39 襲来する黒
「は、うみ?……の、なか?」
スマホの文面に思わず声を上げ、慌てて口を閉じる。幸い通路には私とてつ以外おらず、響いた声もすぐ周りに吸収された。
支部での仕事中、お約束のように別行動中の遠野さんから連絡が来た。来たのは良い。それに、やっと朝それとなく鎌鼬の兄弟の事を聞けて、彼らが無事だと知れた。少し、ほっとした。
「うみ……てあれか、広大で辛い水の『海』か?」
横にいる狼のてつが、首を傾げながらこちらを見る。
「え、あ、うん……その海……」
スマホをしまって、止まっていた足を動かす。歩きながら、さっき読んだ内容をてつに伝える。
「遠野さんからだったんだけど……次の現地調査、海に行くんだって」
その他諸々の連絡もあったけど、まずは最重要と思えるそれを口にした。
「ほおん?」
「前に二、三日連続で出られる日を聞かれたじゃない?そこで行くんだって」
私とてつは今、資料室に向かってる。遠野さんのいない日は事務仕事。このパターンももうお決まり、らしい。
「で、それの何にそんな驚く」
てつは顔の向きを戻し、私と同じ歩調で進む。
「いやなんとなく、陸の仕事しか頭に無かったというか」
今まで、海とか水関連の事には触れていなかったもんで。
「それに『海のある所』じゃなくて『海中』って……海の中だっていうもんだから、二重に面食らったというか」
海開きまでまだ、一ヶ月くらいある。というか梅雨になってすらいない。そんな時期に、海の中とは。
「海中って事は潜んのか?」
「さあ……詳しいのはまた別に送るって……」
潜るとしたら、スキューバダイビング的な?想像がつかなくて、てつの言葉に首を捻る。
「あ、それと他にもいくつか──」
連絡が、と続けようとして、
「あ!いた!」
後ろからの大きな声と駆けてくる足音に、言葉を引っ込めた。
振り向くと、元気良く走ってくる少女が一人。一瞬で距離を詰められ、
「てつさん杏さんお疲れさまですてつさん手合わせをお願いできませんか!」
一息にそう言って、その少女──華珠貴はてつに向かってダイブした。長くふわふわした黒髪が眼前に広がる。
「面倒くせえから断る」
てつはそれをひらりと躱す。華珠貴は身体を捻ってジャンプして、またてつに飛びつこうとした。
「そこをなんとか!」
髪と共に同じ色の、二股の尻尾がしなやかに揺れる。猫耳と目は完全にてつを捉えて、猫が玩具で遊ぶ動画を思い出した。
「てつさんが!良いんです!」
「意味が分からん」
一瞬で人型になったてつは、迫る華珠貴をひょいと捕まえ、溜め息を吐いた。
「私、やっぱり強くなりたいんです!」
襟首を掴まれ足が浮いたまま、華珠貴は力強く言葉を発する。
「強さでいえばてつさんが一番ですし!母様のお墨付きですし!」
華珠貴は勢いをつけて身体を捻り、自分を掴んでいるてつの腕に飛び付く。足まで使ってぶら下がるように巻き付いて……ショートパンツじゃなかったら大惨事の格好だよ。
「なので!手合わせを!」
そしてお願いをしてるとは思えないほど、輝く笑顔をてつに向ける。
「…………はぁ……」
なんだかもう、相手にするのも疲れたようで。てつは華珠貴がくっついた腕を軽く振り、私を見た。
「えーと……ちょっと今仕事中でして、そういう時間は取れそうにないですね……」
言外に『なんとかしてくれ』と語る顔だったので、華珠貴にそう言ってみる。
「今すぐじゃなくて良いんです!どこかお時間貰えませんか?!」
「うーん……」
引くどころかぐいぐい来るなぁ。
「鈴音とやってりゃいいだろう」
「母様には何度も相手になってもらってるんです!他のみんなにも!猫系みたいじゃなく、全然違う力の方とやりたいんです!」
「それならTSTIの、他の方には声はかけたんですか?」
TSTIには人は勿論、そうじゃない方々も結構いる。私はあまり、関わった事はないけれど。
ぶら下がり状態から登り始め、てつの肩まで来た華珠貴は、またハキハキと答える。
「皆さん戦闘向きじゃないとか力が弱いとか断られまして!でもそもそも、てつさんが一番強いですし、てつさんにお願い出来れば問題ありません!」
「ああ……」
それは、逃げられたという事では?
「杏が言ったみてえに、こっちもそんな暇はねえ」
「またお仕事のお手伝いとか、その合間とか!」
「次は外なんですよ。しかも海だし、華珠貴さん泳げないって聞きましたけ、ど……」
やばい、答え方を間違えてしまったようだ。華珠貴の瞳孔が、一瞬にして猫目の縦長になる。その瞳を見開き、叫ぶように声を出した。
「うみ?!!」
てつの肩から私に向かって、華珠貴は勢い良く、頭というか身体全体を突き出す。
てつは、よりうんざりした顔になって。でも華珠貴が落ちないように、自身も身体を傾けバランスを取った。
「海に行くんですか?!一回行ってみたかったんです!」
いや近い近い顔が近い。
「いえそれはそれとして──」
「あっ泳ぎは美緒から聞いたんですね!ちょっと悔しかったのであの後すぐますたあしました!もう平気です!」
「そうだったんですか。……いや、いえ、だから仕事なので」
危ない、なんだか勢いで流されそうだった。『仕事』を念押しされた華珠貴は、てつの方へ身体を戻し、腕を組んだ。今、足と尻尾だけでてつに掴まっている。
「……あ!」
そして数秒もせず、表情が明るくなった。
「また聞いてきます!支部長さんに!そしたら大丈夫ですよね!」
「えっ」
それって直談判を、また?すると?
「お前なあ……」
「ありがとうございました!お仕事中失礼しました!」
てつからぴょんと飛び降りる。そして走りながら黒い猫又になって、華珠貴は去ってしまった。……まるで嵐のようだったな……。
て、何の「ありがとうございました!」?
「えっ私、後で何か言われるかなあれ」
今の一連の話とか。直談判とか。
「知るか。そもそも、それが通ろうが通るまいが、判断は支部長とやらと鈴音がすんだろう。お前の責は問われねえ」
てつは肩を回し腕を振り、ストレッチのような動きをしてから歩き出した。
「ほれ行くぞ」
「あ、うん」
改めて資料室へ向かう。少なくない時間ロス。私は小走りに、てつは大股で通路を進んだ。
「……」
隣を歩きながら、人型のままのてつを見上げる。そしてちょっと迷ってから口を開く。
「本当に聞くと思う?今の」
「聞くだろ」
「一緒になると思う?」
「行動力はあるからな、あれは」
まだ少しぐったりした表情で、てつは言う。
「あれ?そういえば手合わせの──」
「やめろ。こっちが思い出したらあっちまでつられて思い出すだろ」
「え」
そういうもん?なの?
 




