3 作業中に
「? てつ?」
反応がない。怒り顔だったそれは半分口を開け、据わっていた目も大きく開く。耳はピンと立っている。そして気が、さっきとは違うふうに、妙な動きで渦を巻く。
「え? なに? どした? 私、変な事言ってないよね? 素直に気持ちを言葉にしただけなんだけ、ど……」
言い終わる前に、今度は金色が素早く動いた。正確には、飛び退いた。
え、え??
「て、てつ?」
てつは壁を背に姿勢を低くして、まるで警戒の体勢でも取っているようだった。
「てつさん、良い事があったでしょう?」
「っ、てめ、遠野……」
てつはまた牙を剥くが、なんだか据わりが悪そうで、さっきの気迫も殆んど消えている。
てか、そっか。もともとは良い事があるとかそんな話だったっけ。……これが良い事?
「では今度こそ、榊原さんは帰って大丈夫ですね? てつさん?」
その言葉に、てつの方へ顔を向ければ、ふぃ、とそっぽを向かれてしまった。それらを見て、遠野さんは一人頷く。
「はい、それでは榊原さん、再三お待たせしました。今度こそ帰って大丈夫ですよ。お休みなさい」
「あ、はい。……えーと」
少し迷う。ヘンテコな事になってるてつを置いていくのは忍びなかったが、なんだが、気、というより纏う空気感が、「もう行け」と言っているような気もして。
「はい。ありがとうございました。失礼します」
私は一礼して、休憩室から出た。
「お疲れ様ですー」
大学が終わり、いつものように支部へと入る。今日は午後一の講義で終わりだったので、支部の窓からもまだ日が差し込んでいる。
あれから、てつの事を芽衣に話そうかとか、あの反応は一体何だったんだろうとか、色々考えたけど、考えたままで特にアクションも起こさず来てしまった。
「おっつかれさまですーー!!!」
元気な声と共に背中に飛び乗ってくる重みは、華珠貴さんだ。
「お疲れ様です、華珠貴さん」
首を回して背中側を覗き込む前に、黒い猫又姿の華珠貴さんの方から私の肩へと上り、顔を覗き込んでくる。
「聞きましたよ! お会いしましたよ!! てつさん帰ってきたんですね!!!」
耳元でガンガン叫ばれるが、いつもの事なのでもう慣れている。
「あ、もう会ったんですね。はい、昨日戻ってきたみたいですよ」
「みたい? 昨日帰ってきたワケじゃないんですか?」
「私は昨日会いましたけど、昨日戻ってきたかは知らないんです。もっと前からこっちに戻ってきていた可能性もありますし。華珠貴さんは詳しく聞いてないんですか?」
聞きながら歩き出す。今日はいつもの事務作業の予定なので、目的地もいつもの、支部内の一室。
華珠貴さんはよく支部内をウロウロしているので、こういった光景も珍しくなく、何度かすれ違う職員の人達も、私の肩に乗った華珠貴さんを見ても別に驚かず、いつものように挨拶してくれる。
「聞いてません! 気付いたらそれっぽい気配がしてそっちの方へ行ってみたら、てつさんがいたんです! 「うっわー! てつさん帰ってきたんですね!」って言ったら、「あぁ」って言って遠野さんと行っちゃって」
「あぁ」の部分が、てつに似せようとしてか、声が渋くなる。
「ついてこうとしたら遠野さんに「華珠貴さん、これから重要な話をてつさんとしなければなりませんので、ここで」って置いてかれちゃったんです」
今度は遠野さんの声真似までした。
「ねー杏さん、一緒にてつさんのとこ行きません? 杏さんが一緒なら、またてつさんに会えるかも」
「んーどうですかねー。私も下っ端ですし、私も関係ある事なら事前に呼ばれる筈なんで、行ってもダメだと思いますよ?」
「えぇーーそうかなぁーーーー」
納得がいかないらしい華珠貴さんを肩に乗せたまま、目的の部屋に到着。ノックをすると、返事が聞こえた。
「失礼します、榊原です」
開けると、それなりに広い空間に何台もパソコンが置かれ、コピー機などの機器が置かれ、十人ほどの人達が忙しなく動いていた。
「おはよう榊原さん」
一番近くにいた眼鏡の女性──宮崎桜さんが声をかけてくれる。宮崎さんは、この部屋の仕事をよく振られる私の指導担当になってくれてる人で、私の事をよく気にかけてくれる。
「おはようございます宮崎さん」
「お、今日は華珠貴ちゃんも一緒なんだ。おはよう」
宮崎さんが、私の左肩にいる黒猫を見てにっこり笑った。宮崎さんは猫好きだそうで、自宅でも一匹、雑種で茶白のオス猫を飼っている。この前写真を見せてもらった。小さくて、可愛らしくて、聞けばまだ三ヶ月の子猫だそうだ。因みにその子の名前は『メル』。茶色の部分がキャラメル色に見えたそうで、そこから取ったとか。
あの時の宮崎さんの語りっぷりは凄かったなあ……。
「おはようございます! はい! 一緒です! あたし、なにかやれることありますか?!」
てつの事は諦めたのか、華珠貴さんは元気よく仕事をねだる。
「うん、それじゃあね、みんなに声をかけていってくれるかな?」
「分かりました!」
言いながらぴょんっと私の肩から降りて、別の職員さんの方へ二又の尻尾を振りながら歩いていく。
これもよくある事で、宮崎さん曰く『みんなの癒やしだからね』だそうだ。
「それじゃ、榊原さん。また昨日の続きをお願いするね。何か分からない事があったら聞いてね」
「了解です」
私は、もう半分指定席になったパソコンデスクにつき、作業を始める。異界やこっちの世界のヒト達の生活確認の年月日を入力するという、聞こえは簡単な作業だ。けど、その量は膨大なのだ。因みにそこに記載されている簡単な内容は分かるけど、詳細な中身は私は知らない。知る権限を持たないから。
しばらくディスプレイとにらめっこしながら数字やらを入力していき、一段落ついたところで伸びをした。ホントこれ、目が疲れるし肩が凝る。一日中やっている人達は凄い。
と、なにやらよく知った気配が、向こうの方からやってくるのが読み取れた。華珠貴さんも気付いたらしく、「杏さん!」と駆け寄ってくる。
「てつさん、来ましたね!」
「そうみたいですね……?」
そのやり取りを聞いていた人達がこちらへ顔を向ける。
「あ、そういや、戻ってきたって噂されてたっけ。それで、そのてつさんはこっちに向かってきてるの?」
宮崎さんの言葉に頷く。
「はい。なんでかは分からないんですけど、こっちに向かってきてる事は確かです。……もうすぐそこまで」
「そっか、分かった。榊原さんは作業続けてて。私が確認してくるから」
言うと、宮崎さんは席を立ち、部屋の外へ出ていった。作業をしつつ一連の話を聞いていた他の人達も、自分の仕事に再集中する。
「……いいのかなぁ……」
不安そうに言う華珠貴さんを足元に、私も作業を再開させる。
「てつさん、杏さんに会いに来たと思うんですけど……」
その言葉に一瞬手が止まり、足元で丸くなっている黒猫をちらりと見る。
「たぶん、会えないとか言われたら、怒るんじゃないかなぁ……」
「……怒る、んですか?」
思わず聞いてしまう。だって、てつのことだから、苛ついたとしてもそれ以上はならないように思える。
「たぶん。だって、母様も美緒も言ってました。てつさんは、杏さんにまた会うために帰ってきたんだって」
完全に手が止まった。
てつが戻ってきた理由が、私? なんだそれ??
思いもしなかった事を言われ、驚きを超えて思考が止まる。い、いや、待て、冷静になれ。ソレはあくまで鈴音さんと美緒さんの推測であって……。
私が頭を振って混乱を追いやり、作業に戻ろうとした、その時。
「榊原さん。ちょっと作業止めて、こっち来れる?」
と、開いたドアから、宮崎さんが顔を出した。
「? はい」
席を立ち部屋から出る──華珠貴さんもついて来た──と、
「本当申し訳ありません。大変な仕事中に」
文字通り申し訳無さそうな顔で軽く頭を下げる遠野さんと、
「だから大丈夫ですって。そんなに時間も取られないんでしょう?」
それに応える宮崎さん。そして、
「…………」
そっぽを向いた金色の大狼が、広い通路の半分を塞ぐ形でそこにいた。
 




