憂慮
成果の上がらない一日が過ぎた。
幸いイリマは発熱せず、穏やかな眠りについている。修道闘士もソンガ人も皆引き上げ、薄暗い酒場に残っているのはブレボだけだ。
窓の外では月が粛々と青い光を投げかけているだけであった。
もっとも、なにか異常があっても彼女は気付かなかっただろう。
ブレボはテーブルに足を投げ出し、だらしない姿勢で椅子に寄りかかりながら酒瓶をあおっていた。
グルードに見つかったら、こっぴどく叱りつけられるに違いない。
護親衛士は強ければいいわけではない。
王家の傍近く仕える者として、常に万人の手本たれ、といつも言い聞かされており、彼女も絶えず努力を重ねていたはずであった。
「感心せんな、そういう態度は」
見回りでもしていたのか、ランプを手にした老司祭が酒場へ入ってきた。
ブレボの向かいの席に腰を落ち着け、何本も酒瓶の転がっているテーブルを呆れ眼で眺めた。
「ソンガ人は酒豪が多いと聞くが、これは飲み過ぎではないかね?」
「はっはーっ、酒場で飲んでなにが悪いのさ。あんたは飲らないのかい?」
「酒は飲まんのだ。下戸でな」
「へぇ、そうかい。そうかい、そうかい、なるほどね」
老司祭の返答になにか納得のいくものがあったらしく、ブレボは何度もうなずいた。
かなり酔っているらしい。
「この際だから教えてやるよ。いーいかい? この国にとっちゃ、あんたらは――」
言いながらブレボは足をテーブルから下ろし、老司祭を指差した。
「――疫病神だ。講釈たれるだけでなんの役にも立たないくせに、偉そうにしやがって。あたしは別に蛭神を庇う気はないよ。女王陛下の決めたことに文句をつける気もないさ。けど、あんた達がきてから、ラサには悪い目ばかり出ているじゃないか。陛下は亡くなって、封主共はゴタつくし、姫様は――姫様まで……! ちくしょう!」
非難が聞こえなかったかのように、老司祭は落ち着き払っている。
「それで自棄酒か? 筆頭護親衛士ともあろう者が、なんとも嘆かわしい限りだ」
「うるさいね。酒は肩書きで飲むんじゃないんだよ。さっさと出て行きな」
「それは聞けんな。この国には大教会が必要だ」
ブレボが言ったのは酒場から出て行け、という意味であったが、老司祭は取り違えた返答をした。
恐らく、わざとそうしたのであろう。
「あん? なに……」
「この国には大教会が必要なのだよ。お主がどう思おうとな」
舌打ちするブレボを、老司祭は静かに諭した。
「まぁ聞け。私が最初にラサを訪れたのは、もう……十五年以上も前になるか」
大教会は熱心に布教活動を行なうが、ある意味で白眉は『押しかけ改宗』だ。
どこかにとある神を祭る村があり、祭主が代替わりを迎えたとする。
すると、どこからともなく大教会の使いが現れ、この機会に神堕ろしを行なってはどうかと唆すのだ。
当然、後釜には大教会が座るのである。
基本的には死後の世界がどうこうと言う説教であるが、神堕ろしで失う恩恵と引き合う(と純真な村人が思う)特典を用意し、あの手この手で改宗させようとする者も多く、まるで行商人ではないかと物笑いの種にもなっていた。
老司祭も若い頃はそうした活動に携わっていたが、ラサの場合は違った。
後にイリマの母となる、フィルマ・アムラルは神王妃大祭主の地位に就いて間もなく、自ら大教会へ使者を走らせたのだ。そして密かに招聘されたのがナハトマンだった。
当初、彼はラサの神堕ろしにあまり乗り気ではなかった。
蛭神は正体こそ伏せられていたが、癒し神として広く親しまれ、敬意を持って遇されていた。
これでは民に神堕ろしを納得させるのは難しい。
また、豊かになった人間が次に求めるのは、何よりも健康である。
現世に満足な人々は大教会の熱心な信者にはなり難い。死後に救いを求めるのは、貧しい人々なのだ。
しかし鉱山のお蔭でラサの生活水準は高く、大衆は自分達の人生におおむね満足していた。
故に手間の割りに旨みがない国――ナハトマンの評価は現在の大教会本部と同じだった。
それが変化したのは、フィルマによるところが大きい。
年若い女性ゆえ軽く見られることもあったが、フィルマは老練な政治家だった。
国内の業務に忙殺されつつも、大陸諸国の動向を良く勉強しており、特に経済面の知識はナハトマンが舌を巻くほどであった。
だがフィルマは大きな憂慮を抱えていた。
きっかけは、ここ十数年の間に緑紅石の大鉱脈が次々と発見されたことだ。
尽きかけていた他の鉱物の減産を補ってあまりある高収益があがるようになり、ラサは大陸中から注目を集めるようになった。
過去、ラサは大国からほぼ無視されてきた。
三つの国と国境を接しているが、地形的には背後に中央山脈が迫る行き止まりの国である。
峻険な山々を縫うように細い山道が延々と連なっており、交通の便は悪かった。
産業はぱっとしない鉱山だけで、平野は猫の額ほどしかない。
つまり、攻め取る価値がなかったのだ。
周辺諸国が様々な理由で血みどろの争いを繰り広げ、大陸の歴史に華々しい一節を刻んでは消滅していく一方で、ラサは常に形式上の属国や同盟国を演じ、隅に追いやられた田舎国家として無難に過してきた。
しかし、時代の流れは次々と新しい変化をもたらす。
街道の整備が進み、運河も築かれた。
流通網の発達は経済を発展させ、技術の革新を呼ぶ。
遥か遠かった国々との距離も縮み、大国は膨張主義を露にし出した。
隣接していない土地にも軍隊を送り込み、植民地化することを始めたのだ。
自然の防壁は相対的に薄く脆くなった。
そこにきて、緑紅石と言う宝があることが喧伝されてしまった。
宝石の鉱脈は大国にとってもそれなりの実利があると同時に、国民をちょっとした冒険に駆り立てやすい餌となり得た。ラサには宝石がたっぷりあるぞ、と言われれば、浮き足立つ輩も少なくない。良い機会だからと、どこかの君主が領地を少し広げて見る気にならないとは限らないのだ。
目前に危機が迫ってからでは手遅れだ。
フィルマが大国ノルトラントの王家から夫を迎えたのも、ラサ生き残り策の一環としてである。
しかし彼女の希望とは異なり、やってきたのは傍系の三男だった。これでは王国存続の保証としては弱過ぎる。
そこで彼女は、大教会の加護を受ける道を模索し始めたのであった。
「教圏諸国の間で紛争が起これば、我々は必ず調停に入る。あまりに一方的な言い分は認めず、双方が納得行く協定ができるよう努めておる。教圏外の国から攻め込まれたら、他の教圏諸国に要請して援軍を出す。もし占領されても、取り戻すまで何年でも戦うのだ」
「はん、対価はきっちり取るんでしょ」
ブレボの台詞には嫌味が込められていたが、老司祭は泰然と返した。
「当然だ。だが、最大の対価は『大教会は教圏国家を決して見捨てない』という評判なのだよ。それは教圏の拡大と安定に繋がり、全体として我々を利する。実際、女王陛下は我が教会を頼ってきたではないか」
「……それがラサの場合は『大教会は裏切りを決して許さない』になっちまうのかい」
やり切れない話だった。
列強諸国の間で独立を保ち続けるために大教会の傘下へ入ったのに、それが遠因となってラサは滅びかねない状況に陥ってしまったのだ。
老司祭は眉間に深く皺を寄せながらも、穏やかにブレボに応じた。
「そう言うな。神堕ろしは女王陛下にとってまさに苦渋の選択だった。何度も迷い、悩んだ末に、ラサの将来のためにどうしても必要だと信じ、命を賭してまで断行されたのだ。陛下の国を想い、民に尽くす御心に触れ、私も王国の礎となることを誓った。大教会に属していても、今では私もラサの民だ。この国を見捨てるような真似はせんよ」
老司祭もまた別の立場から、王国を深く憂えているのだった。
かつて改革の同志たる女王を空しく看取った時の彼の心情は、いかばかりであったのか。
重く息を吐いて、ブレボはぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「あたしは――イリマ様を助けたい……」
「わかっておる」
「何年もずっと一緒に過してきた……! 妹も、同然なんだ!」
「落ち着け! あえて皆の前では言わなかったが、私もあちこちに手を回しているのだ。まず大教会からの委託という形で、ギルドの神薙ぎ衆を呼んでみるつもりだ」
その方法であれば老司祭は神堕ろしの失敗を本部に対して認めることになるが、大教会そのものは傷付かないで済む。
ギルドは顧客の秘密を偏執的に守ることで名高いのだ。
「遺憾ながら今回の件では、我が教会の祓魔士より役立つだろう。神薙ぎ衆はいささか融通が利くからな」
祓魔士も神堕ろしの専門家であるが『民を惑わす偽神を祓う』のみで、決して交渉しない。
大教会としての建前を守るためだが、それゆえに神堕ろしをギルドへ委託することも稀ではない。
力ずくが通用しない神も大勢いるからだ。
「だけど……そんなの……できるのかよ……?」
「委託には本部の許可が必要だが、上手く別件に紛れさせて承認を取れるかもしれん。他にも呪術に詳しい者達に個人の資格で助力してもらえないか、頼んでいる。大教会本部にもラサに好意的な者もおるのだよ」
恐らくそれはラサ云々より、ナハトマン個人に借りがある人物なのだろう。
ひどく細くとも、希望の糸はまだ途切れていない。いや本人達が諦めない限り、決して途切れないのかもしれない。
希望を紡ぎ出すのは、いつだって自分自身なのだから。
「気持ちはわかる。私の打った手など裏口の裏口だ。情報が味方以外に漏れたら、動き出す前に潰されるだろう。なまじ期待を抱かせるだけ酷かもしれん。だからと言って、お主が落ち込んでいる場合ではなかろう?」
「……ったく、うるせーな……」
言い捨てて、ブレボは席を立った。
酒場の隅に向かうと、置いてあった水樽の中へ勢い良く頭を突っ込む。
驚くほど長い時間そうした後、一気に上体を起こした。
床に水飛沫が盛大に撒き散らされる。ブレボは犬のように頭を振って、水滴を飛ばした。
「変わった酔い覚ましだな。ソンガ流かね?」
「まぁね。結構効くよ」
髪を掌で手荒に拭い、何日かぶりにブレボは笑った。
だがその時すでに、イリマとガウリは部屋から姿を消していた。




