18 信頼
「……」
てつは横目のまま、思案でもするようにその目を細める。
「……お前は、危なっかしいと、俺ぁ言ったな」
『え? うん、言われた』
「で、今、途轍もなく危なっかしい事をしていると、理解しているか?」
『…………えっと』
目を彷徨わせてしまい、またてつが、大きな溜め息を吐いた。
「……だから、厭なんだ。お前は見ていると危なっかしい。目を離したら足を滑らせて頭打って死にそうだ」
『……そ、そこまででは……』
ない、と思う。たぶん。
「五分経った。戻るぞ」
『あ、はい』
てつがドアを開けると──
「姉さん、姉さんこれは駄目です。アウトです」
「いいでしょ? 少しくらい。守弥の髪、今もふわっふわなのねぇ……! あ」
遠野さんの頭を抱え込んでいる天遠乃さんが、入ってきた私達に気付いた。
「あら、もう五分経っちゃったの……?」
「経った。早く離れろ」
抑揚のない声で言うてつに、天遠乃さんはしぶしぶといった感じで、遠野さんから手を離す。
「……すみません、榊原さん、てつさん。当主の体が榊原さんの体だったため、力が強く、自力であれを退ける事が出来ず……」
前に向き直った遠野さんの言葉に、あ、そうか。と今更に思い至った。私の体はただの人の体じゃないんだった。今やその腕力も、成人男性のそれを大きく上回るほどだ。
『いえ、まあ、大丈夫です。それで、目的は達成されました?』
またスタスタと、天遠乃さんのもとへと歩いていくてつに抱えられたまま、そう聞くと。
「ええ! 本当にありがとう、杏さん」
天遠乃さんがとっても輝いた笑みを向けてくれた。
わあ、私の顔だけど、その後ろに天遠乃さんが見える気がする……。
「ならさっさと戻れ」
「ええ。さ、杏さん」
天遠乃さんは一つ頷くと、てつに抱えられたままの私に向かって両手を広げる。
『……てつ、離して』
「……」
今度は、てつがしぶしぶといった様子で、腕の力を弱める。私はそこからするりと抜け、天遠乃さんの──自分の体に近寄った。
『では、失礼します』
体に抱きつくと、やっぱり前と同じように、天遠乃さんの魂が抜ける感覚と、私の魂が体に入っていく感覚を覚える。
そして、一瞬の暗転、後、目を開けると──
『戻れたわね』
目の前に、幽霊の天遠乃さん。
「うん。はい。戻りました」
しっかりと重力を感じるし、この肉体は自分のものだ、と、体と魂が言っているような感覚がある。
「杏」
「はい?」
「早く戻れ」
いつの間にか対面のソファに座っているてつに、顎で指示される。
「……はいはい」
それが人にものを頼む態度かね。まあいいけど。
テーブルの横を回り、てつの右隣、つまり元の位置に座る。そしたら、
「うおっ?!」
「なんだ」
「な、……なんだはこっちの台詞だよ」
急にてつに左の手首を掴まれ、驚いて声を上げてしまったのだ。これはてつのせいだと思う。
「てつ、なに」
「……なんでも」
「じゃあ、離してよ」
「……」
てつは私と目を合わせると、その深い青緑を細め、じっと、何かを探るような、そんな眼差しを向けてくる。
「……あの、てつ?」
「…………」
結局、てつは何も言わず。パッと手を離され、私の腕はストンと膝の上に落ちた。
……なんだったの?
「てつさん。なんなら部屋の映像や音声を確認しますか?」
遠野さんが、そんな事を言う。
「あ? んな事が出来んのか?」
「ええ。この家、部屋にも廊下にも一定間隔で、カメラ機能や録音機能などがあるものが埋め込まれているんです」
なにそれ怖い。
私がこの家のハイスペックさに慄いていると、てつはぐるりと部屋を見回し、
「そう言うんなら、見せて貰おうじゃねぇか」
と、笑っているのか苛ついてるのかよく分からないカオをして、言った。
「てつと遠野さん、遅いですね」
あの後、遠野さんは「では、モニターのある部屋に案内しますね」と立ち上がり。てつも一緒に立ち上がったが、私は、ついて行くのを辞退した。
そもそも、あの状況を見ないようにするために、部屋を出た訳で。けど、そうとは言えないので、「じゃあ、私はここで待ってますので。いってらっしゃい、てつ」と、二人を見送った。
てつは一回私と天遠乃さんを見比べるように目を動かしたけど、それだけ。特に何も言わずに、部屋をあとにした。
で、それから二十分ほど。私は天遠乃さんに『ほら、食べながら待ちましょう?』と言われ、テーブルの上の、大皿に乗った沢山の小さなタルトを勧められ、素直にそれを食べていた。タルトはその見た目も綺麗だし、甘いのもしょっぱいのもあって、美味しい。
『そうねぇ……でも、危険があるわけじゃなし。モニター室までも結構遠いしね』
紅茶はティーバッグでしか淹れたことのない私なので、テーブルのそれはどう淹れればいいか聞くと、『じゃあ、私がやるから見ててね』と、天遠乃さんが淹れてくれた。
茶葉はダージリンの、セカンドフラッシュ? だそうな。これも香り高くて美味しい。
「てか、今更ですけど、あんな簡単にモニターとか見せに行っていいんですか?」
あの、サトウさんとかいうAIは、自分の本体に人を近付ける事を良しとしなかった。モニター室だって、それなりに重要な場所だと思うんだけど。
『ええ、それは大丈夫。ここのセキュリティを司るサトウだってそれを受け入れたし』
「え? 受け入れました?」
いつの間に?
『ああ、えっとね。サトウは何か問題だと思わなければ、主人である守弥に対して、何も言わないわ。さっきも何も言ってこなかったでしょう?』
「そうですね」
『それが証拠。……それに、守弥が良いと言えば、本来ならなんだって「良い」になるのよ。ただ、あの子は優しいから、色んな事に気を回してしまう……』
天遠乃さんの顔が曇る。
遠野さんが良いと言えば、なんだって「良い」になる……。これ、天遠乃さんに前に聞いた、「遠野さんなら当主にだってなれた」っていうのとか、頭に映像を流された時の「仮の跡継ぎ」とかと、関係ある、……んだろうな。
『でも、ここに戻ってきて、何度も思うわ。守弥に本当の味方が沢山いてくれてるって。尭だってあれからずっと、ここに居てくれてたみたいだし、他にも沢山の仲間が出来てる。守弥は独りじゃない』
少し俯いていた顔を上げ、天遠乃さんが笑顔を見せる。
「……そうですね」
それは、本当にそう思う。遠野さん自身はどこか卑屈さや自嘲するようなところがあったけど、色んなひとに信頼されている。そしてそれは、天遠乃さんが戻ってきてから、よりそう思うようになった。
遠野さんはたぶん、ずっと気を張っていたんだと思う。周りに助けを求める時も、心は、独りで。でも、天遠乃さんが戻ってきて、少し、その角が取れたようにも思う。
なんでこんなに分析できるかって言えば、まあ、私がひとの気を読めるようになったからなんだけど。
「遠野さん、沢山のひとに信頼されてますもんね」
『あら、他人事みたいに。その仲間に、杏さんだって、てつさんだって、入ってるのよ?』
「え、そうですか?」
『そうよ。杏さんだって、守弥を信頼してくれているでしょう? そんなあなた達へ、守弥は気を許してるし、信頼してる。……分かり辛いでしょうけど』
あの子、ホント、分かり辛いのよね。と天遠乃さんが左手を頬に当て、溜め息を吐く。
「……」
私は、天遠乃さんの言う通り、遠野さんを信頼している。この信頼は、ここ半年ほど行動を共にしてきた遠野さんへと、自然に出来たものだ。
けど、遠野さんは、私に気を許している──私を信頼しているか。……考えた事もなかった。
悪くは思われていないと、思う。直属の上司と部下という間柄、一緒に行動する時間もそれなりにあったし、仕事もきちんとこなしてると思ってる。その間、少なくとも、悪感情を向けられた覚えはない。私の見立てだけれど。
……でも、信頼、か。
「……そうだったら、それは、ありがたいですけど」
『そうだって。……杏さん、守弥がなにか困ってたら、あなたも手を貸してくれる?』
天遠乃さんが、真剣な顔つきで問うてくる。
それは、言われなくとも。
「はい、もちろん」
しっかりと、頷いたら。
『──ありがとう、杏さん』
おお、女神のような微笑み。やっぱり美人はすごいなぁ……。あ。
「あ」
『? どうかした?』
「あ、いえ」
ちょっと思いついた事が、口をついて出そうになった。思わず首を振ってしまったけど、まあ、これは、天遠乃さんに聞く事じゃないな。
『そう? ……それにしてもサトウって、本当になんでも出来るのよねー。食べられないのが惜しいわ』
天遠乃さんがふわふわと、空中で頬杖をつきながら言う。
そう、このタルト達、遠野さんか誰かが作ったのかと思ったら。
『これね、サトウが独自にシステムを構築して、器具をカスタムして作ったのよ』
と天遠乃さんに教えてもらった。
なんでも出来るな、サトウさん。さすがAI……と言っていいのか? AIの一言で片付けていいのか? これは。
「……この、遠野さんのお宅、お宅? 豪邸? とてもハイスペックですよね。それに、すごいお金がかかってそう」
『かかってるかかってる。守弥が遠野家を出て一人暮らしをするって時に、本家がお金かけまくったらしいから。……でも』




