憶測
蛭神の祭祀塔は王都のあちこちにあった。
大きさは様々で、大半は壊されている。ただ、異国街の路地にぽつんと立つ小さな石塔は、神堕ろし後の破壊をまぬがれていたらしい。
すっかり風化して消えかけた表面の紋様は、信仰が長く受け継がれてきた証でもあった。
塔の中ほどにある幾つかの穴からちょろちょろと水が出ていて、円筒状の水溜めに流れ落ちている。
小さな手桶も置かれており、どうやらこの祭祀塔は公共の給水施設を兼ねているらしかった。
水溜めの端に陣取り、スウィーは美味そうに舌を鳴らして水を飲んでいた。
ひとしきり飲むと、満足気に息をつく。
「そりゃあ、お姫様の言う通りよ。そんな依頼が受諾されるはずないでしょ」
猫又の返答に、ガウリは用意してあった反論をぶつける。
「でも、蛭神はもう国家神じゃないんだよ。神堕ろしじゃなくて、神祓いなら別に誰でも依頼できるじゃないか!」
神や精霊は、特定のヒトや場所に取り憑いて厄をなすことがある。
これを祓うのもギルドの仕事に含まれるのだ。
『神祓い』はすでに厄神と化した相手と対する場合が多く、危険度が高い。当然依頼料も高額だが、相手が公的に祭られた神でなければ、個人でも依頼できる。今回のケースがそれに該当するかは、かなり微妙であったが。
「強引な理屈ねー。ま、裏口も時には有効だけど。そうね、ギルドがこの件に介入したいって思えば、通るかもしれない」
「じゃあ……」
膨らみかけた希望を、スウィーはぺしゃんこに踏み潰した。
「でも、駄目よ。被害者――お姫様でも大公夫人でもどっちでもいいけど、とにかく厄を受けている人間がその気じゃないんでしょ? アンタが先走っても意味ないの」
「だったら、僕がイリマを説得したら」ガウリは諦めずに食い下がる。
「イリマが依頼する気になれば、大丈夫なんだよね? そうしたら、スウィーもギルドへ跳んで、依頼状を届けてくれるよね?」
金の目を細め、スウィーはガウリを探るように見た。
しばしガウリは待ったが、彼女から言葉は発せられなかった。
お喋りな黒猫の突然の沈黙。
奇妙なプレッシャーを感じ、ガウリは思わず足が下がりそうになるのを必死で我慢した。
やがてスウィーは、すっと顔を逸らした。
「駄目よ。ってゆうか、無駄よ」
「どうして!」
いかにも面倒そうにガウリに視線を戻す。
「アンタ、大教会のこと忘れているでしょ。これは連中が行なった神堕ろしの不手際なのよ。そこへギルドが強引に割り込んできたら、どうなると思う?」
大教会は面子をかけてギルドの干渉を阻むだろう。
両者とも争いは望むことではないのだが、出先でかち合ってしまえば、引くに引けなくなってしまう。
「ギルドから正式に神薙ぎ衆が派遣されてくるのを、連中が黙って見逃すわけないわ。途中で足止めするか、さもなくば……わかるでしょ、アンタにも」
「……」
「だからギルドは絶対に依頼を受けないわ。お金なんか幾らもらっても、リスクに引き合わないもの。もっとも、大教会側だって簡単には動けないでしょうけどね」
神堕ろしの失敗が知れ渡るだけでも大変な失態なのだ。その上、姫君誘拐の件もある。
大教会本部にとっては、この小王国は下手に触ることもためらわれる、悪性の腫れ物と化しているに違いない。
「でも、出て行く分には別に問題ないのよ?」
「……え?」
「この国から出るなら、誰もアンタを引き止めたりはしないってこと。別に戻ってくるなって言われたわけじゃなし、ギルドに帰ればいいじゃない」
「そんな……そんなこと、できるわけない! どうしてそんなこと言うんだよ!」
心外そうにスウィーは応じた。
「アンタのためを思っての忠告なんだけど。ならアンタはどうしたいのよ?」
「イリマを助けたい。決まっているじゃないか!」
「あらそう――で、アタシにどうしろって?」
ふんと鼻を鳴らし、スウィーは主であるはずの少年を睨んだ。
「蛭神は何百年も祭られてきた強力な神よ。衰えたとは言え、アンタが堕ろし損ねた黴の王なんかとは比較にもならないわ。アタシにだってどこに隠れているのかすら、わからないのよ? おまけに多分アレは厄神になりかけている。いえ、もうとっくになっているのかも」
「厄神……? ど、どうしてさ! そんな嘘――」
業を煮やしたらしく、スウィーは苛立たしげに叫んだ。
「ああもう、アンタって子は! アタシの話は、いつでもちゃんと聞きなさいよ! いいこと? 蛭神は癒し神でありながら、すでに一人殺しているのよ。それも自分の巫女――お姫様の母親をね!」
夕食後、二階へ続く階段へ向かい――ガウリは足を止めた。
イリマに会ってどうするのか。
そもそも自分はどうすべきなのか、ガウリは決めかねていた。
スウィーが示唆したのは、わざわざ面倒に首を突っ込むな、ということだろう。
言われるまでもなく、いつもの彼ならとっくに逃げ出しているはずだった。
彼女の去り際の台詞を思い返す。
『ギルドの仕事じゃないから、これ以上アタシは手を貸さないわ。アンタがなんでこだわっているのか知らないけど……ここじゃあんたは、ただの客に過ぎないのよ? それとも、ここはアンタの場所だって誰か言ったの? わかっているはずよ。アンタの居場所はここじゃないってね』
まったくその通りだった。彼は余所者で、偶然ラサに流れ着いただけだ。
考えてみれば、別にイリマは特別な女の子ではない。
ガウリが彼女を特別だと思っただけなのだ。それも一方的に。
そんな自分にイリマの友達の資格があるだろうか?
ぱたんと蓋が降りたように、心が闇に閉ざされる。そう、いつも通りにしてしまえばいい。このままイリマの部屋に行く。ちょっと話をしてから、半端な笑顔を浮かべてこう言うのだ。
――悪いけど僕がいても役に立ちそうにないし、そろそろ帰るよ。
壁から鈍い音がして、ガウリは目を向けた。
見れば彼の握り拳がそこにあった。
おまけに壁には大きな亀裂が入っている。
どうやら思い切り叩いてしまったらしい。
物にあたっても気分は晴れないのだと、ガウリは初めて知った。
階段を鈍く軋ませ、彼は二階へ上がっていった。
「大教会本部が介入しても、事態が解決する保証はない。とにかく、今は我々だけでなんとかするしかないのだ」
姫君の前でも、老司祭はがんとして自説を曲げなかった。
ブレボはイリマを味方につけて説得を試みたのであるが、ナハトマンはどうあっても大教会本部への要請はしないと突っぱねていた。
議論が続く中、ガウリがイリマの部屋への入室を許可されたのは、ブレボが彼は援軍になってくれるかもしれないと考えたからだろう。ガウリはその期待に答えようと、必死になっていた。
「で、でも……具体的な手立てがないし、時間が……!」
「時間はまだあるわ。少なくとも何日かはあるはずよ」
ガウリとは対照的に、イリマは努めてゆっくりと話しているようだ。
「それにあらためて考えてみると、呪いの正体は明らかになっていないわ。だから呪いが成就するとお義母様は困っても、わたしにはあまり影響がないのかもしれない。そうでしょう、司祭様」
「は……ええ、しかし……」
老司祭は歯切れ悪く応じた。
呪いが大したものではないなら『大禁呪』などとは呼ばれない。
とてつもなく危険で、まず使用が許されない――最低限の倫理にすら反する呪術だからこそ、禁呪とされるのだ。
それに呪い返しを受ける危険性は女王も承知していただろう。
まさに乾坤一擲の切り札となり得る呪文を、命がけで唱えたはずだ。
優しい母親の姿はそこにはない。ラサ王国を護る指導者として、女王は呪を放ったのだ。
イリマの解釈は常識的に考えて、楽観の度が過ぎていた。
恐らく、本人も本気でそう思ってはいないだろう。周囲を気遣ってのことなのだ。
主君の心情を読み取ったのか、ブレボも落ち着こうと努力しているようだ。
「ひとまず、呪いがどんなものかは置いておきましょう。司祭様は呪術の協力者って奴になにか心当たりないの? じゃなければ、解呪のヒントとか」
「残念だが、なにもわからんのだ。そもそも呪術は専門外だからな。ただ、協力者は陛下と共に呪文を詠唱したのだから、全てを正確に把握しているはずなのだ。その人間さえ見つかれば……」
――ああ、ごちゃごちゃ面倒臭ぇ。このじじいの言ってることが正しい保証もないってのに――
それを言い出したら始まらない――そう思いつつ、ガウリは言葉を選んで確認する。
「あの、司祭様。協力者がいるっていうのは、確かなんですか?」
「それはまず確実だろう。呪い返しを受けたとは言え、呪術は蛭神の結界を突破したのだ。とてもではないが、ヒト一人の呪力で可能な技ではない」
老司祭は記憶を探って言い足した。
「うむ――そうだ、生前女王陛下はこう言っておられた。『いざとなれば、コモリガミ様のことは私達で対処します』とな。その時は陛下と衛士隊のことだと思っていたが、あれはきっと協力者のことを指していたのだろう」
大公夫人も確信していたように、協力者の存在自体はやはり確からしい。
問題は彼――あるいは彼女が、今どこにいるかである。
ナハトマンはさらに記憶を辿ったが、やはり手がかりになりそうな情報はなかった。
――なぁ、おい。そいつ、今も生きているのかよ? 女王が呪い返しで死んじまったなら、協力した奴だってとっくに――
だから。
そういうことを言っても、始まらないんだ――!
胸の内で言い返しても、声はしつこく響き、どうせ無駄だと嘲笑を繰り返した。
ストレスのせいか、ガウリの頬から血の気が引いている。ブレボが声をかけてきた。
「大丈夫、ガウリ君? 君も倒れたばっかりなんだから、無理は駄目よ」
「……はい」
結局、それ以上の情報は出てこなかった。
実りはなかったが、イリマはあくまで前向きに話をまとめた。
「わたしも疲れたから、今日はここまでにしましょう。これでみんなの認識は一致できたと思います。明日になればなにか新しい展開があるかもしれないし、とにかく焦らないことよ。まだ時間はあるんだから!」
ひとまず解散となった。ブレボと老司祭は食事をしていなかったため、揃って階下へ向かった。面と向かって話したせいか、以前より二人は打ち解けたらしい。
静かになった部屋に、ガウリは留まった。
イリマと話がしたかった。
しかし、なにを言えばいいかわからない。
まさかこのタイミングで怪物のことは話せない。それはあまりに自分勝手だ。
いや、というより。
もっと大事ななにかがあるはずだった。
今話すべきなにかが。
「……」
言葉が出ない。言うべきことを見出せない。
彼が諦めかけた時、イリマはなにか探すような仕草をした。
「……ガウリ? まだいるの?」
おずおずした、囁き声。
ガウリは何故か返事ができなかった。
「――わたし、怖いわ」
その晩、彼女は高熱を発して意識を失った。




