協力者
地下祭壇の雰囲気は一変していた。
湿度が高いせいで壁にびっしりと水滴が張り付き、温度まで上がっている。
生物の胎内に入り込んでしまったかのように、空気には生臭さが漂っていた。
中央の広場へ続く小道に降り立ち、ガウリは足を止めた。
彼の腕に抱えられたイリマも異様な気配を感じ取ったらしい。
「……まるで別の場所みたいだわ」
「う、うん……」
今更ながら、ガウリは自分の行動に自信が持てなくなっていた。
大公夫人の頼みとは、彼がイリマを酒場から連れ出すことであった。
途中で目を覚ましたイリマはせめてブレボを同行させたがったが、大公夫人に拒否された。
結局、ガウリとイリマは大公夫人に導かれるまま、地下祭壇へ来てしまった。
ここにはガウリ達の味方は誰もいない。
そして、向こうはいつでも蛭神を呼び出せるのだ。
先行していた大公夫人が広場に到着する。
「早くこちらへいらっしゃい。そんなところじゃ、呪いは解けないわよ?」
どくん。
どくん、どくん。
心臓が鼓動を早めていく。蛭神がどこかでのそりと蠢いている。
今度ばかりは気を失うわけにはいかない。なにがあってもだ。
「行こう。大丈夫、きっと上手く行くよ」
「うん……」
心細そうなイリマを抱え、ガウリは歩き出した。
ぴったりと背中に張り付く視線を感じる。ガウリは巨大な瞳の前を歩いているような気分になった。
彼等の一挙一動は蛭神に監視されているのだろう。
広場に着くと、大公夫人はイリマを床に降ろすよう命じた。
「心配いらないわ。まず、こちらから約束を果たしてあげるだけよ」
横座りになったイリマの元へ大公夫人は歩み寄り、首筋に手をあてた。
「あっ……!」
「うっ……!」
二度目の入れ替わりは、あっさりと終わったらしい。
慣れてしまったのか、軽く身体を痙攣させただけで、両者とも意識を保ったままだ。
「あ、あっ……見える……!」
少女は目を瞬いて自分の両手を眺め、何度も指を曲げ伸ばしている。
ガウリは恐る恐る声をかけた。
「イリマ……?」
ぱっと振り向き、少女――イリマは力一杯、ガウリを抱き締めた。
「見える! ガウリ、見えるわ! わたし、元に戻れた!」
イリマは目尻に涙を浮かべていた。
見えない、身体が自由に動かない、ということは気丈な姫君にとっても相当に堪える体験だったらしい。
軽く下腹をさすると、大公夫人は立ち上がった。
蛭神の力なのか、下半身の障害は無効化されてしまったようだ。
「これでいいでしょう。今度は姫殿下にわたくしの呪いを解いて頂きますわ」
「わたしが、お義母様の呪いを……? でも、わたし……」
イリマは王家に伝わる呪術を一切知らない。教わる前に神堕ろしが行なわれたからだ。
「問題ありません。解呪は呪いをかけた方々にして頂くのですから」
「え……?」
疑問を置いたまま、広場の中心まで大公夫人は歩いた。
以前イリマがそうしたように、古木の幹へ掌を添わせる。
「ここはコモリガミ様の祭壇。そして巫女達の魂が眠る玄室でもある」
はっとしてイリマが目を見開く。
大公夫人はゆっくりうなずいた。
「神王妃陛下は『いざとなれば、コモリガミ様のことは私達で対処します』と仰ったそうですね。『私達』という言葉――それは陛下と立場を同じくする者が複数いることを指していたのです」
確信に満ちた声で大公夫人は告げた。
「わたくしに陛下がかけた呪い――その協力者とは、歴代の巫女達なのです」
アムラル王家に伝わる呪術を唱え、女王に蛭神の結界を突破するほどの呪力を与えた術者。
それが他所からの、一人二人の協力者のはずがなかった。
王家の血を連綿と受け継いできた代々の巫女。
彼女達が力を合わせる以外の方法では、まず成し遂げられないことであったのだ。
女王の願いに答え、巫女達は呪術に協力したのである。
「迂闊と言えば迂闊でした。しかし、まさか――王家の巫女達がコモリガミ様への裏切りに協力するとは……! わたくしには理解できませんし、したくもないわ。巫女が神よりも子孫を優先するとは、信じ難い背信行為ではありませんか!」
祭壇に響き渡る声で眠る巫女達を糾弾すると、大公夫人はイリマに目を据えた。
「あなたに罪はない。ですが、アムラル王家の一員として不始末の後片付けはなさるべきよ」
「待て! イリマをどうするつもりだ!」
たまらず、ガウリは割って入った。
「ふふ――斎王女殿下には呪いを解くよう、巫女達への祈りを捧げてもらうだけよ。ただ普通に祈ったのでは届かないわ。わたくしが共鳴して、殿下の潜在能力を目一杯引き出して差し上げます。苦しいでしょうが、それは我慢して頂かなくてはね」
人間は限界のかなり手前で無意識に能力を制限してしまう。
自己破壊を防ぐために自然に備わった安全措置であるが、大公夫人はそれを外して限度一杯まで能力行使させようとしているらしい。言葉に出している以上に危険な行為であるのは、間違いなかった。
大公夫人は手を差し伸べてイリマを誘った。
「さ、殿下。わたくしの呪いを解いてくださいませ」
「……」
驚きか、それとも恐れからか。イリマは胸元を両手で押さえ、無言で佇んでいる。
やや苛立ったように、大公夫人が催促する。
「殿下、ここにきて我侭は困りますわ。なんでしたら、もう一度入れ替わっても宜しいのですよ?」
「……わたしは」
深い悔恨に満ちた声で、イリマは言った。
「わたしは、愚かだった。わたしは、わたしの母を、ラサの巫女をもっと信じるべきだった……」
「なにを――」
言いかけた大公夫人を、イリマは落ち着き払って見詰め返した。
「入れ替わりをするなら別に構いませんわ、お義母様」
「イ、イリマ? だって、呪いが……!」
「平気よ、ガウリ。それがどんな呪いであれ、絶対にひどいことにはならないわ。そう、この呪いで死ぬなんてあり得ないのよ!」
力をこめて断言するイリマ。
小さな身体から、彼女らしい自信が溢れ出ていた。
「確かに禁呪なのでしょう。なにが起こるか、わたしにはわからない。だけど巫女達が――王国を護り、死してなお民を見守ってきたラサの癒し手達が協力した呪術です。それが生命を害するものであるはずがない」
恐怖に慄いていた少女は、見違えるような勇気を示していた。
いや、ちがう、とガウリは思った。
イリマは一度も挫けなかった。怯えてはいても、決して挫けずに現実に立ち向かっていたのだ。
「アムラル王家の責を問うのならば、わたしがお義母様の代わりに呪いを受けましょう。ですが、解呪には応じられません。それは先代女王の意志を覆すことに他ならない。巫女達が認めた母の決断を、わたしも支持します!」
「あ――あなたまで。斎王女殿下まで、そう言うのですか……! わたくしを、あなた達は……!」
イリマの気迫に押されたのか、大公夫人は一歩下がった。顔色が蒼白になっている。
「それは許さんぞ、イリマ!」
息苦しい緊張を裂いたのは、イド・ファルベ大公主であった。
大公主は足音高く通路を渡ってくると、高圧的な態度で言い放った。
「死者の意思に縛られるとは愚かな娘だ! 早くルールィの言う通りにしろ。子供は父親の言うことを聞くものだぞ!」
突然、父が現れたことへの動揺をイリマは素早く抑えた。
「聞けません。これは王国の未来に関する問題です」
イリマの返事は冷たかったが、正しかった。
彼女には情を排して決断を下す義務がある。父の権威を振りかざす大公主に従えるはずがなかった。
後見人はイリマの為すことに責任を持つがゆえに、その行動を制限できる。
しかし、次期女王たるイリマへの命令権はないのだ。それがわかっている分、大公主の怒りは大きかった。
「くっ……それが父親に対する態度か! お前はどんどんフィルマに似てきよる……! なにもわからんくせに、生意気な口を利くな!」
「お父様こそ、どうしてこんなことを! お父様はラサの封主、それも筆頭の大公主ではありませんか!」
「封主だと? わしには治める土地などない! 生まれた国にも、この国にも……どこにもないのだ! お、お前達はそうやってわしを――」
激昂のあまり振り上げた大公主の腕を、大公夫人が押さえた。
美しい唇が、陰湿な笑みを形作る。
「待って、あなた。――それなら、こうしてはどうかしら?」
どくん!
激しく動悸し続けていたガウリの心臓が、さらに大きく鼓動した。
「! あっ……、あぐっ!」
ガウリは床に膝をついた。断線しかける意識を保とうと、必死で奥歯を噛み締める。
呼応するように蛭神の触手が数本、水面を割って出現した。
一本がうねりながら、広場へ伸びてくる。ずらりと牙が並んだ先端の顎が、見る者の怖気を誘った。
「ひっ! な、なん、こ、これはっ……!」
「ああ、あなたはご覧になるのは初めてでしたわね。これはコモリガミ様の分身。影のようなものですのよ」
大公夫人の横をすり抜け、触手は腰を抜かした大公主に巻き付いた。
軽々と持ち上げられ、肩口に顎がひたりと吸い付く。
恐怖の絶叫は長くは続かなかった。
「お父様!」イリマが叫ぶ。
「大丈夫ですわ、殿下。死んではいません。まだ、ね」
血を吸われ、ぐったりした大公主を弄うように触手が揺れる。
「代わり映えのない手で申し訳ありませんわね。でも、今度は本気よ。例えコモリガミ様が厄神と化したとしても、消滅してしまうよりは遥かに良いわ。お叱りを受けるかもしれませんが、わたくしは巫女として神を見捨てるわけにはいかない。あなた方と違ってね!」
思った以上に大公夫人は追い詰められていたらしい。
もはや説得や道理が通用しない状態だ。
脂汗を浮かべて苦悶するガウリも、彼女には恫喝の材料にしか見えなくなってしまっていた。
「ぐすぐすしていると、そちらの坊やも同じ目にあって頂きますよ。どうやらコモリガミ様の力にあてられているようだけど、容赦は致しません」
「お義母様……! こんなことはやめてください! あなたは、本当は優しい方ではありませんか! わたしは――」
大公夫人は鞭を振り下すような命令で、懇願を振り払った。
「わたくしの呪いを解きなさい、イリマ・アムラル!」