第三話 地下一層にて
以前に借りていたアパートは解約になっていた。姉が手配して新しく住む部屋を借りてくれた。古い三階建ての鉄筋のアパートで二階の広さは1LDK。一人で住むには充分な広さがある。
家具は新たに買い直してくれたのか、必要な物が揃っていた。昔に使っていた物も段ボールで届いた。いずれ開けるとして、犬井は荷物を放置する。
ベッドで横になりアバタール投射法を試すと自然にできた。アバタールとなった犬井は宙に浮かび自分の体を見下ろしていた。壁に触れると壁はすり抜けられる。形に意識を向けると、体の形状を変えられた。体は球体や布状にもできた。
アバタールはなんでもすり抜けられる。物を掴めないか、動かせないかを、試すとすぐに息が上がるような苦しさに見舞われた。危ないと思い、体に戻ると目が覚めた。体は気怠い。長く泳いだあとのようだ。
ダメだな、これでは大してダンジョンでは役に立たない。もっと修練を積まねば。ひと眠りして夜にもう一度アバタール投射法を試す。今度は息が上がらない。外に出ると夜空が綺麗だった。どうやらアバタールは日の当たるところでは消耗が激しいらしい。
夜の街を飛ぶと気持ちが良かった。下をみればぼんやりとした輪郭の半透明な人が見えた。犬も見えるがやはり半透明になっていた。生物の中心には生体が持つエネルギーなのか、青白い魂のような物が見える。アバタールと実体では生きている者が違って見えた。
ダンジョンではどのように見えるのかが、気になった。まだ危険な気もするが、気になると行きたくてしかたない。地下一層なら問題ないと思い行く。
犬井の家がある白石区からダンジョンのある中央区まで距離がある。車でも三十分かかる。アバタールを飛ばすと、どれくらいで行けるか気になった。
ダンジョンの入口に向かって飛ぶと、どんどん速度が出た。五分とかからずに到着する。慣れればもっと早く到着できる。アバタールは物理法則が通じないのか、速い。
入口にある詰所の前をふわふわと通るが警備の人間は気付かない。ダンジョンへの入口となっている金属扉に触れるとすり抜けられた。
「人の目を気にせず、出入りし放題。ライセンスの提示は必要なしか。物は持ち出せないので税金逃れはできないが、入るだけなら便利だ」
ダンジョンへと降りるエレベーターがある。エレベーターは四機設置されている。エレベーターは原始的なもので籠を天井から吊っている。頑丈で簡素なだけが取り柄である。エレベーターに触れる。これもすり抜けられるので地下一層までゆるりと降りた。
人間時にはダンジョンの中は暗く、灯がないと活動に支障をきたす。だが、アバタールと化した犬井には肉眼では見えない灯が見えた。灯は水銀の街路灯のように明るく等間隔であった。ダンジョンからでる白い光に照らされると心地よくもある。通路を適当に進むと、半透明な人間が四人見えた。
顔はわからないが輪郭から探索者だと思った。手を振るがまるで気付かない。並みの探索者にはアバタールを見る方法はないらしい。動きはどこかぎこちないので夜間研修に来た研修生だと思った。
「もしもし、聞こえますかー」と声をかけるが反応はない。犬井の声は聞こえていない。犬井は存在しない五人目として後ろを付いて行く。T字路に差し掛かった。探索者は右に行く。
見えず、聞こえずでは、同行してもあまり意味がない。せめて話し掛けられれば斥候の真似事やアドバイスができるが、現状では意味がない。一層なら強い敵も危険な罠もないだろうと考え、見送った。
アバタールの可能性を試すために犬井は左に進んだ。遠くから赤い物体が見えた。足早に距離を詰めると、赤い大型犬だった。数は四頭。赤犬はダンジョンに出現する魔物であり、数が多いと危険である。銃が効くので、先ほどの研修生でも問題なく倒せる。ただ、気付かずに不意打ちを受ければ全滅もあり得る。
魔物にアバタールが触れられるのか、アバタールから魔物に攻撃できるのかを知っておきたかった。犬井は赤犬四頭と対峙した。赤犬はゆっくり進んでくる。鼻が良く気配を察知する能力に長けた赤犬だが、三mの距離に犬井が近づくまで感知できなかった。
犬井の存在に気が付いて立ち停まった赤犬だが、何かがいる状況は理解していたが、何がどの辺りにいるのかわかっていない。
魔物は人間と違いアバタールを見つけられる。だが、感知できる範囲は狭い。犬井は空中を滑るように移動して犬に接近する。立て続けに拳を放った。拳は赤犬をすり抜ける。
普通の手段では触れらない。ならば、霊力を込めてはどうか。霊能力を使うと体が熱くなる。感覚が研ぎ澄まされて、赤犬の動きがスローになった。全ての犬の鼻っ柱に力を込めた拳を放つ。
「ぎゃん」と赤犬が情けなく鳴く。四頭は動かなくなった。赤犬はそのまま煙を上げて宙に溶けていく。赤犬は弱い魔物ではない。
探索者がよく使う、0.30インチのライフル弾でも十発は撃ち込まないと安心できない。いかに霊能力が籠っていてもパンチ一発では沈まない。
「アバタールの攻撃力は対魔獣で考えた時にはライフル弾より高いのか」
赤犬の動きがゆっくりに見えたのも気になる。あれは赤犬が遅くなったのではなく、犬井の思考速度と反応速度が速くなったとみていい。アバタールを極めれば軽く人間の上限を超える。
前方、十m先の空間が歪む。空間から体重が1tはありそうな大きな羆がでてきた。デビル・ベアだった。デビル・ベアは赤犬より危険な魔物である。ライフルを持った二人以上が射線を合わせる。その上で撃ちまくって倒すのがセオリーだった。普通の霊能者が一人で遭ったのなら死亡確定の魔物だ。
犬井には恐れはない。バイクや車より速いアバタールの足なら逃げ切れるのは間違いない。だが、逃げる気はない。勝てる予感がしてならなかった。
デビル・ベアはゆっくりと前進を開始する。犬井に気が付いていないわけではない。デビル・ベアの目は確実に犬井を捉えていた。
犬井から五mの距離に来た時だった。デビル・ベアが跳躍で一気に距離を詰める。大きな口を開けて噛みついてきた。さっと後ろに避ける。
デビル・ベアの頭にストレートをお見舞いする。手に堅いものがぶつかる感覚がして弾かれた。拳に痛みはない。だが、今の犬井の霊力ではデビル・ベアを殴っても効かないと悟った。
デビル・ベアが立ち上がり前足を振り下ろす。犬井は棒立ちになり脱力した。敵の強力な攻撃の前での脱力は危険。だが、犬井にはこれが正解だと思った。
デビル・ベアの一撃が犬井の頭に命中する。前足が犬井をすり抜けた。勢いあまってデビル・ベアの体も犬井に当たるが、体もすり抜ける。
幽霊系の魔物には銃や剣が効かない敵がいる。もしやと思い、脱力してみれば敵の攻撃をすり抜けられた。脱力はうまい具合に使えば敵の攻撃を無効化できる。
犬井はそのままデビル・ベアの背後に回り頸椎のある場所に両手を当てる。
「鬼神降臨 怨敵呪縛」と霊能力を利用して痺れる攻撃を撃ち込んだ。デビル・ベアの全身が麻痺して痙攣する。アバタールでは霊能力系の威力が上がる。だが、麻痺ではデビル・ベアは死なない。
犬井はイメージして身体を布状にする。犬井は布となりデビル・ベアの鼻と口に巻き付いた。そのまま犬井はデビル・ベアを窒息させた。
窒息したデビル・ベアは宙に溶けて消える。あとには綺麗な板状の色ガラスのような石が残る。石は碑文石と呼ばれていて、会社が回収して金に換えている。
だが、無許可で入っている犬井には碑文石を持ちだす手段がない。買い取ってくれる会社もないので捨てるしかなかった。
「研修生があとで拾って金に換えるだろう。先輩からのプレゼントってことでいいか」
碑文石は諦めてもいいが、妙だった。五年前ならデビル・ベアは地下一層の深部でも稀にしか出ない魔物だ。入口付近で出るとは妙だ。ダンジョンは五年で様変わりしたのだろうか。
奥に進もうとしたときに犬井は反対側の通路から悲鳴を聞いた。研修生が向かった側だ。犬井は助けが必要かもと思い、駆けだした。