35.5 杏達が歪みに迷い込んだ後
「あんなん無理だよ、死んじまう」
薄暗い空間に、控え目な呟きが意図せず大きく響いた。
「っ!……」
声の主はびくりと動きを止め、辺りを窺う。
「…………」
耳を立て、気を張り、周りに自分しかいない事を確認すると、またゆっくりと歩き出した。広い回廊の端に沿って、なるべく空間に溶け込むように。
「……ハァ」
壁の灯りが、磨き抜かれた床と黄色の毛並みを、ゆらゆらと照らす。
そのまま無言で歩みを進め、比較的小さくそれでいて装飾の多い扉の前に着くと
「んっんっ」
面を付けた人間に化け、入室の伺いをたてた。
「……入って」
「失礼致します」
室内には四人。どうやら盤上遊戯をしているようで、皆入室者には一瞥もくれない。
「“材”集めの報告に参りました……が、改めた方が宜しいでしょうか……」
「いい、早く」
一番奥に座る、黒い着物に艶やかな黒髪の童女が呟くように言った。
「量はそれなりに集まって参りました。彼方の者も多くおりますので、前より質の高いものが出来ましょう」
姿勢を正し身振りは控え、こちらを見ない四人へ『報告』をする。
「信奉者も増えて参りましたので、必要量へ達するのも「あれは?」」
黒髪の童女と対面に座る少年が、ぐるりと話し手に振り返った。
「あれ。あーなんてったっけ。微塵になった繋ぎの」
背もたれに腕を置き、黒の混じる短めの白髪を揺らしてどこか愉しげに問う。
「あれ、は」
「どれだけ集まった?本体とか、もう九割いった?」
「……破片を五割ほどです」
「はあ?!」
少年の右から高い声が上がった。
「あんた、どれだけ時間かけてんの?!逃げられたせいで計画は遅れてんのよ?本当なら今頃みんなぐっちゃぐちゃの筈なのに!」
勢い良く顔を上げたために、深い赤の髪が舞う。大きく振った腕に引かれ、長い袖が床を擦った。
「申し訳ありません。破片は近寄ると中てられますし、彼方の者共も集めているようで……。気は窺っておりますが、本体も警戒を解きませんで」
「そんな言い訳!」
「ま、落ち着け麗燿。逃げたのはおまえの責任もあるだろ?」
白髪の少年に言われ、麗燿と呼ばれた少女は押し黙る。
「なぁこま、本体はどんだけ戻った?」
「……二割程かと。彼方の人間との繋がりのためか、姿や力はそれ以上になっているかも知れません」
今日逃した分を取り込まれてたら、もっと……。その言葉は、舌に乗る前に飲み込んだ。
「……あれが無いと、取っといた人間を混ぜても面白くないよ」
麗燿の対面の、蒼い髪を一つに括った頭が、ぽつりとこぼした。
「こま、今日がんばった?どれだけ命を削った?」
「……っ」
こちらを向いた縦長の瞳孔に気圧され、化けて出来た肩が少し震えた。
「なに?さぼってた訳?」
「いえっそんな事は!」
こまは素早く首を横に振る。
「破片の回収に走り回っておりました!先刻も、破片が起こした歪みに──」
言いかけ、動きを止める。八つの瞳が面の奥を射抜くように、こまを見つめていた。
「歪みに?」
白髪の少年が、愉快そうに繰り返す。笑んだ口の間から、鋭い牙が見えた。
「……、……歪みに、入りましたが、とても……耐え切れるもので無く……閉じきる前に脱け出ました……」
「あっはっ!」
白髪の少年は腹を抱えて笑い出す。
「はあ?何それ、命削って無いじゃないの」
「ですが、材はいくらか持ち帰りました!あの場に中てられたものならば、より質の高いものになります!」
こまの掠れた言葉に、笑い声は一層大きくなった。
「鏤皎尤、少し黙って」
奥に座る黒髪の童女が、こまを見つめたままで静かに言う。
「悪い、いや、面白くてさ」
笑いすぎたか、白髪の少年──鏤皎尤は、軽く咳き込みながら姿勢を戻した。
「こま」
黒髪の童女の瞳は、幽かに眇められているように見えた。
「戻って、取ってこれる?」
「……ぃえ、彼方の者が辺りを囲っておりました。そのまま、あの者達の手に……」
「そう」
その視線は、面の奥まで貫くようで。
「頑張れば頑張るほど、未来は明るい。頑張らなければ、暗いまま」
詠うように、高く幼い声が響く。風など無いのに、揃えられた黒髪が揺らめく。
「分かってる?」
「……っ……も、勿論です……っ」
「なら、頑張って」
言って、童女は盤面に視線を戻した。重く、刺さるようだった空気が、一瞬後に解ける。
「……ぁ……?」
「いつまでいんの。俺らとコレやりたいの?」
鏤皎尤の声に我に返る。もう四人共、こまを見ていなかった。
「っいえ!あ、いや…………失礼、しました」
まごつきながら退出し、逃げるようにぎらついた扉から遠ざかる。
音を立てずに回廊を駆けて。そうして、己の息遣いだけが聞こえる場に来ると、
「……っ…………ハァッ……」
狐に戻り、こまは吐き捨てるように言った。
「どっちにしろ死んじまうよ……!」




