イリマ・アムラル
アムラル王家は代々ラサ王国を統治してきた、古い家系だ。
大陸諸国家には珍しく、王位継承の優先権は女性にあった。先代のフィルマ女王逝去後は空位となっているが、やがて一人娘のイリマ姫が即位し、伝統に従って亡き母の跡を継ぐ予定となっている。
ゆえに少女――イリマ・アムラルの静かな叱責には、ブレボを縮み上がらせるのに充分な効果があった。
「手合わせしたいなら、衛士隊の中ですべきよ、ブレボ」
「はぁ……ですが、他流との試合はしたことがありませんで、つい……」
「試したくなった? あなたの気性は理解していますが、わたしが眠り込んだ隙にこっそりなんて、まるで火事場泥棒のような真似はおやめなさい。筆頭がそれでは、隊内にも示しがつかないでしょう」
「は、はい。申し訳ございません」
畏まっているブレボは無傷だったが、ガウリは満身創痍の有様であった。
刃のない木剣とは言え、受け損ねれば骨折することも珍しくない。重傷は免れたが、あちこち打たれて小傷と青あざだらけになっており、典医の手当てを受けていた。
だが、ガウリは傷の痛みなどまったく気にならなかった。
想像した通り、漆黒の瞳を持つ、小さな姫君。
ほっそりした身体から溢れる強い活力、生き生きとした瞳の煌きにガウリの心は奪われていた。
イリマには彼にはないものがあった。
自信。
あるいは確信とも呼ばれる、なにかが。
典医が下がると、イリマは席を立ってガウリの前に立った。
「改めて臣下の非礼をお詫びします、ガウリ・アング」
ガウリは慌てて首を振った。
ブレボに聞いた話では、河原で倒れていたガウリを発見したのは、領地視察に出た姫君の一行だった。
そしてイリマは即座に治療を命じただけでなく、彼を王家の客人として迎えることにしたのである。
恩人に頭を下げられては、かえっていたたまれない。
彼の心情を察したらしく、イリマもそれ以上深追いはせず、口調を改めてごく普通の少女のようににこやかに話しかけてきた。最初こそガウリは敬語で応じていたが、彼女につられて普段の言葉遣いになっていた。
なにより、イリマ自身が強くそれを望んだのである。
「アムラル家は権威より技能によって成り立ってきた家柄だから、格式ばるのはわたしも苦手なの。王宮には同じ年頃の子供が全然いないしね」
イリマがガウリの手を軽く取ると、壁際に下がっていたブレボが目を見開いた。
口に出してはなにも言わなかったが、イリマがそう見せているほどには、王家の権威は軽くはないらしい。
しかしながら、ガウリにとっては彼女の地位よりも、細くてひんやりした指先で触れられていることの方が重大事なのだった。
「だから、しばらく王宮に滞在してくれると嬉しいけど、どうかしら?」
「あ、う、うん! えっと――そ、その髪飾り、綺麗だね! なんていう宝石?」
突然の問いだった。口調も少しばかり性急だ。
舞い上がってしまっている自分を意識し、ガウリは落ち着こうと必死になった。
「これ? 緑紅石よ。ほら、光の具合で色が変わるでしょ?」
イリマが小首を傾げて見せると、宝石の色が緑から赤に変化した。
「ラサは市場に出回る緑紅石の大部分を産出しているのよ。小さなこの国が豊かなのは、この宝石のお陰なの」
彼の手を握ったまま、イリマは話題を変えた。
「でも、ガウリは頑丈ね。まさかあんなに遠くから流されてきたとは思わなかったわ」
「そうなの?」
ガウリはきょとんとした。
ラサ周辺の地理に疎いので、そう言われても距離を実感できない。
「ベルン・チーズの村は有名だもの。でも場所は国境の向こう、中央山脈のずっと上の辺りなのよ。あそこから流されてきて溺れもせず、怪我は打ち身が少々なんて! さすがね」
イリマはしきりに感心している。
しかし、それは殆どが幸運と生まれつきによるものだ。別に自分の手柄ではないのに、とガウリは思った。
考えてみればブレボが熱心にガウリと手合わせしたがったのも、不思議ではある。
実際その通りであったように、常識的に考えてガウリのような子供が成熟した戦士と剣技を競える筈がない。その割りにブレボは繰り返し手合わせを挑んできた。
まるで、彼が隠しているものを探るように。
――まさか、知って――
どくん。
動揺する心臓をガウリは理性で押さえつけた。
あの声は彼にしか聞こえないのだ。イリマ達が知っているはずがない。
大体、もしそうなら王宮に連れてきたりはしないだろう。
危険な怪物をわざわざ我が家に招きたいと思う人間がいるだろうか?
むしろ彼女達はガウリを高く評価しているらしい。
そう、戸惑うほどに高く。
「さすがってなにが? 僕はなにもしてないけど……」
「だって、ほら」
イリマはガウリの上着の袖を軽くめくった。
手首をぐるりと取り囲む、奇妙な紋様が露出する。
それは肩口まで続く刺青であった。服に隠されて見えないが、彼の胴や足にも同様の紋様が施されていた。
複雑な刺青の中にある円状の紋章に、イリマは指先をあてた。
「これ、ヤーク・ギルドの紋章でしょう?」彼女は少々浮き立った様子で「わたし、神薙ぎ衆に会うのは初めてなの」と続けた。
『神薙ぎ衆』とは神堕ろしの執行者につけられた俗称だ。
語源は悪鬼の力もて厄神を斬ると言われた黒き刃――『カミナギノツルギ』である。
ちなみにこの剣の実在は確認されていない。
神々の威光が現在よりも遥かに強かった時代に、一方的に罰を与えられるだけだった人間達が生み出した伝説だろうと考えられている。
一口に神堕ろしと言っても、家神や村程度の規模で祭られる地祭神から、国単位で信仰の対象となる国家神まで、堕ろす相手は様々だ。
国家神はおおむね強力な神が多く、これを堕ろすのは一大難事である。
下手すれば、祟りなすだけの厄神を生みかねないから、どこのギルドでもやれるわけではない。
時には交渉し、時には力に訴える。
硬軟織り交ぜた対応で堅実な神堕ろしを行なう神薙ぎ衆の集団として、ヤーク・ギルドは何カ国にも跨るコネを持ち、高い名声を博しているのだった。
――つまり連中が見てるのは、お前なんかじゃない。
声に反論する気さえしない。それは、それが事実だったから。
彼がヤーク・ギルドの人間だったから、客人として迎えられた。
ブレボの興味も、イリマの好意も単にそういうことだったのだ。
追い討ちをかけるように、また怪物の嘲笑が聞こえた気がした。
恥ずかしさで頬が紅潮し、ガウリは顔を伏せた。
なにも不思議はなかった。
そうでなければ、役立たずの自分に手を差し伸べる相手がいるはずがないじゃないか――
「ガウリ?」
「僕は――まだ見習いで……落ちこぼれだから」
心配そうなイリマの呼びかけにも、ガウリはそう返すのが精一杯だった。
狭く長い階段を降りると、半球状の空洞が広がっていた。
イリマが持つ燭台の明かりは弱々しかったが、どうやらこの空洞の壁面は光苔に覆われているらしく、周囲はぼんやりした燐光に照らされていた。
王宮の地下にこのような場所があるとは、驚きであった。
床は浅い水に覆われた池になっている。階段の降り口は水面より少し高い位置にあり、そこから一本道が続いていた。通路の幅は階段と同程度しかなく、先には円形の広場がある。
広場の中心には奇妙な塔のようなものが立っていた。
「ここは……祭壇……?」
宗教施設には共通の厳かな雰囲気がある。神の気配、と言ってもいい。
自然とガウリの声は低くなっていた。
「そう。先にこの地下祭壇があって、後からその上に王宮が建てられたのよ」
先導するイリマの靴音が小さく谺する。
「もともとアムラル家は、王というよりは祭主としての役割が大きかったの。コモリガミ様を祭る巫覡としてね」
「コモリガミ様?」
「古い神様。ラサの癒し神よ」
広場に着くと、塔に思えたのは枯れた古木であることがわかった。
かつては枝葉を生い茂らせていたようだが、すっかり風化して枝の殆どは枯れ落ちている。幹自体もヒビ割れており、先端は槍のように尖っていた。
「ラサは鉱山で成り立つ国よ。その分、坑道の落盤で命を落としたり、大怪我をしたりする人が沢山いた。コモリガミ様は医療に優れた神様なの。神はこの祭壇で巫女に依り憑き、その身を借りて力を振るい、大勢の民を治癒したそうよ。お陰で大陸中に黒死病が大流行した時も、ラサの民は被害を免れた。歴代の巫女達自身も様々な呪力を持っていたそうよ」
幹にそっと掌をあて、イリマは囁いた。
「だけど、それも昔の話。ここにコモリガミ様が御座したのは母の代までよ。ラサは神堕ろしをして、国教を変えたから」
そう言いながら、彼女は首にかけた鎖を服から引っ張り出した。
鎖の先端についた銀細工の小さなスタークロスは、ある宗教のシンボルだった。
大教会。
この宗教は、唯一神信仰を唱えているのが特徴だった。他の神を一切認めないのだ。
では大陸に大勢いる神々はなんなのだ、との問いかけには、自分達の神だけが本物で後は偽者――偽神や悪魔、良くても唯一神の御使いなのだ、と主張している。
この唯一神は『いる』とされているが、実際に見た者はいない。
また、信仰による恩恵は『死後神の楽園に招かれる』ことのみだ。生きている間はごく稀にしか恩恵を与えず(あまりに稀なので奇跡と呼ばれる)、信者が生前に恩恵を求めることを厳しく戒めている。
「じゃあ、神堕ろしは大教会が?」
「ええ、派遣されてきた司祭様と母が行ったそうよ。わたしがまだ赤ん坊の頃に」
良くある話だった。
賛否両論あるものの、大教会の教義は権力者には利用しやすい点が多い。一方で神は人間の事情になど頓着しない。持ちつ持たれつの関係は人間同士の方がやりやすいのだ。
当然大教会に反発する動きもあるが、全体的に見れば大陸各国に着々と地歩を広げており、他を圧する大宗教に成長しつつある。ギルドにとっては商売敵でもあるが、神堕ろしを委託されるケースもあり、必ずしも両者は敵対関係にあるとは言えない。
イリマは丸天井を見上げた。
「この地下祭壇は歴代巫女の記憶を宿しているそうよ。女王は巫女達を呼び出して、困難な国事を相談することもあったらしいわ。わたしにはやり方がわからないけど」
彼女の表情には、一抹の寂しさが漂っていた。
「でもそれで良かったのかもね。母はコモリガミ様を追い出した。地下祭壇の環境に慣れ過ぎてしまったせいでコモリガミ様は外界では生きられず、滅んでしまったの。だから御先祖様達はみんな怒っているかもしれない……」
「そんなことないよ」
珍しく確信を持ってガウリは言った。
巫女の手で堕ろされた神。祭壇は朽ちるにまかされ、もはや二度と祭られることはない。
だがそれ自体に善悪はないのだ。
始まりと終わりはまったく等価値の出来事に過ぎない。神を祭り、役目を受け継いできた巫女達と、堕ろすと決めた巫女の間に優劣はない。むしろ終わりを告げる者の方が、より大きな勇気を必要としたに違いなかった。
なによりもこの場に満ちた穏やかな静寂は、彼女を優しく包み込んでいた。祖先達は子孫の決断を受け入れ、きっと見守ってくれているのだろう。
ガウリがそう言うと、イリマは喜んだようだ。
「ありがとう、ガウリ。わたし、ここが好きなの。本当はあまりきちゃいけないんだけど……ここなら母に会えるような気がして」
一旦言葉を切って、イリマは少し照れくさそうに言った。
「あのね、神薙ぎ衆なら誰でもここへ連れてくる、ってわけじゃないのよ。わたしにとっては大事な場所なんだから」
ようやくガウリは理解した。
イリマは落ち込んでいた彼を元気付けるために、とっておきの場所に招待してくれたのだ、と。
「……でも、どうして?」
そう聞かずにいられない自分が嫌だったが、イリマは屈託なく答えた。
「実は自分でも良くわからないわ。どうしてか、ガウリのことが気になるのよ。倒れていたあなたを見た時からずっとね」
「でも僕は……イリマによくしてもらって、なにを返せばいいのか、わからないよ。僕はどうしたらいいの?」
「そうね」イリマは一瞬思案顔になると、素早く広場から池に飛び降りた。水飛沫が上がり、服の裾がたちまち濡れてしまったが、彼女は気にしていないらしい。
「今日は水遊びをしましょう!」
ガウリが返事をする間もなく、イリマはどんどん両手で水をすくっては彼に浴びせてくる。
思いがけない展開に驚いていたガウリも、冷たい水を顔にかけられて気を取り直し、反撃を始めた。
地下祭壇には王族の許しがなければ入れない。
格好の隠れ家を得た二人は、誰の視線も気にすることなくはしゃぎ回って遊んだ。
靴も脱がずに、全身をびしょ濡れにさせて、弾けるように笑った。
ガウリにとって――恐らくイリマにとっても――それは初めての経験だった。