1歳 -水の極日2-
ズキン!
胸が……心臓が痛い。上手く息が吸えなくて視界が少しずつ滲んでいきます。何か兄上に言わなくちゃと思うのに、何も言葉が出てこないのです。
それでも
「あいうえ、……かえろ?」
と何とか言えたのは、私に消えろと言った当の兄上がボロボロと泣きながら、とてもつらそうな表情をしていたから。ただ「一緒に帰ろう」とは、もう言えませんでした。気づかないうちに兄上を傷つけていた私に、一緒に帰ろうと言われても兄上も困ってしまうでしょう。前世で一人っ子だった私は、兄弟間の距離感というものを間違ってしまっていたのかもしれません。
それでも、ここに兄上を置いたまま母上たちを呼びに行くという選択肢はありません。柵があるとはいえ危険な崖はあるし、水力ケーブルカーを使用する際にタンクに流し込む為の地下を流れる川の水がかなり増量していて、危険極まりない状態なのです。今はタンク側に引き込んでいない為、放物線を描いて地底湖に向かって流れ落ちているのですが、多すぎる水量に水しぶきがかなり広範囲に飛び散っていて、雨が吹き込んでいる訳でもないのに周囲の地面がびしゃびしゃに濡れています。
「おうち、かえろ?」
そう言いながら兄上に一歩近づきます。そんな私を見て兄上は近づいた分だけ後ずさってしまいました。すると兄上の背中がトン!と軽く柵に当たります。これ以上は後ろにはさがれない事を悟った兄上は困ったような顔で俯きつつも、水力ケーブルカーへと続く通路へと横移動を始めました。私が更に一歩進めば、兄上も一歩後ろにさがり……それを繰り返して、結局通路にまできてしまいました。
(私じゃダメか……)
暗い気持ちになってしまいますが、最優先すべきは兄上の安全です。金さんか浦さんに心話で呼びかけて来てもらうか、金さんたちを経由して母上たちに来てもらうしか手はないかな……。
そう判断した時、私の耳に聞き慣れない異音が聞こえてきました。瀑布が直ぐ近くにあるので、その音にまぎれて聞き取りづらいのですが、ドゴンとかガゴンといった何か大きなものがどこかに当たるような音がどんどんと近づいてくるのです。
急に黙って辺りをキョロキョロと見回す私とほぼ同時に、兄上も同じようにキョロキョロと周囲を確認し始めました。という事は、この異音は私だけに聞こえる空耳ではないという事です。
洞窟に入ってすぐの広場。そこからの音ではない。
その広場から伸びた水力ケーブルカーへ向かう短い通路、ここからでもない。
通路の先、水力エレベーターやそれと同じ高さに作られた広場からでもない。
そうやって異音の出所を探っていると、轟々と流れる川の音と同じ方向から異音が聞こえてくるような気がして、地下の岩壁にぽっかりとあいた穴へと視線を移しました。前に水力ケーブルカーを使った水の陽月の時とは比べ物にならないぐらいの大量の水が溢れ出ているのですが、その向う側から異音が確かに聞こえてきます。
「あいうえ、こっち!」
とにかく崖の近くや川の水がかかるような場所に居るのは危険すぎると、先程よりずっと強くこちらに来るように促しました。その間にもどんどん近づいてくる異音に、兄上も恐怖を感じたのか此方に向かって足を踏み出します。
その時でした。
ドゴッ!!!
「きゃーーーーっ!」
「ぎゃわーーーー!」
洞窟内に反響する爆音と共に、岩壁にあいた穴から大量の川の水と直径1メートルは余裕で超えていそうな巨木が飛び出してきました。空気をビリビリと震わせる程の大きな音に驚いた私と兄上は、両手で耳を抑えて蹲ります。
全てがゆっくりとスローモーションのように見える中、巨大な流木は穴の縁にある岩に当たって大きく跳ねあがると屈んだ私のすぐ上を通り抜け、兄上が居る方へと向かいました。その光景にヒッと声にならない音が口から洩れ、息が止まりそうになります。
「あいうえ!!」
思わず叫んでしまう私でしたが、幸いにも巨木は兄上のすぐ横を抜けるようにして背後の柵に激突し、数メートルに渡って柵を根こそぎ倒した後、そのまま壊れた柵と一緒になって真っ暗な地底へと落ちていきました。
良かったと安堵する間もなく、今度は兄上の声が響きます。
「櫻! あぶない!!」
兄上の声と同時、巨木から一拍遅れで大量の川の水が私達に襲い掛かったのです。
(まずい!!)
慌てて兄上に手を伸ばせば、兄上も私の方へと手を伸ばしていました。ですが、その手が急に不安定に揺れたかと思うと、兄上の小さな悲鳴が聞こえました。
そこから先は無我夢中でした。
柵が根こそぎ倒された事によって兄上が立っていた場所の地面が崩れ始めていたのです。大量の水に流されて自分の体が思うように動かないどころか、地底に向かって流れ落されそうな中、咄嗟に右手を伸ばして兄上の手を掴み、左手で辛うじて残っていた柵の根元を掴みます。
兄上も私の手を掴んで、もう片方の手で何かに捕まろうとしたようですが、運悪く兄上の手が届く範囲に身体を支えられるようなモノが何もありませんでした。
結果として、私の左腕一本で自分と兄上の体重を支えながら、二人して崖からぶら下がる事になってしまいました。
「ぐっ……あいうえ、はなしゃない……でね」
食いしばった歯の間から絞り出すようにして、兄上にしっかりと手を掴んでいてほしいと伝えます。赤ん坊や幼児というのは意外と力があって、自分の体重ぐらいなら支えられると聞いた事がありますが、今の状況は自分の体重+兄上の体重です。
<金さーーーーーーん!! きんさん、助けて!! きんさーーーーーん!!>
必死に、それ以外の言葉を知らないかのように助けを心話で飛ばします。人である私の心話はそんなに遠くまでは飛びません。なので直ぐ近くに金さんが居る事が前提になるのですが、とにかく助けを呼ばないと、このままでは二人揃って地底湖に真っ逆さまに落ちてしまいます。
全身から脂汗が流れ落ち、兄上の手が少しずつ、すり抜けるようにしてずり落ちていきます。
「あいうえ! がんばってっっ」
そう言う私の柵を掴む左手も、二人分の体重に耐え切れなくなってきていました。兄上が私に何かを言っているようですが、金さんに心話を飛ばす事に集中して居る為に聞き取れません。
と、私の耳に足音が聞こえてきました。バッと顔を上げた先、洞窟の入口に居たのは山吹でした。
「坊ちゃま!! 今行きますから、頑張ってください!!」
そう叫ぶ山吹が駆け寄ってくる姿を見て少し安心したのですが、その安心が間違いだったことにすぐに気づきました。
「きちゃだめーーーー!!!」
山吹は叔父上と同じぐらいの巨体です。ヤマト国の平均らしいですが、2mを少し超えた身体は相応の体重をしている訳です。つまり、近づく度に柵が辛うじて刺さっていた地面がボロッ、ボロッっと少しずつ崩落していくのです。
「山吹、くるな!! さくがおちる!!」
兄上も状況を察して、言葉の足らない私に代わって山吹に説明してくれました。その声に山吹の足がピタリと止まります。これで今すぐの崩落は防げましたが、自分と兄上を左腕だけで支え続けなくてはならない事は変わらず、その腕も既に感覚が麻痺し始めていました。
<櫻!! 何処だ!!>
金さんの心話が心に響いたのは、その直後でした。
<金さん……水力ケーブルカーの洞窟!!
……助けて……もう、落ちそう!!>
そう心話を飛ばしている間にも、腕がブルブルと震え始めていて、限界が近い事が解ります。解るけども、認めません。絶対に兄上を助けたいのです。
「櫻!!!」
「きゃーーーっ、槐! 櫻ーーっ!!」
金さんの声が聞こえると同時に、母上の悲鳴が洞窟内に響きました。
(金さんだ、金さんが来てくれた!!)
汗が目に入ってぼやける視界で洞窟の入口を見れば、山吹の後方に新たに人影が二つありました。そのうちの一つ、山吹と同じように体格の良い金さんの姿が視界に入ると同時に、
「きんしゃん! たすけて!!!!」
と叫びました。金さんだって実体化している以上は重さがあり、近づけば柵が落ちるでしょうが、金さんならどうにでもできるという絶対の信頼がありました。
これで、助かる……。
それは非常時に一番しては駄目な思考で、前世でいうところの死亡フラグというヤツでした。金さんが状況を察して技能の「硬化」で柵の根元を固めて崩落を防いでくれたのとほぼ同時に、私の左手はズルッと滑って柵から離れてしまったのです。
「「「あっ」」」
その声は私以外にも近くに居た数人が同時に発しました。今までかいていた脂汗が一気に冷や汗に変わります。私と兄上の下には何もなく……このままでは二人揃ってあの世行きです。
そんな結末、認める訳にはいきません。
「うああああああああああ!!!!!!」
(唸れ!! 私の!!! 火事場の馬鹿力!!!!)
柵から離れてしまった左手で、私の右手を掴んでいた兄上の手を掴むと、身体の中でブチブチと嫌な音がする事も気にせずに問答無用で金さんに向かって放り投げます。
普段の私の力ならそんな事が出来る訳がないのですが、流石は火事場の馬鹿力。兄上の身体は私を支点に円を描くようにして金さんに向かって飛んでいきました。
力を使いすぎた所為か、視界がうっかり太陽を直視してしまった時のように赤だったり緑だったりに染まります。そんな不明瞭な視界ですが、金さんが兄上の体をキャッチした事だけはしっかりと確認できたので、私的にはそれで満足です。
1年と少し前、バスから落ちた時と同じように耳元で渦を巻くように聞こえる風の音。
(世界が変わっても、風の音は変わらないんだなぁ)
なんて思うぐらいに不思議と心は落ち着いていました。
遠くなる崖の上では兄上が目を真ん丸にして私を見ていて、その手を必死に伸ばしてくれていました。あぁ、兄上にごめんねって言いそびれちゃったなぁ。私もせめて腕を伸ばすべきかと思ったけれど、腕にも指にも少しも力が入らず、動かすどころか感覚すらありません。
もし、もう一度転生できたなら、絶対に高い所には行かないようにしよう。
落下しながらも、私はそんな事を思ったのでした。




