消滅
戦いが終わり、ガウリの胸に寂寞とした思いが過る。
自分は一人じゃないと感じられたのは、封神鬼と融合している間だけだった。
「ガウリ、ガウリ! いつまでそこにいるのよ。封神鬼を無駄に現界させていると精気を吸い尽くされて死ぬわよ、アンタ」
スウィーにわめかれてしまった。
後ろ髪を引かれつつガウリが離脱すると、封神鬼の身体は見る間に崩壊していった。
床に降り立つと、どっと疲労がのしかかってくる。
底なしの体力を持つガウリであるが、蛭神との戦闘は負担が大き過ぎた。
もう少し長引いていれば、負けていたのは彼だっただろう。
刺激臭のある白煙が立ち込める中、ガウリは覚束ない足取りで広場へ向かった。
スウィーも後を追う。
途中、瓦礫の間に意識をなくした大公夫人を発見した。
さすがに捨て置くわけにもいかない。抱き上げてみんなのところへ戻ろうと、ガウリは視線を移した。
見れば、ブレボはひどく悲しんでいるようだ。
修道闘士やソンガ人達も、みんな粛然としている。
さらに老司祭まで深くうつむき、憔悴した様子だ。
おかしいな、とガウリは思った。
――司祭様はなにか、大事なことをしていたはずじゃ――
その時、イリマの姿がガウリの瞳に映った。
彼女はとても静かに横たわっていた。
静か過ぎるほど、静かに。
途端、足が早まった。
綿のように疲れた頭にはまともな思考力は残っていない。
ただ、焼け付く焦燥に突き動かされ、ガウリは両足を動かした。
しかし広場へ上がったところでがくんと膝が折れた。一人の修道闘士が慌てて駆け寄ってくる。
暗転する視界の中、大公夫人をかろうじて床に降ろす――そこがガウリの限界だった。
「ガウリ? ちょっとアンタ、しっかり――」
スウィーの声が遠くなり、ガウリは意識を失った。
倒れた彼の背中から、大きな蛭が転がり落ちる。
それは子猫ほどの大きさになってしまった蛭神であった。
見まごうばかりに身は縮み、弱々しく動くだけで、すでに死に体のようだ。
「偽神……! 悪魔め、まだ生きていたか!」
メイスを構える修道闘士を、スウィーが制する。
「ちょっと待ちなさい」
ふんふんと匂いを嗅いでから、スウィーは前足でそっと蛭神を押さえつけた。
そのまましばらくじっとしている。
「はぁ、本気? どの道、アンタは長く持たないでしょうけど……ま、伝言位は承るわ。は? ……ったく、どいつもアタシに平気で迷惑押し付けるんだから」
スウィーは蛭神を軽く咥えると、事情が飲み込めない修道闘士と気絶したガウリを放置し、老司祭のもとへ走った。
「――ってわけよ。どうやら肉の身体を失って、神性を取り戻したみたいね。ただ大公夫人は衰弱し過ぎているわ。もし、お姫様を助けたいなら――」
「承知した」
ナハトマンには迷いも逡巡もなかった。
すでにイリマ・アムラルの生命活動停止から数分が経過している。
スウィーに言われるまでもなく、イリマを蘇生させたいなら、考えを弄ぶ余裕はない。
きっぱりした返答に、むしろ周囲の方が動揺を隠し切れなかった。
一人の修道闘士が口を開く。
「司祭様、しかしそれでは背信の罪に問われます!」
「そうしたことは後だ。この身が役に立つならば、喜んで差し出すまで」
「ですが、教導司祭の地位にある方が偽神を依り憑かせるなど、前代未聞です! これを教会本部が知れば……」
「議論なら審問会でやればいい。あまり愉快ではなかろうがな。君の忠告には感謝する」
大公夫人を除くと、この場で巫覡の資格を満たすのはナハトマンだけである。
だが身に降りかかるはずの災難をまったく省みず、手早く襟元を開いた老司祭に、蛭神の提案を伝えたスウィーすら意表を突かれてしまったようだ。
「あ、あー……じゃあ、誰か蛭神を……」
「あたしがやるわ」
ブレボは泣き腫らした目を拭って前に出た。
床からそっと蛭神を掴みあげると、ナハトマンの首筋に近付ける。
「女王陛下が亡くなった時、悔しさのあまり陛下を恨んだよ。どうしてなにも相談してくれなかったのか、とな。だがやっとわかった。私は――頑な過ぎたのだろう」
「……司祭様……」
ことが公になれば彼の処分は厳しいものになるはずだった。
鞭打ち、破門、いや極刑もあり得る。
ブレボに生じたためらいを、ナハトマンは穏やかな声で打ち消した。
「急ぎたまえ。私も、姫殿下をお助けしたいのだ」
憑依は数秒で成った。
蛭神を首の後ろに吸い付かせると、老司祭の身体は神気を帯びて、顔つきまで若々しく変化した。
横たわるイリマへかがみ込むと、ナハトマン――いや、蛭神は彼女の首筋へ掌をあてた。
「――がっ! あぐうううっ!」
苦痛の叫びと共にイリマの身体が跳ねた。彼女の身体にナハトマンの意識が入ったのだろう。
彼の意識が耐えきれなくなる前に致命傷を修復し、肉体を離れかけているイリマの魂を呼び戻す――いずれ劣らぬ大難事を、蛭神は同時にこなしてみせた。
胸を大きく隆起させると、イリマは穏やかに寝息を立てはじめた。
蛭神はブレボにうなずき、身を引いた。見守っていた皆から、どよめきが漏れる。
暖かさを取り戻した主君に取りすがるブレボ。
スウィーはやっと面倒が片付いたとばかりに、ため息をついた。
「やれやれ。さすがは癒し神、見事な手並みね。だけど、アンタの方は――」
「どんな神もいつかは滅ぶ。我にもその時が訪れただけのこと」
ナハトマンの意識は自分の身体に戻ったが半覚醒状態であり、答えているのは蛭神であった。
「わたくしを置いてですか」
残酷な現実を退けようと、懸命に抵抗する声。
いつ覚醒したのか、大公夫人は震える身体を両腕で支えて、床から上体を起こしていた。
光を見失った瞳は虚ろで、忍び寄る諦観を払うように瞼を震わせていた。
「わたくしを置き去りにして……逝ってしまわれるのですか、我が神よ」
蛭神は大公夫人の前に片膝をつき、彼女の頬に掌を触れさせる。
「わかってくれ、最後の巫女よ。――我は巫女を殺めてしまった。報いを受けて狂った我は、今度はその子までも手にかけてしまったのだ。必死に止めるそなたすら、我は邪魔者として排除しようとしたのだよ」
「神王妃陛下の死はあなたのせいではありません! 意図しない、事故だった!」
「招いたのは我だ。我はフィルマの覚悟を見誤っていたのだ。あれだけ強力な呪い返しの結界を張れば、フィルマもそなたに手出しはすまい、とな。結果、彼女は死に、我は狂ってしまった……」
多くを救うことと、一人を護ることは似て異なる。
蛭神にとって、大公夫人は特別な存在になり過ぎてしまったのだ。
「我はそなたを護りたかった。世界で唯一人、手を差し伸べてくれた我の巫女を。果たせず、消えてしまうことを許してくれ」
「聞いていいかしら? アタシ達はともかく、お姫様には知る権利があると思うから」
めずらしくも遠慮がちに口を挟むスウィー。
「女王が放った呪い。王家に伝わる大禁呪って、なんだったの?」
「――生命の改変。つまり、我をヒトに作り変えようとしたのだよ。なんの変哲もない、ただの人間にな」
蛭神と女王には深い絆があった。
ルールィのことは知らなくても、蛭神が誰かの子宮内に潜んでいることは察知できたのだろう。
呪文は蛭神をルールィの体内に封じ、人間に生まれ変わらせるためのものだった。
「そりゃ、また……結界がなくても女王一人じゃ無理だったでしょうね。まさに大禁呪の名にふさわしい呪文だもの」
スウィーの理解は正しい。
殺さなければいいとは決して言えない。望まぬ姿に作り変えられてしまう方からすれば、かえって残酷な仕打ちであり、倫理的にも許されざる非道であった。
ラサの癒し手としては、生命を断つことなどできない。
女王としては蛭神が復権を目論む以上、捨て置けない。
せめぎ合う両者の間で、フィルマはぎりぎりの判断を下したのであろう。
「だが、そこには一つの間違いがあった。ルールィは、子を生せない身体なのだよ。生まれつきの障害は、我には癒せない。呪いが成就すれば、我はルールィの子となったろうが、遅かれ早かれ流産していただろう」
懐妊は蛭神の死刑宣告に等しかった。
女王はそれと知らず、執行人にルールィを指名してしまったのだ。
女なのだから産めるに違いない――いや、恐らくはそれを疑うことすらしなかった女王の判断を、ルールィは絶対に許せなかったのだろう。
「呪文の効果を遅らせようと、我は巫女に力を預けて眠りについた。最悪の眠りだったよ。眠りながら我は巫女殺しの報いによって、じわじわと狂い、厄神と化したのだから」
一体、誰が愚かであったのか。
誰が誰の厄神となってしまったのか。
どうしてわかり合えなかったのか。
それを他人が評するのも良いだろう。
だが断罪できるのは、当人達だけであった。
「最後にそなたへ詫びたい」
蛭神は指先をそっとあてて、大公夫人の瞼を閉じさせた。
「そなたに本当の光を与えなかったのは、怖かったからだ。視力を蘇らせれば捨てられるのではないかと我は恐れていた。だから我の力を通してだけ、光を得られるようにしてしていた……」
大抵のヒトは蛭神の姿を厭う。
アムラルの巫女達にすら追われた蛭神が恐れを抱いたのは、ある意味当然でもあった。
「我はそなたにしがみつこうとするあまり、癒し神としての本分を忘れた。せめて今、それを果たそう」
一瞬、大公夫人は身を震わせ、ゆっくり瞼を開いた。
同時に涙が零れ落ちる。彼女が流すまいとしていた、惜別の涙が。
ナハトマンの身体を覆っていた神気が薄れていく。
「お別れだ、ルールィ。いつの日か、どこかでまた巡り会おう」
「待って! 待ってください、コモリガミ様! まだ、わたくしは――」
「健やかであれ、我が巫女よ。そなたに、心からの感謝を」
神気は消え失せ、脱力したナハトマンは大公夫人に倒れかかった。
彼の首筋から剥がれ落ちる蛭神を、大公夫人は両手で受け止めた。
見る間に蛭神は白茶け、塩の塊に変わって砕けてしまった。
「あ、ああっ――あああああっ……!」
去りし神の名残を胸に抱き、巫女は祭壇に慟哭を捧げるばかりであった。
ラサの癒し神はその役目を終えて、消滅した。




