黴の王
誰かと誰かが共棲する場合、ルールが必要になる。
基本的にルールとは異なる両者を尊重するための取り決めであり、ルールをないがしろにすることは己自身を貶める行為に等しい。
ゆえにルールは守られなければならない――と、言うことになっている。
例えば国と国。王と民。夫と妻。
そして、神とヒト。
神はヒトに恩寵を与え、ヒトは神を祭り、時に捧げ物をする。
それがルールだ。
大陸に棲む幾百万の神々とそれを遥かに凌駕する数の人間達は、太古の昔からそうやって共棲してきた。同族同士では数々のいさかいがあり、大規模な戦争を始めとする悲劇的な出来事が多々あったが、神とヒトの間は概ね平和であった。
いや、軋轢は起こりようがなかったのだ。
以前は神とヒトの力量がかけ離れており、たまに罰を下せばヒトは大人しくなった。
しかし、人間達は次第に力をつけてきた。
彼等はもう怯える子羊の群れではない。堂々と神と交渉し、時には神の地位を剥奪さえする、対等な隣人へと成長しつつある。
現時点では両者の格差は未だ歴然と存在しているが、それもいつかはなくなるだろう。
子が親を越えるのは、自然の成り行きなのだ。
――だからと言って、我が従う謂れはない。
黴の王はそう固く決意していた。
彼――と呼んでいいのか不明ではあるが――は、名の通り黴から成った精霊で、この村で祭られるようになり『神』となった。彼が村に与えた最大の恩寵は、特殊な黴で表面を覆って作るベルン・チーズだった。これが近隣で評判を呼ぶようになり、山間の小さな村に大きな収入をもたらすようになったのである。
ところが、今や人間共は彼を必要としていないらしい。
いつの間にか黴の手懐け方をすっかり理解し、チーズだけでなく酒や薬への応用方法さえも把握してしまった。中でも彼を驚かせた(そして激怒させた)のは、人間が自分達の目的に沿った性質を持つ、新種の黴を作り出してしまったことである。
この新しい黴を使えば、チーズの味は一層良くなり、長期間保存できる。
おまけに神の御力は一切使っておりません、と村長は誇らしげに語ったものだ。
それがどれほど罪深い行為か、まるで理解していないのだ。
――我の許しもなく、この村で勝手に眷属を作るとは許し難い!
そこで黴の王は実力行使に出た。
同族のことでもあり胸は痛んだが、新しく作られた黴を一株残らず枯死させたのである。彼等に罪はないが、やむを得ない処置だった。
しかし数世代かけてやっと完成させた努力の結晶を台無しにされては、人間側も黙っていない。黴の王と村長の交渉は不調に終わり、ほどなく双方の亀裂は決定的となった。
結果、黴の王はチーズの醸成場を占拠するに至った。
場内は暖かく適度な湿度があり、彼と彼の眷属にとって居心地が良い。黴の王は人間達を追い出すと、木造作りの建物全体をびっしりと黴で覆い尽くしてしまった。
醸成場内部に充満している様々な種類の黴は、いずれも毒性が強く、しぶとく根を残すタイプだ。徹底的な除去をしない限り、醸成場の再利用は難しいだろう。
無論、黴の王が力を振るえば一瞬で綺麗に消える。
後は時間の問題であった。
醸成場は村の生命線なのだ。長引くほどに人間達は困窮する。
――いずれ、捧げ物を持って謝罪に訪れる。
そう確信し、黴の王は柔らかな粘菌で覆った長椅子にのんびりと沈み込んだ。屋根を打つ雨音が心地良く感覚器に響く。
――湿り気は大歓迎だ。お陰で力を振るいやすくなる。人間達がぐずぐずするようなら、さらに家の二、三軒も腐らせてやればいい。それで決心がつくだろう――
異変を察知したのはその時だった。
醸成場の窓はすべて引き戸が閉じられていたが、戸板に隙間ができていた。黴の王がそっと外をうかがうと、雨霧に覆われた通りに誰かが立っていた。
ごく背の低い人間……いや、単に子供らしい。
頭から雨具を被っているが、服装からして少年だろう。
村には幾人か似た背格好の子供がいるが、あの少年には見覚えがなかった。
――よそ者、か?
辺鄙な村とて、稀に訪れる者はいる。大抵はチーズ絡みで、販売業者や物好きな旅行者、それから単に道に迷った者。盗賊達はこの村には近寄らない。それもひとえに自分のお陰なのに、と黴の王は唸り声を上げた。
運と頭の悪い盗賊共の襲撃を、彼は何度か追い払った。人間にとって己の皮膚や眼球が黴に侵蝕されるのは耐え難い経験らしく、この話は尾ひれがついて広く流布しているのだ。
――それなのに――いや、今はいい。
黴の王が物思いにとらわれていた間に、少年は歩を進め出していた。
雨のせいで相当地面が柔らかくなっているのか、よろめくように前進してくる。
待つほどもなく、醸成場の扉がゆっくりと開いた。
「あ、うわ……」
少年は中の光景に息を呑み、続いてごほごほと咳き込んだ。胞子を吸ったのだろう。
黴の王は疑問に繊毛を震わせた。少年の正体に心当たりはあったが、これは幾らなんでも――無警戒過ぎるのではないだろうか?
たどたどしい言上で、少年は黴の王の予想を裏付けた。
「あ、あの……ガウリ・アングが、黴の王に申し上げる! えっと、その……みんな困ってます。ここから、出て行って欲しいんです、けど……」
言上は尻すぼみとなり、半端なところで途切れた。
呆れた。
あまりに呆れて、黴の王は返事をすることすら忘れてしまった。
この気弱そうな少年は『神堕ろし』をしようとしているのだ。つまり村長は黴の王たる彼を村から追い払う決意を固めたのだろう。
――だからと言って、あんな小僧を遣すとは。侮るにもほどがある!
怒りに体を膨張させたものの、黴の王は自制した。
いや、待て。
人間達も神堕ろしの執行者として、素人同然の怯えた少年がやってくるとは思わなかったに違いない。けちな村長が謝礼を渋り、神堕ろしを依頼されたギルドは役立たずと知りながら応分の者を送った――きっと、そんなところだろう。
――一番割りを食ったのは、この子か。
そう思えば、少々の哀れみさえ浮かんでくる。
搾取されるのは、弱い奴から。世の中はそうできているのだ。
「あのう……黴の王様? いないんですか……?」
きょろきょろと辺りを見回しながら、少年は場内へ入ってきた。誰かが出てきてくれるとでも思っているのか、正面ロビーに鎮座した受付の机の横で逡巡する。
ややあって意を決したのか、廊下を軋ませながらチーズの醸成室へ向かって行く。
――やれ、どうしたものか。
少年の体内にはすでに胞子がある。発芽させてしまえばことは簡単。眼球や皮膚だけではなく、その気になれば肺や心臓、脳を侵すことも可能だ。黴の王は神族の末席を汚す程度の位であったが、普通の人間に遅れをとるとは思わない。
だが、できれば人間を殺したくはなかった。
極論ではあるが、村人を皆殺しにするよりは、大人しく村から出て行く方を選ぶべきだ。
それはなにも慈悲や寛容の精神に基づく判断ではない。
神とヒトが相互に依存している関係だからである。
神はヒトに祭られて力を得る。そして、ヒトが祭るカタチに神は成るのだ。
祟り過ぎれば祟るモノ、恐ろしいモノとしてヒトは神を祭る。
それは時に神の本質さえ歪ませるのだ。
歪みは根源を揺るがせ、耐え難い痛みを生み、守り神さえ祟り神と化してしまう。
そうなれば、いつか訪れる消滅を心待ちにしながら、見境なく祟る厄神の類と成り果てるしかない。
それは恐ろしい。それだけは避けたかった。
――脅して追い払うのが、上策か。
妥当ではあったが、少しばかり行動が遅れたようだ。
少年は懐から幾枚かの紙を出し、あちこちの壁に貼りつけていた。複雑な呪紋が描かれたそれは、浄化用の結界符だった。建物を結界で包み、まるごと浄化するつもりらしい。結界が発動すれば、黴の王は致命的なダメージを受けるだろう。
――確かに符ならば小僧にも扱えよう、が……。
この形式の呪符は、所定の位置に所定の枚数を貼り付けることで効力を発揮する。
逆に言えば、枚数が揃わなければ無意味なのだ。緊張しきった面持ちで、少年はさらに呪符を貼り付けようとしていた。結界を発動させるにはあと数枚貼る必要があるから、それをさせなければいい。
黴の王は無造作にチーズの保管棚を投擲した。
「……! うわあっ!」
わざと音を立てたお陰で、間一髪のところで少年は棚を回避した。棚はすぐ脇の壁に激突し、漆喰の破片が少年に降り注いだ。
少年は尻餅をつき、ただ呆然としていた。避けたはずみで床に呪符をばら撒いてしまっていたが、気付いてもいないようだ。
黴の王は一言も発しなかった。こんな相手には名乗りなど必要ない。
――帰れ。
その意思さえ伝わればいいのだ。
次々に棚を投擲し、逃げ惑う少年を出口に誘導する。
存外に相手の動きが機敏だったせいでつい興が乗ってしまい、次第に投擲速度が増していく。慌てた少年は腐食した床板を踏み抜き、ぎりぎりの間合いで投げた棚がまともに命中してしまった。
「あっ!」
幸い棚はあっさりバラバラになった。少年にも怪我はないらしい。
黴に侵蝕されて脆くなっていたのだろう、と黴の王は判断した。
――脅しとしては、丁度いい。
思惑通り、少年は恐れをなして逃げ出した。飛んで来る棚を恐れてか、後ろを振り返りながら走り、肩から戸口の柱にぶつかってしまう。
「あうっ!」
壁から引き剥がされた柱と一緒に、少年は外へ転がり出た。
追いかけるように、受付の机を投擲する。大慌てで机を避けると、少年は泥を蹴立てて一目散に駆けていく。脅かし過ぎたか、あっと言う間に雨の向こうに走り去ってしまった。
黴の王はカカカ、と高笑いした。
――これでいい。これで問題はなくなった。小僧の代わりがくるには時間がかかるし、そんなに長くここが使えなくては人間共もたまるまい――
大いに満足して、彼は醸成場の奥へ引き返そうとした。
浄化結界が発動したのは、その時だった。