黒の夢 宵の篝火
ああ、何故こんなことになったのだろう。
誰も悪くない。
悪いのは俺だけだったのに。
俺が禁忌に触れたからこうなったのか。
俺が二人を愛したから……みんなが殺されたのか。
俺が二人と結ばれたから皆が死ぬことになったのか。
……たとえそうであっても許せるものか。
たとえ禁忌であっても彼女達を弑する理由なんて無い。
彼女達に何の罪があった。
彼女達が何をしたというのだ。
何故……。
何故彼女達は死なねばならなかった。
……かえせ。
……かえせ。
俺の愛した女の首を……
みづきの首を……
みかづきの首を……
あんなに幸せそうにしていた二人を……かえせ。
二人と共に過ごした平和な時を……かえせ。
あの静かな日々を……
二人のいた世界を……
かえせ。
かえせ……
かえしてくれ。
◇
京から遠く離れた山里にその集落は存在した。かつての朝廷に仕え、裏からこの国を支配していたとも伝わる先見の一族。
その末裔がこの集落に移り住みひっそりと暮らしていた。
一時は朝廷も逆らえない権勢を誇った一族は、ある時を境に歴史からその姿を消した。
それは未来を見たから、と伝わっている。
避けようのない終わりが見えたから、と。
権力を捨て、人の通わぬ深い山里に移り住んだ彼らは、表舞台から完全に姿を消し、一族の数を少しずつ減らしながらひっそりと滅びを待っていたという。
だが時の権力者達は彼らを捨て置くことが出来なかった。草の根分けても捜し出そうと躍起になった。
何故歴史の表舞台から唐突に消えたのか、そんな理由を考えもせずに。
朝廷は先見の一族を殲滅したいと思っていた。それは自分達にとって致命的な力となりうる、と勝手に思っていたから。
朝廷は死に物狂いで先見の一族の行方を追った。そして見つけてしまった。
未来を見る一族があっさりと見つかった事に普通ならば違和感を覚えるだろうが……権力者達はこれを好機と捉えた。かつて権勢を誇った一族をこの世界から断絶する機会だと。
だが殺せなかった。
権力者達は誰一人として先見の一族を殺すことが出来なかった。
彼らは異能の力を持つ一族。たとえ国を支配する権力者であろうと、この一族に手を出して無事に済む保証はどこにも無かったから。
先見の一族は古の記録によると異国より渡って来た鬼の末裔であると伝わっていた。その真偽はともかく先見の力は本物であり、彼らを擁していた時代に、かつてない規模で国が栄えたのは事実だ。
……だからこうなったのだろう。
朝廷は先見の一族を見つけたあと、その監視を付近にいた農奴に命じた。
権力者達は妄執に囚われていた。
隠遁した超常の力を持つ先見の一族がいつか自分達に牙を剥くのではないか、と。奴らがいつか自分達を権力の座から蹴り落とす機を狙っているのだと。
それでも手は出せない。報復が怖いから。でも捨て置くことは、もっと出来ない。
だから監視をすることにした。
先見の一族を間接的に管理するために付近にいた農奴達が利用されることになった。
それは後に守りの一族と呼ばれる事になる。
それが……俺の一族。
先見の一族の監視と世話をする為だけに生かされている哀れな者達。
それが……俺の知る守りの一族というものだった。
付近から集められた農奴達は朝廷からお役目として任務を与えられた。特権として税の免除もあったが先見の一族が暮らす山里に未来永劫縛り付けられる事にもなった。
それは終わりのないお役目だった。
朝廷は山里ごと先見の一族を監禁したのだ。守りの一族という鈴を付けて。
守りの一族は隔絶された集落で何世代も先見の一族の監視任務に当たった。
ただ監視をするために集められた者達は次第に狂い、腐っていった。
度重なる集落内での混血により一族は徐々に衰退していったのだ。元々が三十人もいない農奴が彼らの祖である。その血は世代を重ねるごとに濃くなっていく。
その結果、守りの一族からまともな人間が産まれなくなった。
彼らはそれを先見の一族の仕業と考えた。人ならざる者達が守りの一族を滅ぼそうとしていると考えた。
守りの一族は農奴の子孫。ただそこにいた徒人でしかない。
身内に不幸があれば全て先見の一族のせい。
病で倒れる者があればそれは先見の一族のせい。
一人また一人と先見の一族は減っていく。滅びを見たという先見の一族は確かに緩やかな滅びに瀕していた。
だがそれ以上に守りの一族も衰退が激しかった。
そんな折り、先見の一族からの提案で守りの一族へ外部から新たな血が招致されることになった。
それが俺の父になる。
父は狂った一族の女との間に子を成したあと、俺が六才の時に山で発見された。
物言わぬ冷たい死体となって。
母は俺が産まれてすぐに死んでいたので俺は天涯孤独となった。
守りの一族は衰退を続け、先見の一族もまた……純血の巫女を二人残して終わりの時を迎えようとしていた。
だが……それでも良かった。
良かったのだ。
二人がいれば……。
たとえ村が二人を残して滅んだとしても。守りの一族が死に絶えようが。
二人さえいれば……それだけで……。
俺は、ただそれだけで良かったんだ。
二人が、側にいるだけで。
それだけで俺は幸せだったのだから。
◇
守りの一族は肩書きこそ大層なものであるが、その実態は農民であり、小さな集落で暮らすだけの徒人だった。
山で狩りはするが武芸を嗜むものなど皆無であり、刀を扱えるものなど一人もいなかった。
田を耕し野菜を作り日々を暮らす。
ただそれだけの村。
それが守りの一族の村。
そしてその村から少し離れた所にも寂れた集落がある。それは、そのほとんどが朽ちて崩れてしまった先見の一族の村……だったものだ。
その家屋のほとんどが住む人を失い朽ち果てるままにされていた。木に呑まれ草木に埋まるその姿は先見の一族の現在を如実に表していた。
そしてほとんどが廃墟となった先見の一族の集落で唯一建物として形を残しているのが神社だった。
何を信仰しているのか先見の一族も忘れてしまう程に古い神を奉ったここに先見の一族の中でも特別な存在、巫女の一族が住んでいた。
未来を見ると言われた先見の一族。その巫女。それは特別すぎる存在だった。
父を失い、一人になった俺は村長からその巫女の世話役を命じられた。この時俺は六才。巫女は八才と三才の姉妹だった。
姉の名は、みづき。
満月を意味する名の美しい少女だ。いつも微笑みを絶やさない気丈な女の子でもあった。怒ると誰よりも怖くて前にいると自然と姿勢が正される、そんな女の子だった。
妹の名は、みかづき。
欠けたる月、そして満ちていく月の名を冠する大人しい少女だ。あまり喋らないがその澄んだ瞳は何よりも雄弁に彼女の想いを伝えてきた。悪戯が好きで一緒にみづきに怒られた事も数知れず。
死んだ父は先見の一族の世話役をしていた。
だから俺は彼女達とも、彼女達の両親とも顔見知りで、年の近い二人とよく遊んだりもしていた。
みづきは笑顔だけど、何となく怖い女の子で、みかづきは無言で悪戯を仕掛けてくるお転婆だった。
俺が生まれた時にはもう……この一家しか先見の一族は残っていなかった。あとは全てが死に絶えていた。
そして俺の父が死体になったその時、みづき達の両親も同じように山で冷たい骸となって発見された。
俺は天涯孤独となり、みづき達先見の一族も彼女達を最後に二人きりになった。
村長は目に見えて先見の一族を嫌っていた。先祖代々に渡る終わらないお役目に辟易としていたのだろう。
だから俺を世話役に命じた。
子供だけならすぐに死ぬと思ったのだろう。
父やみづき達の両親が死んだのも……村人の仕業だったのかもしれない。
それだけ守りの一族は膿んでいた。
本来守るべき先見の一族を毛嫌いし、お役目を放棄するほどに。
先見の一族は忌避されていた。顔を見たら呪われる。話をしただけで化け物にされると本気で村人達は恐れていた。
それは相手が小さな女の子でも変わらない。みづきとみかづきの姉妹は村の者達から鬼子扱いされていた。
俺も父と同じように村人から毛嫌いされていた。外の血が流れるものとして村人から異様な目で見られていた。
同じように孤立していた二人の少女が俺の遊び相手になるのも自然な流れだった。
二人の少女は美しかった。
まだ少女だというのに魔性の美しさを秘めていた。
まだあどけない少女であったがその顔を見ているだけで魂が吸いとられるような、そんな気持ちになったのを覚えている。
それも村人からすると恐怖だったのだろう。
先見の一族は見目麗しい者しか産まれない。
それは何世代も変わらぬ事実であったという。同じように混血を繰り返していく守りの一族からは人の形をしていない化け物が多数産まれていったのに先見の一族からは全く化け物が産まれない。
まるで貴族様のように眉目秀麗な者しか産まれて来なかった……らしい。
俺自身が貴族様を見たことがないのでここは伝聞になる。
守りの一族は先見の一族を恐れ、妬み、蔑んでいた。こんな化け物の世話をしているから自分達は呪われたのだと。
かつて朝廷から監視を命じられた当初は友好な関係も築いていたという。権力の座から遠のいても先見の一族が長きに渡り培った教養は失われない。
人の世から隔絶されたこの山里で生活が出来るだけの基盤を整えられたのは、その知識があればこそだったという。
最初から……最初から守りの一族と先見の一族の婚姻が認められていれば今の関係も変わっていたのだろうか。
こんな憎しみだらけの一族が違う未来を辿る道もあったのだろうか。
今となっては全てが手遅れ。全てが終わってしまったのだ。
全てが死に絶えて……俺だけが残されたのだから。
もし、あの時に戻れたら……。
この悲しみの始まりに戻ることが出来たなら。
俺は彼女達を拒絶しただろうか。
破滅はそんなことで回避できたのだろうか。
俺が二人を受け入れなくても終わりは訪れていたのだろうか。
……みづき。
未来は……分かっていたのか?
この終わりは最初から見えていたのか?
それでも君は……君達は俺を選んでくれたのか?
あんな最期が分かってて……。
俺は……。
二人が生きてさえいれば俺がどうなろうとも構わなかった。
二人が生きてさえいてくれたなら……。
……逢いたいよ。
胸が……痛くて寒いんだ。
まるで大きな穴が空いたみたいに冷たい風が胸に吹き続けるんだ。
みづき。
みかづき。
……逢いたいよ。
声が聞きたいよ。
◇
巫女の世話役を命じられてから十年以上が経った。
かつて少女だったみづきは美しい娘になっていた。
女童だったみかづきも同様に美しい娘になっていた。
二人が成長したように、自分も大人の男になっていた。
巫女の世話役として幼い頃から二人の世話をしてきた身としては、ここ最近更に耐え忍ぶ日が続いていた。
幼かった二人の少女がどんどん綺麗になっていき大人になっていく。
それは喜ばしい事ではあった。
先見の一族の生き残りが大人になりつつある、という事であるのだから。
だがそんな事とは別の問題が自分には発生していた。
それは自分が成長したが故の問題であった。
巫女の世話役というのは生活全般の補佐を担う。
炊事洗濯家事に至るまで全てが自分に課せられたお役目であった。
それは日々の着替えの手伝いや湯浴もそうである。
彼女達の巫女装束も毎年仕立て直しをして新調した。
慣れない針仕事も慣れれば苦にもならなかった。
時として下の世話も世話役の仕事になった。みかづきのおねしょの後始末や、みづきのおねしょの後始末である。二人は互いに罪を押し付けあった。
どうせ布団は洗うし干すからそんなことはどうでも良かったのだが、二人は必死に抗弁していき最終的に自分がおねしょの犯人に仕立て上げられたりもした。
いつもは似てない姉妹なのにこういう時だけは姉妹なのだなぁと実感した。
世話役として二人と暮らすようになってから自分は二人と一緒の寝床で寝ていた。寒さを凌ぐ意味もあったし、純粋に寂しかったというのもある。
自分も二人も親を亡くしたのだ。
最初の数日は三人で泣いていた。泣き疲れて眠る夜が暫く続いた。
そして抱きあって眠るようになった。
それは成長した今でも変わらない。同じ布団に三人で抱きあって眠る。
子供の頃なら何も問題は無かった。子供であるからな。
しかしあれから十年以上が経った。幼い少女は美しい娘になり、男として成長した自分は己の肉欲を自覚せざるを得なくなった。
二人に劣情を抱くようになってしまったのだ。
別の布団を用意してそこで自分が寝ることを強く提案してみた。しかし二人は頑として認めてくれなかった。
三人で寝ることに二人は強いこだわりを持っていた。
土下座で頼み込んだが却下された。みづきもみかづきも頑固な所があるのでこれは無理だと諦めた。
なので次はお風呂のお役目免除を申し出てみた。
幼かった頃は三人でお風呂に入るのが普通だった。一度に入れば手間が省けるし薪の節約にもなる。
それは十年以上経った今でも変わらぬ習慣として俺の忍耐を試していた。
真っ白な肌に柔らかな肢体。真っ黒で豊かな黒髪が湯船に広がり黒の華が咲く。花弁に座すは蜜蜂を引き寄せる魔性の華人。
白く柔らかな肢体は、どこにも染みひとつなく、その体からは不思議と果物のような甘く痺れるような匂いが湯殿に立ち上る。
湯浴は基本的に危険すぎた。
幼い頃はあまり気にならなかった。当時から柔らかかったし、甘い匂いもしていた。てっきり女の子とは、そういうものだと自分は思っていた。
二人の体を洗うのもお役目として立派な仕事という事で、俺が二人の体を真っ赤になりながら洗うのを二人がからかう、というのがいつものお風呂の光景だった。
……流石に大人になってからは色々と不味いのでお風呂は別個にして欲しいと土下座した。お役目としてもそれは控えた方が宜しいと。
二人はそれも認めてくれなかった。いや、認めないばかりか、もし一緒にお風呂に入らないのならば私は金輪際お風呂に入らない、と、普段は無口であるみかづきがお冠になった。
年頃の女の子としてそれはどうかと思ったが、それだけ本気だったのだと思う。
……分かっていた。
二人が本当に望んでることも。
自分が望んでることも。
本当は全て分かっていた。
でもその一歩を踏み出せないのは先見の一族との交わりを禁ずという村の掟……というのを言い訳を使う自分の弱さだった。
分かっていた。
二人が女として自分を好いていることも。その珠のような柔肌に触れると震えんばかりに喜んでくれることも。
俺も二人に触れたいと望み、体を重ねたいと思っていた。
衝動のままに心も全て委ねたいと。
だからこそ俺は耐えるしかなかった。
二人は先見の一族最後の生き残り。
その意味は俺の感情だけで動くには重すぎた。
いや、そうじゃない。
俺が背負いきれなかっただけだ。
俺が弱すぎたのだ。
一緒にいるだけで満足して二人の想いを見ないことにしていた俺が誰よりも弱かったのだ。
……だからだろう。
彼女達は俺よりも遥かに積極的で躊躇わなかった。
弱かったのは……俺だけだった。
夏の満月の夜。
虫の音がうるさいほどの夜だった。
俺が寝具を整えるや否や、待ち構えていた二人に抱きつかれ押し倒され服をひん剥かれた。
そして……。
そして俺は二人と結ばれた。
この時ほど幸せを感じたことはない。後悔よりも二人と結ばれた事に俺は満たされていた。
満たされていたが二人に説教はした。
だが二人の満足そうな顔を前に俺は……
説教は長くは続かなかった。
夜が明けるまで……俺達は愛し続けた。
少しでもこの時が長く続くようにと祈るように。一分一秒を貪るように。
みづきは幸せそうに泣いていた。
みかづきは真っ赤になりつつも甘え続けていた。
そんな可愛らしい二人を抱きつつ朝を迎えた。
俺は二人を連れて村を出ようと決心した。
この時、既に二人には見えていたのだろう。
だからこそ深く深く愛しあったのだろう。朝が来るまで何度も何度も。想いを確かめるように。噛み締めるように。この幸せな夢が覚めないようにと。
これが今生の別れになると二人は知っていたのだろう。
二人は先見の一族最後の生き残りだったのだから。
俺は身支度を整えると悲惨な事になっていた布団を洗いに川辺に行った。二人が恥ずかしそうにしていたので油断した。
これからがあるのだと。これが別れだなんて二人は微塵も表に出さなかった。
そこで俺は村人に襲われて川に落とされた。
奴らは見ていたのだ。
俺達の営みを。
朝まで愛し続けた俺達の禁忌を。
近くの川は滝に繋がっている。
川に落とされた俺は滝からも落ちた。落ちていく途中で意識を失った。
そして気付いたら川辺に流れ着いていた。
村からは遥か川下になるが俺は死なずに済んでいた。
朝の日差しは、とうに無く。真っ赤な夕日が差していた。
すぐに不安が押し寄せてきた。
二人の事が心配になった。
そこからはよく覚えていない。
必死になって山の中を村に向かって進んでいたような気がする。崖を登り一直線に村を目指して……二人のもとへと息も絶え絶えになりながら走り続けていたような気もする。
そして夕日が宵闇に変わる頃。
夜と夕が移り変わるその狭間に村へと辿り着いた。
村は……赤く染まっていた。
まず見えたのは畑に座る人の姿だった。
畑の真ん中に座り、いつまでも動かない村人の様子に違和感を感じた。
いつもなら姿を見掛けただけで半狂乱になって罵倒し続ける村人がぴくりとも動かない。
既に闇の帳が落ちていた。村のあちこちにいつもは存在しない篝火が焚かれていた。
ぱちぱちと火の粉がはぜる音を聞きながら動かない村人を無視して村の奥へと進もうと足を更に踏み出した時、ようやく理解した。
畑は、ぬかるんでいた。
生臭く鉄錆の匂いが鼻につく。
村人は袈裟斬りにされ臓物を畑に溢して事切れていた。
そして更に気付いた。
村が静かすぎることに。
死体がそこらじゅうに落ちている村の中を俺は歩いていた。
地面には見慣れぬ足跡が沢山あった。あちこちに置かれた篝火に照らし出されていた。
それは村の先、先見の一族の集落に続いていた。
腕が落ちていた。
足も落ちていた。
人の形をしたものが道の途中に沢山落ちていた。
どれも村人だったもの。
俺を川に落とした男達も……木に槍で縫い留められて死んでいた。
その顔は驚愕の表情のまま固まっていた。
誰一人として動くもののない死の世界。
進もうとする足が震えていた。
何故こんな事になっているのかなんて気にならなかった。
頭に浮かぶのはあの二人の幸せそうな表情だけ。
朝の日差しに輝く二人の笑顔だけ。
俺は神社に辿り着いていた。
既に足は動かなくなっていた。なので俺は地面に這っていた。
両腕で土を掻きながら進み……縁側から家の中に入ろうとした。
二人はそこにいた。
いつものように白衣に緋袴を履き千早を羽織った二人は並んで縁側に座っていた。
地面から見上げてその姿を確認した俺は安堵した。
無事だったのかと。
そして声を掛けようとして気付いた。
二人の首が無いことに。
首から上に何もない事に。
二人は姿勢を正したまま座っていた。
膝に手を乗せ背筋を伸ばしたままで……そこにあるはずの頭が無かった。
◇
京の都。その大通りに面した刑場に人だかりがある。
大罪を犯した者の首がそこに晒されていた。
朝廷を揺るがせた罪人という肩書きであるが、その二つの首は京の者達ですら見たこともない絶世の美女であった。
それも姉妹という触れ込みである。
物見高い京の住人はこぞってこの美女達の首を見に来た。人だかりは日に日に増える一方、刑場に配置された役人達の心は穏やかでない。日に日に恐怖が募っていった。
検非違使達は知っていた。この首の持ち主達が何であったのかを。
この首を持ち帰ったのが他ならぬ警備の者達なのだから。
この首の持ち主は鬼の一族として、かつての朝廷を支配していた者達の生き残り。
守りの一族と先見の一族をまとめて葬った検非違使達は誰一人として討たれなかった。負傷者も皆無である。
彼らは朝廷からの命令に従って村をひとつ潰した。
いつものように罪人を処刑しただけ。そうであったはずなのに……だからこそ検非違使達の恐怖は消えない。
それはいつまでも腐らず、この世の者とも思えない美貌を保ち続ける二つの首が原因だった。
京の住人は連日飽きもせず首の見物に来ているが、検非違使達は今すぐにでもこの二つの首を火にくべたかった。
刑場に置かれた首は切り落とされてから幾日も経つというのに依然として美しいままだった。腐敗の兆しすらなく、作り物かと思う程に……切られた時と同じ状態を保っていた。
季節は夏。
明らかに異常であるが検非違使達は誰一人として晒してある首に近づく事は無かった。
人を殺すことに何の呵責も感じないこの者達をしてもこの二人は異常な存在だったのだ。
守りの一族は無様に逃げ回りながら皆、殺された。
命乞いをするものは勿論、仲間を捧げて自分だけ助かろうとするものもいた。
その全てが殺された。
山里に響き渡る村人達の断末魔の叫びを聞いていたはずなのに二人の巫女は怯えも恐怖も見せなかった。
巫女達は自ら首を捧げた。
抵抗することもなく。
臆す事もなく。
ただにこりと笑って首を差し出した。
検非違使達はたった二人の女に呑まれた。
凌辱してから殺そうと思っていた者達もその気が失せた。
首だけを持って京に急ぎ帰還したのは一刻も早くこの首と関わりを絶ちたかったから。
夜が来る度、その場にいた者達はあの時の事を思い出して震えることになった。
そして今日もまた夜が来る。
その夜は生ぬるい風が吹いていた。風はあれども、どこか生臭い風が京の大通りを抜けていく。
最初に気付いたのは誰だったのか。
都のあちこちから赤い光が揺らめき、どんどんと辺りに広がっていく。
夜の闇が赤い光に照らされ星の散る大空を焦がし始めると都は大騒ぎとなった。
火事が起きていた。
ただのぼやではない。都中から火の手が上がっていた。
刑場の警護をする検非違使達も火災の対処に追われることになった。
もしやこの二人の祟りではないかと思いながらも必死に消火作業をこなしていく。
結局、都はその半分が焼失するほどの甚大な被害に見舞われた。
だが内裏は無事であり帝にも被害は無かった。
都の役人達は胸を撫で下ろした。
だが検非違使達は恐慌に陥った。
刑場には火の手が回ることは無かった。燃えるものがそもそもない広場だったのだから。
警備に戻った者が見たのは何も載っていない晒し台。
刑場の中央に置かれた台の上から二つの首が消えていた。
検非違使達は二人の祟りだと喚き立てた。
京の半分を焼きつくした大火は鬼の一族が報復として放ったものであると。
死してのちに復讐をしたのだと。
だが朝廷の文官達は彼らの主張を聞き入れなかった。
火事は、ただの火事であるとして。首は京の者が火事のどさくさに紛れて盗みとったのだろうと。見目麗しき鬼の首として好事家に売り払うつもりなのだと。
実際に二人の首を目にしたのは検非違使と京の見物人だけだった。文官達は好き好んで晒し首を見ることなど無かった。
だから冷静でいられた。
帝が急逝するまでは。
在位一年に満たずして帝は崩御した。その親類縁者も謎の病に掛かり、ばたばたと死んでいく。
それは役人や市井の者にまで及んだ。
京から多くの者が逃げ出した。あの火災以来、京は死の都と化していた。疫病が蔓延し、盗賊が跋踞する無法地帯になっていた。
朝廷は権力争いに終始し、かつての大通りには死体が積み重なっていった。
荒れ果てた京に出没する盗賊の多くは元検非違使達であり、僅かに残っていた民を殺して回っていた。まるで何かに取り憑かれたかのように。
彼らは既に正気を失っていた。狂気に呑まれていた。
だが……それはいつからの狂気だったのだろうか。
あの大火のあと。刑場から首が消えた時だろうか。
それとも帝が崩御した時だろうか。
……それともあの夜。
二人の巫女がにこりと笑い、首を差し出したあの時に、全てが狂い始めていたのだろうか。
◇
京から遠く離れた山里に隠れ里があった。
そこには先見の一族が隠れ住んでいたという。
彼らは大樹を御神木とし、社を建てた。
遠い未来。
ここが一族最後の墓となると見越して先見の一族は、ここに移り住んだのだ。
御神木は社の裏手にあった。
時を経てその由来も忘れ去られてしまったが、大樹の手入れだけは巫女の一族に伝わっていた。
色とりどりの花が咲き誇る花畑の中央。花に囲まれ聳え立つ大樹の側には新しい墓が二つ、寄り添うように立てられていた。
そしてその墓の前には一人の青年が墓を守るようにして座っていた。
花に埋もれ、その姿は確とは見えない。
墓に背を向けて、刀を抱いて座る彼は墓守人であった。
青年の名は陶元。
先見の一族最後の巫女と結ばれた男であり、愛するものを取り返すために京を燃やした男であった。
彼は墓を作り終えてすぐに息を引き取った。
死してのちに黄泉で彼女達に逢えると信じて。
今度こそ二人を守ると誓いを立て。
彼は息を引き取った。
その眼窩から止まらぬ血の涙を流し続けながら。
このお話には続きがあります。黒の夢 夕の篝火がこの話を受けて続きます。