狙っていたのなら、まずい。余計な情報を教えれば、蛇目が危ない。
まさかとは思うが、中国が碑文石を使った魔物製造法をほしがっており、軍事利用を考えていたとなれば、災害を他国に輸出するのと同義だ。
「知っているけど、どうだろう。戒厳令が解けたばかりだからな。今は忙しいから会えないと思うよ」
野山羊に真相を教えても混乱するだけなので惚ける。また、余計な情報を与えて蛇目の手を煩わせた結果、本物の僧正の居場所の特定が遅れても困る。
「玉麗はできるだけ早く会いたいようなので、どうか面談の段取りだけ取ってもらえませんか?」
急いでいるところを見ると、中国系探索者組合も本物の僧正がダンジョンから消えて焦っているとも考えられる。とすると、時間が経てば本物の僧正だけでなく、中国系の探索者組合まで相手にしなければいけなくなる。そんな暇はもうない。
こちらの焦りを伝えてはまずいので軽い感じで答えておく。
「メールで都合だけ聞いておくよ。すぐに返信はないと思うから気長に待って」
暦の上では明日から土曜日。北海道大学の研究員はみなし公務員なので土日にメールが返ってこなくてもおかしくはない。これで、四、五日は野山羊を待たせられる。だが、事態は動いており、時間が経てば経つほどに悪くなっていく気がした。
犬井にできるのは待つだけ。下手にダンジョンに入って蛇目からの連絡を受け取るのが遅れたために、惨事を止められませんでしたとなっては馬鹿者だ。
気になったので中国の国際ニュースをチェックする。確かに、ここ最近で環境破壊による災害のニュースが多くなっていた。さらに調べると、アメリカのニュースで、中国では怒れる民衆が武力蜂起するのではないかとするレポートが出ていた。
本物の僧正の研究成果が中国に渡るとまずいね。社会不安に火を放つ結果になりかねない。ここは是非とも早くに本物の僧正を討たないと危険だ。




