対価
世界の根源を利用する技術、という点においては魔術も呪術もほとんど変わらない。
だが、実用上ははっきりと使い分けされている。術の特性が違うからだ。
魔術は現象を生起させる。
炎を起こし、雷を放ち、氷を降らせる魔導士はわかりやすい例だろう。
魔術は発生させた現象によって目的を叶える技術と言える。
よって即効性は高いが、効果は永続しないものが大半を占める。
一方、呪術と言えば、祭壇などの前で繰り返し呪文を唱える姿が思い浮かぶ。
呪われた相手は不幸になったり、獣の姿に変えられたり、あるいは衰弱して命を落とす。
つまり呪術は対象に働きかける技術なのだ。
生命の持つ力を操作して変化を強要するパターンが多く、効果は段階的かつ継続的に発生する。
だから、大抵は呪いが完了する前に影響が現れるのだ。
「そんなことはどうだっていい! 解呪の手立てを聞いているんだ!」
椅子を蹴るように荒々しく立ち上がり、ブレボは激怒した。
イリマの容態急変を受けて、彼女はすっかり冷静さを失っているようだ。
「よさんか、馬鹿者が! 司祭様、申し訳ありません」
ブレボを一喝し、彼女の父――グルード・ニヌは頭を垂れた。
酒場内にはソンガ人の他に修道闘士達もいた。老司祭とブレボ、グルードは同じテーブルにつき両者の代表として話し合っていた。
議題は無論、イリマをいかに救うかであった。
「いや、ブレボ殿のお気持ちは良くわかります」
老司祭の顔は苦渋に満ちている。
意識を失い、一時は命まで危ぶまれたが、明け方頃にイリマの熱は平熱近くまで下がり、会話することもできるようになった。
代償に、彼女は下半身の感覚を喪失していた。
さらなる問題は彼女の体力と気力がどこまで持つかであった。この熱が呪いの効果だとすれば、熱は繰り返し――それも徐々に間隔を狭めて襲ってくるだろう。
女王の協力者を発見できる見込みは、ほとんどない。
手がかりがあまりに少な過ぎる。
容姿、年齢、性別、出身地……その他一切が不明であり、呪術実行から数年が経過してしまっている。
かと言って、向こうから名乗り出てくる可能性はもっと低い。
例え大規模に事情を喧伝して協力を求めても、罠だと思われるのが落ちだろう。
残された時間の中では、解呪は不可能と考えるのが現実的だった。
「王宮に侵入しよう。大公夫人を捕まえて、もう一度入れ替わりをさせるしかない……! 例の薬で眠らせてしまえば、蛭神の力も使えないだろ!」
ばん、と自分の握り拳を掌に叩きつけるブレボ。
グルードは重く唸ったが、娘の提案に反対はしなかった。対案がないのだろう。
「いかにも無茶だが……この際、やむを得んか……」
「だが、首尾良く大公夫人を連れてきたとして、その後はどうする? 呪われているとわかっていて、元の身体に戻りたがるとは思えんぞ。まさか、姫殿下の身体に拷問するわけにもいくまい」
ナハトマンの指摘に、ブレボとグルードは視線を交差させた。
グルードは咳払いして老司祭と向き合った。
「姫殿下は大教会の洗礼を受けております、司祭様」
「待て。まさか、それは――」
「聞くところによると大教会は『信仰の宣誓』を行なった者に対して、ある種の……」
「それは誤解ですぞ! 復信懺悔はそのような儀式ではないのです!」
復信懺悔とは宗教儀式の一つだ。
大教会の信者は一定の年齢に達した時、己の意思で信仰を宣誓する。
これが洗礼である。
しかし崇高な意思を持って始めたことでも、時間の経過や現実との軋轢の中で当初の志が薄れ、初心を忘れてしまいがちだ。それは信仰も同じことである。
簡単に言えば、復信懺悔は初心を蘇らせる儀式であった。
洗礼を受けた時の強い信仰心――これを信者本人の脳に記録しておき、儀式によって再生するのだ。他人から教え説かれるのではなく、本人の心情がそのまま蘇るので、信仰の道を踏み外しかけた信者を立ち直らせるには、非常に有効であった。
「だがそれは心の防壁を下げるということだ。一心に信じるとは疑わない、教えられた通りにするということでしょう。それを足がかりにして意識下へ暗示を打ち込むのは、可能なはずです。実際、かつては大規模な復信懺悔を執り行い、説法の中へ暗示を織り込んで信者を思い通りに操ったそうですね」
グルードにそう突っ込まれても、ナハトマンは一歩も譲らなかった。
「誤解ですな。教会は信者が正しき道へ戻るよう、導いたまでのこと。儀式の効果は信仰心に依存しますから、中には過剰な反応をした者がいただけでしょう」
姿勢を正すと、老司祭は話を仕切り直した。
「ともかく、洗礼の記録は姫殿下の身体にあるはずですが、受け取り手が大公夫人では効果は薄い。なにしろ本人ではないですからな。加えて今では復信懺悔を執り行える者は、本部の大司教クラスだけなのです」
ブレボは腰に手をあて、断定口調で言った。
「それでも可能性はある。そうだろ! この際、脅しでもなんでもいいから、精神的に追い詰めた後で儀式をすれば、きっと効果はあがる! それに賭けよう!」
大きな身振りで全員の視線を集めると、筆頭護親衛士は宣言した。
「よし、決まりだ! 大公夫人の方はあたし達ソンガ人でやろう。王宮のことなら隅の隅まで知っているからね。大教会の人達は儀式の準備と大司教様とやらを頼むわ! 細かい計画は双方で考えて後ですり合わせればいい。大枠だけ先に決めましょう。まず、大司教様を――」
「連れてくることなど、できん!」
ブレボの話を断ち切って、老司祭は立ち上がった。
「忘れたか、ブレボ殿? 大教会本部への介入要請はできんのだ!」
「いや、司祭様。今の計画であれば、大司教様御一人だけでも成り立つ。大教会本部から大勢動員する必要は……」
激しく首を左右に振って、老司祭はグルードの取り成しをも振り払う。
「一人も千人も同じこと。問題は動員の規模ではないのだ! 本部を介入させれば、大変な対価を払う羽目になる。それだけは避けねばならんのです!」
「対価? また対価かい? 生憎だけど司祭様――そいつはもう聞き飽きたんだよ!」
激情に床板を踏み鳴らし、ブレボは老司祭の目前までずかずかと進んだ。
腰を浮かしかけた修道闘士を老司祭は身振りで制する。
ブレボの瞳には今や懇願の色さえあった。
「あたしは姫様を助けたい……! 高い安いの問題じゃないんだ!」
「わかっておる! 姫殿下は女王陛下の血を受け継ぐ、唯一の方だ。私とて見殺しにするつもりはない。だが、まだ少しは時間があるはずだ。取り返しのつかない選択をする前に、手を尽くすべきだと言っておるのだ!」
グルードはいきり立つ娘の肩に手を置き、後ろに下がらせた。
気持ちを抑えきれず、ブレボは父親から顔をそらす。
グルードの本音もブレボと同じであるのだろう。彼女の案以外、実効的な策はなに一つないのだ。
「しかし、司祭様。我々に他に打つべき手があるのでしょうか?」
「とにかく、短気はいかん! まだ時間は……」
代わり映えのしない老司祭の返答に、ブレボは拳を握り締め、天を仰いだ。
「くそ――わかった。もう、いいわ。こっちはこっちで勝手にやらせてもらうから」
「待て、ブレボ! どうするつもりだ!」
ただならぬ様子で戸口に向かうブレボを、グルードが呼び止める。
振り返った彼女の眼差しには、固い決意が宿っていた。
「さっきの計画通りやるだけよ。必要な人間は無理やりにでも集めればいいのさ――大公夫人と、大司教様をね!」
酒場は静まり返った。
皆、互いに顔を見交わすだけで言葉を発せない。グルードも、ナハトマンさえも。
大司教の誘拐。それは大教会への宣戦布告に等しかった。
「馬鹿な、それでは――」
「へぇ、文句あるの、司祭様? あんたらだって姫様を誘拐したじゃないか。あたし達がやり返して、やっと五分だろ。そう、こいつはやむを得ない事情って奴さ!」
ざわめきが起こった。
ソンガ人達は覚悟を決めてうなずき合い、修道闘士達は許し難い冒涜だと憤りを募らせる。
間もなく両者は発火点を越えるだろう。
老司祭への牽制か、ブレボは剣の柄に手をかけて叫んだ。
「駄目とは言わせないよ! こうなった以上、どうあっても――」
「駄目よ、ブレボ」
その一言が、全員を救った。
ガウリはシーツにくるまった大公夫人――イリマをそっと椅子に座らせた。
議論にはとても加われず、困り果てたガウリは彼女の部屋へ駆け込んだのである。司祭達には謝罪した上で、大司教に不埒な真似は決してさせないとイリマは約束した。
「さて――ブレボ」
「は、はい……」
「あなたに感謝します。行き過ぎはあったにせよ、わたしを強く案じてくれてのことでしょう。ソンガの皆様にも同じ感謝を。あなた方はアムラル王家にとって、得難い味方です。母の代にもそうであったように、これからも変わらず王国の平和と繁栄に尽くしてくださるものと確信しております」
ソンガ人達――とりわけニヌ親子はひたすら恐縮するしかなく、一応ことは収まった。
「私もブレボ殿と気持ちは同じなのです。もし、このまま打開策が見つからなければ……手遅れになる前に、必ず大教会本部を動かしましょう。上手く行くかはわかりませんが、復信懺悔の手配も含めて」
ナハトマンの発言は、ソンガ人だけでなく修道闘士達の間にも動揺を招いた。
見えなくとも気配は感じ取れたのか、イリマはなんらかの確信を得たらしい。
「ありがたいお言葉ですが、お断りいたします。それは対価に引き合いません」
「ひ、姫様……!」ブレボの声は悲鳴じみていた。
老司祭と立場を逆転させたかのようなイリマの態度には、理由があった。
「よくよく考えてみたのです。大教会本部が介入することで諸国に立つであろう悪評に、見合うだけの対価を。ラサのような小王国が教圏に入る程度では、まるで引き合わない。多少の特権付与や金品でも同様です。もし引き合うとするなら、それは――」
淡々とした口調で、イリマは結論を述べた。
「――王国をまるごと手に入れられる場合だけです」
大教会は地上全てを『神の王国』と呼ぶ。
別の言い方をするなら全部自分達の領土だぞ、と初めから決めつけているわけだ。
ゆえにわざわざ国境線で区切られた土地など必要ない――これが彼等の特徴であり、何カ国にも渡って勢力を築き上げてこれた秘訣なのだ。
ただそれはそれとして、揺ぎ無い根拠地を欲する声が大教会内部に絶えないのも、また事実であった。
一般的な意味での領土的野心はないので、別に広い土地は必要ない。
むしろ手狭で不便な位の方が列強諸国からの疑心を避けられ、好都合である。
だがさすがに未開の奥地では困る。
さりとて、そこそこ開けていて主のいない土地などロアン大陸にあるはずもない。
そうしたわけで根拠地の確保は、大教会の長年に渡る宿願となっているのだった。
「地理的にはラサはぴったりでしょう。難点は緑紅石のお陰で豊か過ぎて、他国の嫉妬を招きかねないことでしょうが、それも民の数に比しての話。絶対額はさほどではありませんから、なんとか調整はつくでしょうね」
イリマの予測は正確だったらしく、老司祭から否定の言葉は出なかった。
「……実は以前にも、幾度か大教会本部へ介入要請をしてみたのですが、返事は否でした。本部はラサを面倒が多い割りに、旨みのない国と見ています。特に今は状況が悪い。どうしても介入が必要なら姫殿下に王位継承権を破棄させ、ラサを王のいない大教会直轄地とさせよと――」
「ま、待てよ、だからってこのままじゃ、大教会本部だって困るじゃないか。コモリガミが復活するってことは、あんた達が堕ろされるってことだろ? そんな先例を許すのか?」
ブレボの声に力がない。あまりの話に愕然としているのだろう。
「無論、許すまいよ。やがて大公夫人は蛭神をもう一度国家神として祭るだろう。そうなればアムラル王家が信仰の誓いを踏み躙ったことが明白になり、なんの遠慮もなく背信の罪を問える。むしろ本部はそれを待って、教圏諸国へ出兵を促すつもりなのだ。大軍が押し寄せ、ラサは列強に分割占領されてしまう」
「つまり、いずれにせよ我が国は無事ではすまないと?」
イリマが静かに確認する。すでに事態は彼女の生死だけでは収まらないようだ。
「はい、このままでは……。ですから万策尽きたなら、ことが公になる前に介入要請すべきと存じます。ラサを大教会直轄地として、差し出すことになっても」
老司祭の返答に反発する者はいなかった。
イリマの身体を諦めて大公夫人を殺したとしても、呪いの成就は止められない。
アムラル王家が断絶すれば、信者保護の名目で大教会が乗り込み、結局はラサを制圧してしまう。
まして戦争の挙句、分割されるなど論外である。
大教会本部を介入させても、イリマが助かるかは疑わしい。
だが僅かでも可能性はあるし、最悪でも国土は分割されずにすむ。軽々しく下せる決定ではないが、タイミングが遅れれば無意味になる。ためらいは許されないのだ。
大教会への国譲り。
確かにそれは、途方もなく高い対価であった。




