目覚め
ガウリ・アングは深い疲労の底から回復し、ゆっくりと目覚めた。
まず目に入ったのは、高い天井。
細やかな透かし彫りが施された採光窓から視線を下ろすと、金箔で飾られた黒檀の家具類が目に入った。テーブルの上に置かれたクリスタルガラスの水差しが、日の光を受けて繊細な輝きを放っている。
ここは自分の部屋――ではない、絶対に。
ガウリの部屋は、素朴な石造りの小部屋なのだ。
体が沈み込みそうなふかふかのベッドや金糸の刺繍がある上掛けは勿論、女の子だっていない筈――
「……え?」
ガウリが並んで四人は寝れそうな、大きなベッド。
その端に上半身を乗せて、一人の女の子が眠っていた。袖が大きく膨らんだ服は見かけない意匠であったが、素人目にも恐ろしく高価な布地だろうとわかる。
癖のない黒髪は艶やかだ。
大きな宝石がはめ込まれた髪飾りが整った前髪を押さえている。
――まるで御伽噺のお姫様みたいだ。
四つん這いでベッドの上を移動し、女の子の前まで行ってみる。
淡い象牙色の肌は血色が良く、健康そのものだ。穏やかな寝息が聞こえ、何故かガウリは赤面した。
――この娘は誰――いや、そもそも僕はどうしてここに?
途端にどくん、と心臓が鳴った。
たちまち失敗の記憶が蘇ってくる。惨めな敗走を喫した、初仕事。
胃がきゅっと縮み、なにかに圧し掛かられたように息苦しくなった。
山間の小さな村での神堕ろし。
名乗り返しさえされず、取るに足らない邪魔者として追い払われた。
恐慌に襲われて村を走り抜け、足を滑らせて谷川に――
「谷川に落ちて、それから……?」
記憶が曖昧だ。
落水の直後、なにかにぶつかったような気もする。それで意識を失ってしまったらしい。
目を閉じ、深くため息をついた。
失敗はもうギルドに伝わっているだろう。今頃は代わりの人間が派遣されているかもしれない。
そして彼等はどこにいようとガウリを見つけ出す。ガウリ自身にさえ、自分がどこにいるのかわかっていないとしてもだ。
捨て鉢な気分になり、もう一度ため息をつく。
放っておいても、どうせ誰かが連れ戻しにくるのだ。慌てて戻る必要もない。
開き直ってしまうと、幾らか心が落ち着いた。
女の子がもぞもぞと動いた。長い髪が背中から肩口へ流れ落ちる。
ふと、彼女の瞳を見たいと思った。
――きっと、髪と同じ色をしている。
起こしていいものか迷いつつ、そっと伸ばしたガウリの腕を黒褐色の掌が掴んだ。
ラサは、ロアン大陸を貫く中央山脈の南側に位置する小王国である。
国土には入り組んだ渓谷が多く、点在する村々との連絡は容易ではない。王都メトは唯一の平野部に築かれた都で、渓谷間の中継地でもある――と、ガウリの隣を歩く大柄な女性は説明した。
彼女はブレボ・ニヌと名乗った。
「んで、ここはメトの王宮よ。あたしの職場ね」
吹き抜けの渡り廊下には磨き上げられた大理石が敷き詰められており、手摺にさえ凝った紋様が施されている。王宮にしては小規模な造りだが、見事な装飾は大帝国のそれにも劣らないだろう。
ガウリはそっとブレボの顔を盗み見た。
太い唇。
縮れた金髪。黒褐色の肌に覆われた、長く伸びやかな四肢。
柔軟で力強そうな筋肉のお陰か、長身にも関わらず動作は軽快だ。
南方大陸に住まう戦士の一族――ソンガ人の特徴だった。
「なに? あたしに見蕩れた?」
視線を感じたのか、ばちん、と音を立てそうなウィンクが返ってくる。
思わずガウリはどぎまぎした。彼女は並みの男性以上に逞しい体つきなのに、女性らしさを失っていないのが不思議だった。
「あの、ブレボさんは兵隊さんなんですか?」
「似たようなものね。護親衛士――つまり、王家の親衛隊ってとこかしら。ラサの護親衛士はみんなソンガ人なの。あたしはその筆頭なのよ、こう見えてもね!」ブレボはおどけて胸を張り「ま、衛士隊は全部で五十人位しかいないけど」と安心させるように笑った。
彼女はガウリのおずおずした態度を、警戒心によるものと解釈しているようだ。
確かに先ほど彼を案内したやり方は相当に強引であった。ブレボは一言も喋らずにガウリの口を掌で覆い、荷物のように抱えて部屋の外に運び出したのである。
「ちょっと驚かせちゃったかねぇ。ま、勘弁してね。騒ぐと起こしちゃうと思ったのよ」
悪びれない様子でブレボはガウリの背中をばん、と叩く。
親愛の情を表すにしてはいささか力が入り過ぎていたが、快活な態度からすると本人には悪気はないのだろう。
ロアン大陸においては、ソンガ人は主に傭兵として知られている。
勇猛かつ忠誠心に篤いことで名高いが、大変高額な報酬を要求するため、数名から十数名ほどで王族や豪商の護衛役を務める場合がほとんどである。ある意味五十名ものソンガ人は、ラサのような小国にはそぐわない。
彼等はそれほど強力な戦力なのだ。
――しかし、所詮はヒトの群。俺なら十秒で薙ぎ払える――
どくん。
不意打ちを喰らって歩調が乱れた。
胸の中で何かがもぞりと身を捩る。馴染んでしまったおぞましい感触に、額から汗が滲み出す。ガウリは唾を飲み込み、必死で呼吸を整えた。
彼を悩ます声。
心に棲む、ガウリにしか聞こえない怪物の声だった。
「どうしたの?」
ブレボが不思議そうに振り返る。
なんとか笑みを形作ると、ガウリは素早く一礼した。
「助けて頂いて、ありがとうございました」
「え? ああ……っても、あたしはただ運んだだけよ?」
唐突過ぎたのか、ブレボは少々戸惑ったようだが、すぐににんまりする。
「でもそう言ってもらえると、こっちも言い出しやすいな」
「え?」
歩きながら話す間に、二人は離れの小広間に着いていた。室内に家具の類はなく、壁際にずらりと木剣が並んでいる。
木剣をガウリに放ると、ブレボは子供のような笑みを浮かべた。
「えっへっへっ。――一手、お願いできるかしら?」