47 今更な事
「俺ぁもうなんもしねえぞ」
そう言って、牙を剥いていた煌めく狼──てつは、社から数歩離れてだらりと伏せた。
「……まあ、その方が良いかもしれませんね」
苦笑気味に言った遠野は、取り出した簡易検査機をかける。
「瑠璃鱗の磯姫様、手荒な真似をして申し訳ありません。ですがもう一度、話す機会を頂けませんか」
かけたゴーグルから、遠野は様々な数値を読み取っていく。てつの言った通り、『姫様』と『お社』の波長は重なり合う部分があった。その範囲は今も拡大している。
「そんなもん使わずとも解んだろうお前」
てつの言葉には応えず、遠野は動かない磯姫に語りかける。
「姫様。姫様を慕う彼らは、姫様が亀裂を抑え留まっているために、同じ様に留まっているのです。その方々は少しずつ淀みの影響を受けています。一言でいいですから、あの方々に語りかけて頂けませんか。この場から離れるようにと」
姫は無言で、ただひたすらに社を抱き締め続ける。しかしその黒々とした長い髪は、海流とは違う揺れ方をする。
「……十年前の、この場の惨状も僕は目にしています。あなた個人の悲劇も把握している」
その言葉に、揺蕩う髪だけでなく、社に回した腕も微かに動いた。てつも顔を上げ、そちらを向く。
「あなたがこれだけお社に心を傾けるのも、未だそれが癒えていないからと、勝手ながら推測しています」
「……ほおん?」
慎重に、言葉を選びながら話す遠野。てつは尾を揺らしながら、見定めるようにそれを眺める。
「姫様」
遠野はそのまま跪くようにして、砂と石の混じる地面に片手をつく。
「心情お察し致します……と言っても響きませんかね。ですが、どうか今は」
遠野はまっすぐに、顔を背けたままの磯姫に言葉をかける。
「周りの者達のために動いて頂けませんか」
「……言ったはずだ。私は社を護ると」
ゆっくりと、その美しい顔を上げ、『瑠璃鱗の磯姫』は遠野を見た。
「ここからは動かぬと。だからこそ、皆を頼むとも。二度も言わせるなとも、言ったはずだ」
遠野と姫の瞳がぶつかる。てつはそれを眺め、目を細める。
「より編み込んだ封も破りおって……これ以上、私の手を煩わせるようならば、それ相応の覚悟は出来ているんだろうな?」
鬼のような形相に向かい、
「では」
打って変わって、遠野は冴え冴えとした笑みを返した。
「あなたは皆を裏切ると。そういう事になりますね?磯姫様」
「っ……」
顔から怒りが消え、姫は幽かに、戸惑いを見せる。
「姫様。あなたは今、この場の皆を助ける事、この社を保つ事。その二つを命を削って行っていらっしゃる」
戸惑い、瞳が揺れる。けれど、その身体は社から離さない。
「そのせいか、視野が狭くなってはいませんか?」
遠野の問いかけに、姫は顔を伏せる。
「……」
そちらへ顔を向けたまま、てつは静かに立ち上がった。そして、二人の元へ足を進める。
「今あなたがすべきは、『今生きている者達と共に生きる事』です。まだ間に合います。ここから離れ、見守る方々と共に──」
「今更、もう今更だ」
唐突に顔を上げ、姫はそう言った。何かを慈しむように、微笑んで。
「今更なんて……──?!」
「気付いたか」
驚き目を見開いた遠野へ、側まで来たてつが呆れ声を出した。
「うまぁく隠しやがって……お前もう、半分も残ってねえだろう」
「分かるか、犬──いや、てつ、と言ったか」
呆れながらも険しい顔をしたてつへ、姫は初めて穏やかな表情を見せた。
「私はもう、決めたのだ。いや、知らず決めていたのだろう。あの時から」
「いえ、何故……急速に、同化を……?」
珍しく動揺しているらしい遠野へ、てつは姫から顔を背けずに答えた。
「隠してたっつったろう……俺の見立てが甘かった。もう『姫』じゃあ無く『社』に近い」
そして唸るように、嘲るように、その黒く深い瞳へ問いかける。
「わざわざそれを曝しやがったのは、さんざ苛つかせた俺達への当て付けか?周りの奴らへの選別か何かだってのか?」
「そんなものでは無いよ」
微笑みを湛えた姫の身体は、ぴくりとも動かない。動かせない。姫の身体のその内側は、もう社と『化して』いた。
「頭が冷えたのだよ。私は社に力を注いでいる。皆への呼びかけすら、もう出来ぬ」
同化を読み取り理解した遠野は、溜め息を一つ。
「皆もじきに気付くだろう。私の選択と行く末に。そうなれば自ずと、皆ここから離れるだろうよ」
「だとよ……さて、どうする?」
視線を遠野へ向け、てつは問う。
「……それならそれで」
遠野は目を細め、笑顔を作り。
「やりようはありますよ」
地についていた手に、力を込めた。
だめだ、やっぱりなんか気持ち悪い……。
「……あ、ごめんなさい」
少しふらついて、長い腕だけのひと達……いや、それで一個体?にぶつかりそうになった。
沢山の手はお社へ向いたり、近く同士で不安そうに握り合ったり。そして私の作業着を、色々な方向から引っ張ってくる。
腕だけの姿は、少し、前のてつを思い出させた。
「姫様が心配なんですよね?なら姫様を安心させるために、ここから離れませんか?」
なんなんだろう。この社から来る、煽られるような感覚は。頭を働かせないと、ちゃんと説得が出来ないのに。
〈────〉
このひと達は、言葉を発しないのか発せないのか。身振り手振りの意思表示を、なんとか推測する。
「……心配、すぎて離れたくない、と。でも、ただここでこうしてるのも、辛いのではないですか?」
多分、今少し、てつからの力を使ってる。あの腕と手の動きから意志を読もうとして、無意識に頼ってしまった。
「そうですよね……ずっとお側にいたいですよね……」
稲生さんと織部さんとは、少し離れてそれぞれで説得に当たってる。
でも、この変な感じは、きちんと伝えた方が良い……んだろうけど……。
「その気持ち、とても分かります。でもほら、姫様もまたお顔を上げたじゃありませんか」
言って、社の方を示しながら、私もそっちを見る。
瞬間、視えない何かが一気に押し寄せて来た。
「っ?!」
思わず膝をつく。ほんと、何……?姫様じゃない。いや、姫様も混じってる、けど、これは──
「あの兄弟の、時と似て……?」
一命は取り留めた、鎌鼬の兄弟。あの兄から流れてきた叫びと、似てる……ような。
「……え?あれ、少し楽に……」
急に身体が軽くなった気がした。それと同時に輝く鋭い爪が、下を向いた視界に入ってくる。
「おい」
「……あ、てつ……」
顔を上げると、目の前には顔をしかめた狼。
「お前……もう戻れ。完全に中てられてる」
「いや、これは……それとは違う、気がするんだけど……」
戻るのは前向きに検討したい。けど、『中てられてる』感覚とは違う。
「……今、遠野の野郎が封を施した。だから少し楽んなったろう」
「……あ……なるほど……」
それで、流れ込んでくるものが抑えられてるんだ。
「楽なうちに戻れ。なんなら俺が戻す」
「……えっ」
てつは一瞬で人型になって
「やめ、ちょっ担ぐのはやめて!あと稲生さん達に説明しないと!」
勝手な行動は混乱を招く。てつも本当は、遠野さんの所にいなきゃなのに。
「ああ゛?」
「戻るのは!賛成です!これじゃ足手まといだし、一旦休憩して元気になればまたこっちに──」
その時、くいっと足を引かれた。
「え?あ」
「ああん?なんだお前ら」
私の足と、手と、てつの身体にも、自身を伸ばす腕のひと達。
「はあ?あれは一時のもんだ。……なんだ?それともまた、その禍とやらを起こしてえのか?あ?」
てつの言葉とその圧に、全ての腕が波が引くように離れていく。
「ああ!」
少し話が出来てたのに!
「なんで脅すみたいな……もっと優しく……」
「この方が早い」
だからってやり方……。
「あー、お二人さん?何かあったのかな?」
その時、後ろから声がした。
「稲生さん!」
担がれたまま、身体を捩って振り返る。すぐ後ろで、てつにとっては目の前で、稲生さんは困ったような顔をしていた。
「社も動きがあったようだけど。何か問題発生かな?」
「いえ、すみません。ちょっとした事で」
織部さんも、こっちの様子に気付いたみたいだ。周りのひと達と話をしながら、ちらちらと顔を向けてくる。
「杏を戻す。今のこの場の気と合わねえ。使いモンにならねえぞ」
言い方。
「榊原さん、調子が悪かったの?……もしかして、あの時から?」
稲生さんの言うあの時とは、何かあったと聞かれた時の事だろう。
「う……はい……その時はまだそんなでも無かったんですけど……」
担がれてるおかげで、余計に示しがつかない。色々な意味でうなだれる。
「そうだったのか。なら私と一度「俺が戻す」」
稲生さんの言葉を遮りながら、てつは私を揺すって担ぎ直した。
「……けれど、君がここから離れるのは……」
稲生さんは考え込むように言って、社へ目を向ける。つられて私もそちらを向く。
青白い半透明の、カクカクした半球。それに覆われたお社と姫様。その外側でしゃがみ込み、こっちを見ている遠野さんが見えた。
「いや、てつ。遠野さんを待たせちゃってる」
あれが『封』か。そこから動かない遠野さんは、どう見てもてつが戻るのを待っている。
「待たせときゃあいい。今も後も変わりゃあしねえ」
「いや駄目でしょ。私ならほら、稲生さんと行くとか、今なら一人で戻るのだって」
まだ少し何かが響いてくるけど。身体はだいぶ楽になっている。
「一人で行かせるのは、何かあったら怖いからねえ。私と行くのが無難だと思うけど」
「俺が戻すっつってんだろうが」
てつの言葉に、稲生さんはいよいよ困った顔をした。
「けれど、てつさんは遠野と一緒に──」
「ごちゃごちゃうるせえんだよ」
「てつ!」
また遮った!
「お前らの思惑だか企てだが知らねえが、こっちが馬鹿みてえに踊らされてるとでも思ってんのか?」
そんな事を言い、稲生さんを睨め付けるようにしながら顔を近づける。目を丸くする稲生さんへ、てつは嗤うように牙を剥いた。




