16 もふもふ
森の中を駆け抜ける。
結局こうなんだからよお、始めっから何もしなきゃあ良いのによ。莫迦なやつだ。
俺の足音、風の流れ、小せえ奴らは巣に隠れているな。……ああ、追いついた。
「ひっ……ひぇぁあ……」
こちらに気付いた目は、もう、怯えの色しか映していない。腰も抜かしたから、狙いを定めるまでもねえな。
駆けた勢いのまま、ただでかいだけの図体に飛びつく。
「うわあああ!!」
情けねえなあ、爪立てたくらいで。
喰われる覚悟くらい持っとけってんだ。
「……らさん、榊原さん!」
「……う、……」
声が聞こえる。呼ばれている気がする。
だが、俺の名はそんなんだったろうか。
瞼の奥がどうにも眩しくて、このまま寝ている気にもならねえ。
「ん……?」
「!」
目を開けると、眼前に人の顔。若え、のに白髪たあ何かの呪いか?……どうでもいいか。
「……で、誰だお前」
「?!」
白髪野郎の顔が歪んだ。……ああ、聞く前にまず名乗れってか?
「面倒くせえ……俺は、……俺の名…………あれ?」
今、私、何?
「遠野さん、今私、物凄く変な事言ってました?」
「……言ってましたね」
盛大にため息を吐かれた。え、そんなに?
なんだろう、寝ぼけてたのかさっきまでの記憶が曖昧だ。そういえば、私は何で寝てたんだっけ……。
「……華珠貴さん! 遠野さん、華珠貴さんは?! どうなりました?!」
色々思い出した。跳ねるように起き上がる。
「無事です。今、海江田さんがバイタルチェックを行っています、あそこで」
遠野さんが顔を向けた先に視線を持って行く。鎧戸も障子も開かれた部屋の前で、鈴音さんに抱かれた黒い長毛種の猫を、眼鏡を掛けた海江田さんが診ていた。周りに沢山猫達が集まって、猫だかりが出来ている。
「……あれ、海江田さんって眼鏡掛けてましたっけ……?」
「あれは簡易検査用のゴーグルです。支部で榊原さん達にしたような検査を診るだけで行えます。……それと、今更ですがこれをどうぞ。僕の物ですみませんが」
「はい?」
横に落ちていた黒のジャケットを、軽く叩いて渡される。そういえば、跳ね起きた時になんかバサッと音がしたな。これか。
「でもなん、…………! ……ありがとうございます……」
私は、寝間着替わりのリアルな鯨のプリントがされたシャツとハーフパンツ、という格好だ。
寝ていた所を起こされてここに連れてこられたんだから、当然と言えば当然だけど……突然に色々あって完全に頭から抜け落ちていた。この姿は人に見せるもんじゃない。
「……一時はどうなるかと思いましたが、まあ一応全員無事なので……そこだけは良かったです」
気まずい空気を変えるように、遠野さんは話し出した。
私とてつが飲み込まれた後、遠野さんの力もあって華珠貴さんは倒れた。その時の取り乱した鈴音さんを抑えるのにはだいぶ手間取ったらしい。
少しして、華珠貴さんの身体は縮み始めた。そして大人一人分くらいの大きさになった所で、溶け出すように私と今の大きさの黒猫に分離したそうな。
「榊原さんのバイタルチェックも同じ様に行いました。生命エネルギーの融合率が跳ね上がっている以外は、今の所問題はありません」
なんとも言えない顔で遠野さんが言う。
一番の問題がどんどん手をつけられなくなっている、という事は理解した。
「……てつさんはどうしていますか? てつさん自身の確認もしたいのですが」
あれ、そういえばどうしたんだろう。飲み込まれるまでは頭に乗っていたのに。
「ちょっと呼んでみま…………う」
「どうしました?」
胃の辺りから喉へ来る異物感。これは。
「うぉえっ?」
「えっ」
遠野さんが驚く。私も驚く。多分二人とも、二重の意味で。
私は右手ではなく、右腕を吐き出した。
「よう」
「……まず、出る前に一言欲しい。驚く」
「……そこですか」
だって、急に吐き気が来るのは怖いし。
「てつさん、その姿は……華珠貴さんから自身を取り戻したからですか?」
手首まで、から二の腕の途中までになったてつに、遠野さんは神妙な顔で聞く。
「ああ、そうだな。今までで一番気持ちが晴れてる感じだ」
てつがそう言って手を握り込むと、その腕が変化した。
「はっ? 何それ?」
艶のあるもふもふした毛が一気に全体に生える。金と銀とが入り混じったような色が、手の甲と腕の外側。手のひらと腕の、身体のにつく側の毛は白い。
それに加え、開いた手の爪はとても鋭くなっていた。
「俺は、元はこんな感じだったんだよ」
「……では、榊原さんが起きた時の意識の混濁……のようものは、何か心当たりは?」
遠野さんはいつの間にか、さっきの海江田さんと同じ眼鏡、みたいな検査用ゴーグルを掛けていた。
「一気に俺を取り込んだから、その流れに記憶やらが押されたんだろうな。だから、消えるかも知れねえっつったんだ」
「そういう意味だったの、あれ」
私が私じゃなくなるみたいな? そういう事?
「……榊原さんとてつさんを繋ぐものが消えているように見えますが、それについては」
「……あれ? ほんとだ」
毛むくじゃらになった事に気を取られて、気付かなかった。私の口からも、てつの二の腕の先からも、前にあった紐みたいのが出ていない。二の腕の切り口に当たる所は、地続きのように毛で覆われていた。
「それは知らねえ」
あっさり言うなあ。
遠野さんは何か言いかけ、口を閉じた。ゴーグルを外し、再度口を開く。
「……ひとまず支部に行きましょう。ここの方々も、保護や、より的確な治療が必要です」
華珠貴さんのチェックが終わると、早々に支部へ移動した。
鈴音さんの事が気掛かりだったが、私が気絶している間に説明や説得をしたそうで、もう私達に対する敵意は無くなったらしい。しかも鈴音さんの力で、異界と彼方──こちらの世界は異界でそう呼ばれているらしい──の狭間にあるこの場所から、支部へと繋いでくれた。
「それにしても、こんなに頻繁に来る人も珍しいね。君達も大変だねえ」
私とてつは、鈴音さん達とは別に、またおじいさん医師の診察を受けていた。因みに、おじいさん先生は岩尾豪坐という名前だそう。もう何回も会っているのに、初めてちゃんと名前を聞けた。
「いえ、もうなんか……岩尾先生こそ、こんな時間まで」
結局今は、午前五時。もうそんな時間かと思えばいいのか、あれから三時間しか経っていないと驚けばいいのか。
「いやーでも、こんな体験あんまり出来ないからねえ!……その毛を少し貰うっていうのは」
「くどい、五度目だぞ。俺はそんな事しねえしさせねえって言ってんだろうが」
てつは、私の首に巻き付くというか、ある意味肩を組んでいるというか……何とも言い難い体勢になっている。もふもふしてるから気持ち良いんだけど、肩が凝りそうなのがちょっと気になる。
検査と診察の結果は『“榊原杏”の生命エネルギーが、以前にまして“てつ”に近付いた』というものだった。具体的に言えば、一割ほどの“私”が“てつ”に成りかけている、らしい。
見た目はあまり変わって無いので、私自身の危機感があまりない、と言ったら
「多分それも馴染んできた傾向によるものだね。ほら、この前の時は君『怖い』と明確に言葉にしたでしょ。その意識が薄れているという事は、榊原くんがてつくんの意識に寄っているから、とも考えられるんだよ」
今までにも、無意識下でその兆候が見られていたかも知れない。
岩尾先生に言われ、そういえば色々当てはまりそうな事柄もあるな、と記憶をたどる。
勘が鋭くなったり、なんとなくだが気配みたいなものが読めるようになっている、気がする。てつの『乗っ取り』から自分で逃れて逆にそれを利用していた事もある。これは後になって、そうだと気付いたものだけれど。それに、恐ろしさが薄れたのも慣れでなく、その影響と言われた。
それで、それまでの私はこういう類のものは苦手だったと思い出した。ホラーの類やお化けなどの怖いもの、気持ち悪いもの、意味不明なもの……。てつと初めて会った、というか遭遇した時も、大仰に悲鳴を上げ、現実逃避し、その後何か気絶もした、気もする。
今回も前までの私なら、猫が喋った時点で脳の働きを止めるだろうし、鈴音さんの攻撃の時だってあんな俊敏に動けないし、怪我を負った猫達の光景に吐いていたかも知れない。あれは、結構地獄絵図だったのだ。今にして思えば。
ここまで考えを巡らせて、背筋が寒くなった。…………私、変わってる。
「てつ……私、どうなるんだろう……」
いや、てつに聞いてどうするんだ。これもその影響か?
「俺にとっても、このまま杏がこうなんのはいい気はしねえんだよなあ……」
お互いに行きたくない方向へ進んでいるとは、どうしたら良いものか。
「それなんだけどね、今回てつくんを取り込んだ事でこうなったのは確定的でしょ。取り込むのを一旦止めておけば、急速な進行は抑えられるんじゃないかと思うんだよね」
「でも、それじゃあてつの記憶が……」
「それもあるけど、こちらとしては第一に榊原くんの事を考えていくスタンスだからね」
そう言われて、思わず口を噤む。
岩尾先生はてつを見て、話を続ける。
「てつくんもどうだろう? てつくんや、それに関する情報はどんどん集めていくよ。それは変わらない。けどそれらを、特にてつくん自身を取り込むのをちょっと待っていて欲しい。てつくんも、今の状態が本位でないという事なら────」
「ああ、良いぜ。俺に戻りてえのは確かだが、こいつに、変になって貰いたくはねえ」
随分、あっさりと。岩尾先生も驚いたのか、目を瞬いた。
「……そうか、分かった。榊原くんも、それで良いかい?」
「あ……はい」
そうして、今後の注意点なんかを言われて私達の診察は終了した。
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