出立
イリマ姫誘拐に端を発した王国内の不穏な雰囲気は、次第に薄れていった。
犯人は捕らえられていなかったが、大教会関係者の軟禁は解かれ、衛士隊も任務に復帰した。
即位の件は封主諸侯との協議の末、当面先送りとなった。
噂はしばらくは話の種として王都の人々を賑わすだろうが、なにか深刻な事態になるかもしれないと本気で心配する者はいなくなっていた。
「下手に取り繕わなかったのが、幸いしました。どちらかと言えば、街の関心は神恩祭の方へ移っているようです」
ブレボの報告に、イリマはうなずいた。
コモリガミに感謝を捧げる神恩祭は毎年春と秋に行なわれていたが、神堕ろしに伴って廃止となっていた。
それを滅んだ神への鎮魂祭として再開させることとなったのである。
神恩祭はラサではもっとも大きな催しであり、経済面からも廃止を惜しむ声も多かっただけに、祭りの復活は民から歓迎されていた。
勿論、対外的な配慮によってアムラル王家はこの祭りに直接関わらない。
祭主はファルベ大公主家が務めることとなった。
権威はあるが、支配地を持たない大公主家は国内外からお飾りと捉えられており、伝統行事の祭主役には適任と見られるだろう。
また大教会内部には融和的な方策を志向する者達もおり、この際ラサをテストケースにしようと考えたようだ。
神恩祭が黙認されたのは、そうした事情もあった。
「それは良かったけれど……お父様はもうわたしなんかそっちのけよ。ずっとお義母様に付きっ切りでお祭の準備をしているわ。他の公務は全部、わたしに押しつけてくるのだから」
ブレボは苦笑した。
大公主とルールィの間でどのようなやり取りがなされたのかは、わからない。
しかし一時は魂が抜けたようになってしまったルールィは、大公主の助けにより曲がりなりにも立ち直りつつある。
いずれはまた『大公夫人』として公式の席に姿を見せるようになるだろう。
絆は本人達すら預かり知らぬうちに、紡がれていることもある。
なによりも、蛭神を弔う祭を取り仕切るのにふさわしいのは、最後の巫女たるルールィをおいて他にはいない。
それは本人が一番良く承知しているはずだった。
「司祭様はお元気かしら? ブレボはお会いできたのよね?」
「はい。行が終わり次第、王宮にお伺いする、姫殿下によろしくと」
大教会本部がナハトマンに下した罰は、教導司祭の地位剥奪と千日行の完遂だった。
元々は雲隠れの口実に使っていた方便を本当にやり遂げるよう、本部は命じたのである。
二度目の行ではあるが、世俗を離れて考えを整理する時間が彼にも必要だった。
おまけに修行が終われば教導司祭への復帰まで約束されていた。
異例というより異常に軽い罰であったが、これはイリマの懸命な嘆願と、ちょっとした脅し――神堕ろしの失敗と誘拐の真相の公表――が功を奏したのだろう。
日常は落ち着きを取り戻している。
しかし、それで平穏な日々が約束されたわけではない。
「わたしは、なにもできなかった。みんなに守ってもらって、助けてもらっただけだった。――お義母様のことも、わたしはなに一つわかっていなかったわ。あんなに良くして頂いていたのに……」
ルールィは敵の娘と知りながら、イリマに愛情を注いだ。
決して得ることのできない、自らの子の姿を重ねていたのだろう。
大公主も事情は了解しており、だからこそルールィに手を貸したのだ。
母を信じたイリマの決断には誤りはない。
ただ、自らにとっては揺ぎ無い信念であっても、それを押し通すと知らずに他者を手酷く傷付け、引き返せないところまで追い詰めてしまう場合もある。イリマはそれを思い知った。
「姫様、それは――」
「わかっているわ、ブレボ。まだ早い――それは確かよ。でも、だからと言って無責任な観客に徹していてはいけないって思ったの。きちんと目を開いて、良く考えるべきなのよ。ここは、わたし達の国なのだから」
大教会の庇護下にあるとは言え、ラサは決して安泰ではなかった。
列強諸国は虎視眈々と領土拡張を狙い、封主達は保身のためには主君すら売りかねない。
いつかイリマも母のようにぎりぎりの判断を求められるかもしれない。
その時、信じるものを守りながら、他者を理解し尊重する努力を忘れずにいられるだろうか。
いや、取り返しのつかない悲劇を避ける為にも、忘れてはならないのだ。
一連の出来事は、イリマにその覚悟を問う契機となった。
さらに街の様子について数件の報告を受けた後、イリマは唐突にたずねた。
「今、どのあたりかしら?」
ブレボは誰が、とは問い返さない。
つい先日まで王宮の客であった、神薙ぎ衆の少年のことに決まっているからだ。
「やっと国境辺りでしょう」
「馬で送るって言ったのにね。ラサをゆっくり見ながら歩きたいって言われれば、そうするしかないけど……せめて謝礼は受け取って欲しかったわ。感謝のしがいがない恩人も困り者ね」
めずらしく拗ねた口調に、ブレボは口元を緩めた。
「自分は友達としてできることをしただけだから、って彼は言っていましたわ。だからそういう対価は受け取れないと」
「でもそれじゃ……わたし、どうしたらいいの?」
イリマはいささか困惑したらしい。
早熟で果断な彼女も、ガウリ以外に友達付き合いの経験は皆無なのだ。
「簡単です。次に彼と会った時、それが何年後であっても、笑って迎え入れてあげればよろしいのです」
「それだけ? たったそれだけでいいの?」
「はい。それが友達と言うものですわ、姫様」
長い上り坂を歩き、ガウリは峠までたどり着いた。
振り返ると、走破してきた小道が延々と続いていた。王都はとうに山襞の影に隠れてしまっている。前方へ目を戻せば、眼下には森と平原が広がっていた。
中央山脈とは反対側のユマ平原へ抜ける山道を通って、ガウリはラサに別れを告げようとしていた。
「小僧さん。これ、そこの小僧さん」
どこからかガウリを呼ぶ声がする。
見回すと岩を組んだ単純な作りの祠があり、そこに小さな精霊らしきモノが出現した。どうやらここの道祖神らしい。
「わしに捧げ物をくれんかね? 代わりにお前さんの道中の安全を祈念しよう。そう、ここから国境まで」
それでは大した距離にはならない。
だがガウリはうなずき、大きな背嚢を降ろして中を探った。固焼きのクッキーがあったはずだ。
背嚢は内部に木枠が組まれたしっかりした作りのもので、衛士隊の野外装備である。
詰め込まれた食料、地図、道具類は全てブレボが調えてくれたものだった。
「これでいいですか?」クッキーを一枚差し出す。
「うむ。わしは捧げ物にはこだわらん。それがその者にとってそれなりに価値のあるものなら、充分なのだよ。最近はみんな街道を通ってしまうから、なかなかここへはきてくれんでな。小僧さんは久方ぶりのカモ……いや、詣で人だよ」
道祖神は嬉しそうにクッキーを齧った。
どうやら満足してくれたらしい。ガウリはふたたび背嚢を背負った。
「うむ、これはなかなかのものだな。よろしい、祈念する範囲をこの峠から見えるすべての土地までに広げてしんぜよう」
いきなりの大盤振舞いである。
よく見ると、祠には大教会のスタークロスが刻まれていた。
「あの、これは……?」
「んん? ああ、それはなにやら良くわからん連中が来て、勝手に彫っていったのだ。なんでも連中の神の軍門に下った証らしい。わしは見ての通り、さほどの力もないのでな。逆らって祓われても阿呆らしいから、好きにさせてやったのさ」
つまり大教会は唯一神の御使いをまた増やしたというわけだ。
すっかり食べてしまうと、むにゃむにゃとガウリの旅の無事を祈り、道祖神は祠へ消えた。
こういう神もいるのだ。
「なに雑魚にたかられてるのよ、アンタは!」
声と同時に、すぐ目の間の空間に黒い染みが出現する。
染みは尾を引いてくるりと円を描き、スウィーの姿になった。普段なら華麗に着地するはずだが、今回はぶざまにバランスを崩して背中から地面に落ちてしまった。彼女は大きく膨らんだ皮袋を背負っており、それが重過ぎたらしい。
「あたっ! ああ、もう! こんなもん持って跳ぶってのが無茶なのよ!」
皮袋を下にして四肢を天に向け、じたばたともがいているスウィー。
なんだか裏返しにされた亀みたいだ、とガウリは思った。
「ちょっと、ぼけっとしてないでこの忌々しい荷物を外してよ! アタシは自分じゃ取れないんだから!」
ガウリは紐を緩め、皮袋を取ってやった。確かに猫の手ではこれは外せないだろう。
見れば、袋の中には沢山の硬貨が入っている。幾枚か銀貨も混じっていた。
「神堕ろしの代金。ほら、黴の王の件よ。アンタの取り分をマイスターから預かってきたわ」
「取り分? だって、僕は……」
失敗したのに、と続けようとしたガウリを、スウィーは面倒そうにさえぎった。
「いいじゃないの、もらっておきなさいよ。どの道、路銀は必要なんだから。アンタ、まだギルドに戻る気ないんでしょ?」
ガウリはうなずいた。
大切な友達を得たラサの王宮も、数年を過したギルドの部屋も、彼の居場所ではない。
少なくとも、今はまだそう思えないのだ。
「ハ、青臭いわねー。どこだって住めば都って言うのにさ。でもまぁ、好きにしなさい。一応マイスターの許可もあるわけだし。アンタはギルドで鍛えるより、外で己ってもんを思い知った方がいいんでしょ、きっと」
言って、スウィーはガウリの肩に飛び乗った。
ガウリは首を捻じ曲げ、至近距離から彼女をまじまじと見詰めた。
「なによ?」
「いや、あの……もしかして、一緒に来てくれるの? ギルドの仕事じゃないのに」
てっきりスウィーはこのままギルドへ戻るのだろうと思っていた。
猫又は剣呑な目付きでガウリを睨んだ。
「文句あるの? 言っとくけど、そのお金はアタシにも半分使う権利があるんですからね! 大体アンタは――」
「ありがとう」
嬉しさをそのまま笑顔に変えて、ガウリは繰り返した。
「ありがとう、スウィー」
スウィーはぽかんとしてから、長々とため息をついた。
「はあああっ……なんてこと。アンタ、アタシに礼を言ったの初めてよ。気付いてる?」
「ええと、そうだっけ?」
確かにスウィーには謝ってばかりで、感謝を述べたことはなかったかもしれない。
「のほほんと笑ってるんじゃないわよ、まったく。それで、どこへ行くの?」
「うん。そうだね……」
ガウリは峠を下る道を見下ろした。
このまま平原へ抜けようか。
いや、街道に回る手もある。そこから運河を下ってもいいし、宿場村を辿ってもいい。
特にあてはなかった。
自分の正体がわかっても、どこにも帰るあてがないのと同様に。
だけど、ここからなら彼はどこへだって行けるのだ。
「山を降りたらまた考えようよ」
「適当ねぇ。まぁいいけど」
スウィーは背嚢へ移動すると、所有権を主張するようにその上に腹ばいになった。
吹き抜ける風に背を押され、ガウリはしっかりと歩き出した。
これで本作は完結となります。
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