おそらく十万と一回目
仕事は魔族を殺すこと。不死の魔族を殺すこと。それができる唯一の存在であり、人間の希望の光。それが〈勇者〉。聖剣に選ばれし血族。その末裔。
様々な言葉が並べたてられる。美女を飾る宝石のように。極上肉に振りかけられる香辛料のように。微睡みの境にまとわりつく願望のように。
人類の砦。不可能を破る者。不死殺し。最強。奇跡の一族。聖剣の担い手。武神。
煌びやかな特別。唯一の称号。そしてそれはほぼすべてが事実だ。
『勇者承認――解放鍵数を指定してください』
「二個だ」
『解放します』
俺が聖剣を握ると、平坦な声が脳内に響く。どこか冷ややかで、どこか侮蔑的なその声は、俺をどこまでも苛立たせる。
目の前の魔族が絶望に満ちた顔で俺を見る。俺はそれを無表情に見下す。何も難しいことはない。抵抗する力もない魔族を斬るだけ。それが〈勇者〉の仕事。それだけが〈勇者〉にできること。〈勇者〉に唯一できること。
「執行せよ。〈勇者〉よ」
俺は返事をしない。それがせめてもの抵抗。いや、ただの癇癪の表れか。どうしようもない俺の、行き場のない感情の吐き出し方。へたくそだ。何もかも。けど、それしか俺は知らない。俺には何もできない。
視界の端には俺を囲う魔族たちの顔が映る。視界から外そうにも埋め尽くすようなそれらを完全に遮断することはできない。罪を犯した魔族と、それを斬る俺。それらを取り囲むのは無数の魔族。どこに目を向けたって魔族だらけで、ここにいる人間は俺だけで、どうやって魔族を見ずにいられようか。
聖剣を抜く。解放率は二割。無抵抗の魔族を殺すにはそれで十分。そして、それ以上の解放は許可されていない。
ああ、この聖剣を全解放して、周囲の魔族を薙ぎ払えたらどれほど気持ち良いだろうか。がむしゃらに聖剣を振り回し、魔族の血を浴びて暴れ回る。そんな妄想を何度しただろうか。とうてい数えられるほどではない。日に十度考えたとして、物心ついてから毎日考えたとして、ざっと五万回ほどだろうか。いや、それっぽっちじゃ足りやしない。そんなんじゃまったく足りはしない。最低でもその倍は考えたはずだ。
何度目だろうか。この聖剣を握ったのは。何度目だろうか。こうして諦めるのは。
無敵の自分を妄想し、虚しさを嘲笑い、死にたくなり、その苛立ちをぶつけるのは。
聖剣を振り回したところで意味がないのはわかっている。魔族はとても強い。ただの人間ではかなわず、〈勇者〉とて一対一でようやくと言ったところ。それがどうだ。これはなんだ。一度も全力で振るったことのない聖剣では魔族を斬れるのかもすらわからない。斬れたとして何体斬ればいい? 斬って、斬って、幾千幾万と斬り捨てることができたとして、その行きつく先には何もないのだ。もう、人間の勝ちはもうないのだ。
俺は〈勇者〉の末裔。百と二十といくらかの代の〈勇者〉。
仕事は、魔族を殺すこと。
不死の魔族に命令され、不死の魔族の罪人を殺すこと。
それこそが〈勇者〉の役割。
それこそが、唯一活かされている〈勇者〉の存在理由。
昔々、人間は魔族に負けた。当たり前だった。筋力は相手の方が強く、魔力は相手の方が潤沢。知識も知恵も劣っている。そのうえ自分たちは五十年で死ぬというのに、相手は心臓を砕かれたって死にはしない。そんな侵略者に人間が何かできるはずがなかった。
魔族は人間を殺したまくった。邪魔だから殺しまくった。利用価値がないのだから殺しまくった。素晴らしく合理的で、感嘆するほどに徹底的だった。
聡明な魔族は自分たちが負けるわけがないことを理解していた。そして、自分たちが故郷を追われた理由を忘れてはいなかった。だから人間の駆除の間も常に考えていた。侵略が終わった後のことを考えていた。不死の魔族でもっとも問題になるのは、個体数の無際限な増加だ。しかし、減らそうと思っても減らすことはできない。増やすのを抑えることもできない。知能と倫理と感情が邪魔をする。
だから、魔族はどこまで冴えたやり方を選んだ。人間を追い込むだけ追い込み、自分たちを殺す手段を作り出させ、そのうえで、自分たちを殺す能力を持った者のみを生かしたのだ。他を全て殺し、反抗するだけの気力と理由を全て奪い、牙という牙を抜き取り、飼うことにしたのだ。
それが、〈勇者〉だった。
俺だった。
人間が作り出した〈勇者〉の機構はかなり単純な方で、その資格は血が繋がっていれば与えられた。だからこそ悪魔たちは人間を容赦なく滅したのだろう。勇者の血を引く人間と、その番候補を牧場で飼う。血は詰まりすぎないように適度に数は保ち、しかし反乱はされない程度に殺す。種は万が一のために保存しておくが、それだけ。自由も特権も与えはしない。反抗したら殺し、次の〈勇者〉作る。〈勇者〉の子供がある程度育ったらすぐに潰して代替わり。百年もしないうちに〈勇者〉は完全に魔族の社会に組み込まれた。
俺は足を引きずり家へ向かう。今日の仕事は終わりだ。流石に日に二度も死刑の要請があったりはしないだろう。帰って寝よう。重い頭がじくりと痛む。
疲れた。聖剣を使うのはとても疲れる。自分の身の丈もある金属の塊なのだ。持ち上げられるだけでも十分だろう。そのうえ魔力や生命力も持っていかれるのだ。疲れて当たり前だ。俺は言い訳でもするようにそう繰り返す。
俯くとぶよりと顎の肉が揺れる。突き出た腹が視界を遮っている。贅肉塗れの腕がぶらぶらと揺れている。
醜い。そんな感情も一瞬で消える。どうでもいい。どうせ何もない。言葉が口から漏れる。
くそったれ。くそったれ。くそったれ。
すれ違う魔族がぎょっとした顔で俺を見る。まるで死神を見るような目だった。いや、正しく俺は死神なのだろう。不死の奴等を殺せる唯一の存在なのだから。
〈勇者〉なのだから。
「くそったれ」
首を掻きむしる。そこに刻まれた紋様が痒いのだ。〈勇者〉の紋様だとか言うらしい。昔は隷属の呪いがかけられていたらしいが、今はただの飾りになっている。必要ないからだ。俺みたいな〈勇者〉を抑える必要なんてないからだ。
家に帰り、荒々しく扉を開ける。八つ当たりなことはわかっている。だが、もう癖になってしまった。こうしないと落ち着かない。
「帰ったぞッ! 腹が減った!」
妻を呼ぶ。だが、返事はない。くそったれ。俺は台所に入る。やはり何もない。
「おい! 飯はどうした! 飯を作っておけと言っただろう!」
寝室の扉を蹴り飛ばした。寝台には妻が寝ころんでいる。
胡乱な目を見開くと、こちらを一瞥し、再び寝台に潜った。
「おい!」
「うるさいわね、勝手に食べれば良いじゃない。頭に響くのよ、あんたの声」
「なんだその言い草は! お前は俺の妻だぞ! だから牧場から出れたんだぞ!」
「あっそ。なら戻せば。こっちとしても、あんたの顔見なくて済むなら、牧場暮らしの方が何倍もましだわ」
くそったれ。
俺は鼻息荒く寝室を背にする。むかつく女だ。いつからこうなった。昔はもっと従順だった。多少は可愛げもあった。なのに今じゃ、このざまだ。厚化粧に、酒に浸された脳に、巻き散らす毒舌。俺の神経を逆なですることしかしない。唯一の取柄だった体形さえ崩れてる。なんでこんな女を選んでしまったんだ。後悔しかない。
要らねえ。あんなの要らねえ。俺だって要らねえよ!
吐きそうだ。叫びたくてたまらない。だが、本当に叫びはしない。びびってるわけじゃない。ただ、そんなことをしても無駄だとわかっているからだ。だから何もしないんだ。それだけだ。
俺は冷蔵庫を開け、酒を取り出した。他には何もなかった。酒浸りの糞ばばあが。俺が死んだらどうするんだ。お前も用なしで消されるんだぞ。言ってもどうせ同じ答えしか返ってこないのが腹立たしい。あっそ。なら死ねば? 本当に言われたかのように脳内で再生される。
酒を飲み、風呂で吐く。なんとか立ち上がり、寝台へ向かう。一瞬映った鏡には鬚だらけの死にそうな男が映っていた。
寝台に転がり込み、妻を押しのけると、急にむらむらしてきた。
「おい、いいだろ」
「だるいから今度にして」
「うるせえ、抱かせろ! それがお前の役目だろうが!」
真っ赤な唇に貪りつく。体中を撫でまわす。糞みたいな世界の唯一の娯楽だ。そして、俺の仕事の一つでもある。
そうだ。仕事だ。これが俺の役目だ。生きる意味だ。
三度ほど精を吐き、寝台に倒れこむ。枕は饐えた匂いがする。もう何日も干していないのだろう。嫌になるが、これから何かをする気力があるわけもない。俺はそのまま眠りへと落ちた。
起きたら妻はいなかった。どこへ行ったのだろうか。家の中にはいるはずだ。家の外に出る自由は与えられていない。
流石に空腹に耐えられず寝台を這い出た。立ち上がって気付いたが、〈勇者〉の服が皺だらけになっている。一品ものだというのに、なんとかしなければならない。
しかし。
面倒だ。
ひたすらに。
家を出て街をぶらつくにした。だが、何もすることはない。人間用の娯楽がないからだ。魔族用の娯楽は俺には合わなかった。あいつらの趣味は悪い。血と臓物と虐殺。小説も、戯画も、映画も、全てがそれで構成されている。俺にもそう言った趣味があれば多少は人生を楽しめたのかもしれない。だが、幸か不幸か、俺は人間の悲鳴を聞いて楽しむことはなかった。
愛はくだらないそうだ。情は必要ないそうだ。絆は虚構だそうだ。
それは事実なのかもしれない。いや、事実かどうかは別にして、とても効率的なのかもしれない。そうした割り切りがあるからこそ魔族は強いのかもしれない。だから人類は負けたのかもしれない。
断定ができないのは、俺はそうしたものを実感したことはないからだ。親は物心ついたころには処分されていた。牧場に行かなければ人間には会えないのだから友もいない。〈勇者〉は個なのだから、関係など結ぶべくもない。
唯一は、妻か。
また苛立ちが湧きたってくる。
破壊とは快楽である。
そんな魔族の言葉を実践したくなる。
灰色の柱を蹴った。足がじんと痺れた。灰色の塀を蹴った。爪先に痛みが走った。灰色の地面を蹴った。何も起きなかった。
何も変わらなかった。
「俺は、〈勇者〉だ」
事実だ。なんでこんな言葉が出たのかわからない。知ってるし、わかってる。言ったところで何も変わらない。
「〈勇者〉だ」
そうだ。そのはずだ。
「〈勇者〉なんだ」
間違いない。
ほら、何事かを話し合いながら訝し気に俺を見る魔族も俺に手を出そうとはしない。腕を絡めあってすれ違う魔族は俺を避けて歩く。俺と目が合った魔族は子供らしき魔族を背中側に隠した。
無性に胃が苦しくなり、俺は家に逃げ帰った。乱暴に扉を開け、玄関に転がり込んだ。
しかし、胃液を吐き出そうと洗面所に飛び込むと、そこには既に先客がいた。
口元を拭いながら振り返った妻は、なんとも凄惨な笑いを浮かべていた。
「ふ、ふふ。ふふふ」
何がおかしいのだろうか。
「あんたは、これで終わりよ。ざまあみろ」
妻が何を言っているのか分からなかった。
「あと五年よ。五年で死ぬのよ。ざまあみろ。あんたの親みたいに! 処分されるのよ!」
だけど。妻は両手で自分の腹を抑えていた。腹でも痛いのかと思ったが、すぐにそれが違うことはわかった。妻の顔に苦痛はない。嫌悪の色はあるが苦悩は見られない。そこに何か大切なものがあるかのように、それを守ろうとするかのように、妻は腹を抑えているのだ。
俺は理解した。
「俺の、俺の子か……?」
「そうよ!」
噛みつくような声。歯をむき出しにして笑う。
俺は膝をついた。
「俺の?」
「それ以外誰がいるのよッ!」
そうだ。俺以外にはいない。魔族と人間は子を成せない。つまり俺の子だ。
俺は父親になるのだ。
妻ににじり寄る。妻は一瞬身を引いたが、すぐに俺を睨み付けて胸を張った。その強気なところは初めて会った時から一切変わらない。
俺が手を伸ばし、指先で腹に触れると、妻はびくりと体を震わせた。分かるはずもないのに、俺はその命を感じようと腹をまさぐる。
「……やめてよ」
俺は抱き着くように腕を回し、妻の腹に耳を押し当てる。血の流れる音を感じ取る。
「やめてってば」
暖かかった。何故かそう感じた。今までいくら妻を抱こうとそんなことを感じたことはなかったというのに。なぜかどこまで暖かく感じた。心地よく感じた。
「離れろッ! 気持ち悪いのよ!」
目から涙があふれてきた。止まらなかった。鼻水も止まらない。妻の服が汚れていく。
突き飛ばされ、俺は尻餅をついた。眼が合うと、妻も泣いていた。愉快そうに口を釣り上げながらも、妻も泣いていた。
「これで終わりよ、あんたの仕事は!」
子を作った〈勇者〉は子の健康状態に問題が無ければ処分される。だから俺ももうすぐ処分される。一年後か、二年後か、長くても五年後には。
清々する、と妻は叫んだ。
俺は泣きながら呻くことしかできなかった。
魔族が汚物を見るような眼で俺を見ている。
当然だろう。皺だらけ、涎だらけで、見るも無残な〈勇者〉の服。数日剃っていない無精ひげ。普段の数倍は醜い。魔族の美的感からしても、人間の美的感覚からしても。
「何かあったか、〈勇者〉よ」
俺は答えない。
顔を上げずに、聖剣を握る。
魔族の裁判長は呆れたように肩を竦め、それ以上追及はしないようだった。俺が不愛想なのはいつものことだからだろうか。おそらくそうだろう。俺ほど無気力で従順な〈勇者〉はいないと、耳にたこができるほどいわれていたのも、関係しているかもしれない。
「まあいい。執行せよ」
『勇者承認――解放鍵数を指定してください』
いつも通りの冷たい声。
何も〈勇者〉には期待していないのだと言わんばかりの、冷めた声色。
「十個だ」
俺は呟く。
目の前で跪く魔族が信じられないことを聞いたかのように目を見開く。
『解放します』
続く聖剣の声はどこか嬉しそうだった。気のせいだろうか。いや、気のせいじゃないだろう。
聖剣から見たこともないような輝きが放たれる。呆れるほどの魔力量が溢れ出る。
魔族が何事か叫んだ。口々に何かをわめきたてる。想定外のだろう。想像もしていなかったに違いない。
無駄だろうか。阿呆だろうか。愚かだろうか。そうなのかもしれない。これからやろうとしていることはこれ以上なく無意味なのかもしれない。
けど。
なにせ、俺は〈勇者〉なのだから。