生贄
老司祭の愕然とした声は、恐るべき宣告を下された全員の心情を代弁していた。
当たり前の処置であるかのように大公夫人は続けた。
「正攻法で解呪できない以上、力ずくしかありませんもの。コモリガミ様の力を限界まで高めて、呪術を破るしかない。そのためには生贄の血が必要だわ」
理論的には不可能ではない。
問題は支払う犠牲とまるで引き合わない取引になることだった。
例えるなら家の鍵が見つからないから、壁を壊して中に入るようなものである。
しかもこの場合、壁は頑丈過ぎて実際に破壊可能かどうかさえ怪しい。
解呪に至れたとしても、途方もない数の生贄を必要とするのは間違いなかった。
「馬鹿な、そんなやり方で解呪できるものか! 我々全員を生贄にしたとしても到底足りるはずがない! 無駄な足掻きはよせ!」
「ならば王都の全員を生贄に捧げましょう」
老司祭の言葉を大公夫人は一蹴した。両手を広げ、歌うように宣誓する。
「それで不足ならラサに住む者全てを。まだ時間はある。こんなことで、わたくしの神を滅ぼさせはしない! たとえ大陸全土を血に沈めようと、事を成すまで決して諦めはしないわ!」
それは歌だった。巫女から神への捧げ歌。
大公夫人はこの世全てを供物とするのも厭わないだろう。恐らくは彼女自身を含めて。
「待って! 待ってください、お義母様!」
狂気を止めたのは、イリマの叫びだった。
イリマは抱えていたガウリをブレボに預けて、立ち上がった。ガウリの意識は戻っていないが浅く呼吸はしており、どうにか容態は安定していた。
「お義母様は、わたしには良くしてくださいました」
「……わたくしは司祭様とは違います。神王妃陛下はコモリガミ様を裏切り、わたくしに呪いをかけた。それは決して許せませんが、斎王女殿下には罪はありませんから。可愛い義娘でもありますし」
一見平静に戻ったかに思えるが、大公夫人の瞳は妄信の濁りを宿したままだ。
イリマは軽く唇を湿らせた。数歩前に出て、真正面から向かい合う。
「一つ、教えてください。本当に母があなたに呪いをかけたのですか?」
「ええ。お疑いですか? でなければ、どうしてわたくしがこんな真似を?」
「しかしお義母様を害しても、コモリガミ様には――」
「同じ事です。コモリガミ様は外界では生きられません。それも神王妃陛下がお考えになっていた以上に早く衰弱してしまうのですよ。環境だけでなく、定期的に巫女に依り憑き、血を得なければやはり衰弱します。もしわたくしが死ねば、すぐにコモリガミ様も滅びます。それに、さすがにコモリガミ様に直接、呪いをかけるのは無理だったのでしょう」
「でも、わたしには信じられません。あの優しい母が――巫女として誇り高きラサの癒し手であった母が、そんな恐ろしい呪いをあなたに……」
「きっと――親としては良い方でしたのね、神王妃陛下は」
ふっと羨むように表情を緩め、大公夫人は瞼を閉じて言った。
「では、わたくしもコモリガミ様の名にかけて誓いましょう。今の話に嘘はない、と」
イリマは沈黙するしかなかった。
事情の全ては語っていないにせよ、巫女の誓詞には老司祭以上の真実味があった。
大公夫人は女王がかけた呪いを、あらゆる犠牲を払ってでも解呪すると、覚悟を固めてしまったのだ。
翻意させなければ全員殺されてしまう――それがわかっていても、誰も返す言葉を紡げなかった。
一匹の例外をのぞいては。
「なぁーに言っちゃってんのよ、ばっかねぇ。 アンタ達、修行不足もいいとこ。巫女失格ね」
偉ぶった態度とは裏腹に、スウィーは成描の割りには小柄である。
また、特定の魔術に関しては奥義を極めているが、彼女自身の魔力はたいしたものではない。言ってみれば沢山の鍵束を持っているから色々な扉を開けられるが、逆に鍵を回す程度の力しか持ち合わせていないのである。
戦闘に要する魔術は短い詠唱で大雑把な術構造のみを組み上げ、後は大量の魔力を流し込む術式であり、スウィーは不得手であった。
そうした基本特性は、優れた術者ならある程度は見抜ける。
「うるさい猫ね――死になさい」
大公夫人が単純な一言だけを発して不埒な猫又を処罰しようとしたのも、スウィー自身からなんの脅威も感じ取れなかったからだろう。使い魔を叩き潰そうと、一本の触手が身をしならせた。
「あら、アタシを殺していいの? 蛭神が困ったことになるわよ?」
触手が止まる。
大公夫人の僅かな戸惑いに、スウィーは素早く切り込んだ。
「ふふん、だから未熟者って言うのよ。この触手の群は蛭神の影でしょう?」
「……それが?」
「アンタの思い通りに動くらしいけど、それはあくまで神の信任を受け、預けられた力に過ぎない。力の源は全て蛭神にあるわ」
「ええ――それが、どうだというの?」
獲物を嬲るようなスウィーの口調に大公夫人は苛立っている。
厄介なことに、この猫又の話は何故か無視し難いのだ。
得意げに尻尾を振りたて、スウィーは語った。
「やれやれ、本当に困った巫女ね! いいこと? アンタが好き放題に行使している力――そのツケを払うのは全部蛭神なのよ!」
精霊とは『形のある現象』である。
イキモノやモノが悠久の時の果てに生来の資質を現象の領域にまで昇華した、半実体の存在なのだ。
彼等は様々な力を振るい、いかようにも姿を変え、物理限界を越えることも可能であるが、生来の資質――自らの根源には縛られてしまう。根源を揺るがすことは己の存在を否定する行為に等しく、大変な苦痛を伴うため、彼等は慎重にそれを避ける。
だが祭られ、神となった精霊ほどその危険性は増してしまう。
こうなって欲しい、こうして欲しいという人々の願いを受け、それに応えるうちに神の根源は変質し、全く別の存在に作り変えられてしまうことすら珍しくない。
ゆえに神は巫女などの代表者だけと直接接触し、与える恩恵、叶える願いにもルールを設ける。
釜戸のことは火の神へ、井戸のことは水の神へ、というわけだ。
それでも長い目で見れば変質は避けられないが、ごくゆっくりと進むので悪影響はない。
逆に、もし神や精霊が自ら根源に反する行ないをしてしまうと、急激に生来の資質は捻じ曲がり、修復不能な傷跡を残す。
そうなれば、待っているのは破滅的な結果だけだ。
「成した行為そのものが根源へ及ぶのよ? 癒し神に命を奪わせるなんて、正気の沙汰じゃないわ。手段を選ばないって時点で、アンタは自分の神を踏みつけにしているのよ。資質はあるみたいだけど、巫女としての修行がまるでなってない。行為がもたらす意味も顧みず、無思慮に力だけを振るおうとは愚かもいいところよ!」
怯む大公夫人に、スウィーは容赦せずに真実を突きつけた。
「アンタのやり方で復活するのは、癒し神とは正反対の厄神なのよ! わかった、このお馬鹿さん」
「くっ……!」
大公夫人は怒りに身体を震わせたが、スウィーは落ち着き払っていた。相手がただ恥辱に耐えるしかないことを見抜いているのだ。
触手は振り下ろされず、夜気に溶け込むように消失した。
続いて他の触手も実体を失い、修道闘士達は地面に投げ出された。彼等は血を吸われたせいでひどい貧血になったようで、身体を起こすこともままならないらしい。それでも命を落とした者はいなかった。
「お義母様――」
かける言葉を探しているのか、イリマはうつむく大公夫人にそっと歩み寄った。
「……お優しいこと。コモリガミ様の巫女には、やはり斎王女殿下の方がふさわしい。穢れたわたくしより、ずっとふさわしいのでしょうね」
「もう、これ以上は……お気持ちはわかりますが……」
悲しげに首を振り、大公夫人はイリマの肩に手を置いた。
「いいえ、殿下にはおわかりにはなりません。別にわかる必要もないのですが」
焦点の定まらない、光なき眼。
彼女が見ているのは義娘ではなかった。
大公夫人と呼ばれる前の、ルールィという一人の女の過去だった。
「かつてわたくしは、最低の売春窟におりました。あれは暮らしなどと呼べるものではなく、ただ貪られるだけの毎日だった。そして病にかかり、捨てられたのです。あの頃、わたくしは人間ではなかった。使い捨てられ、惨めに死ぬのを待つだけの残骸だった……」
売春窟を仕切っていた男は、病気になったルールィを罵しるだけだった。
容態は悪化し、美しかった肌も膿み爛れるようになると、男はルールィから目を逸らすようになった。もう、どんな物好きも客にならないな――そう言い残して、男は部屋を立ち去り、二度と姿を見せなかった。
数日後、彼女は視力を失った。
間もなく男の手下が現れ、部屋を明け渡せと迫った。新しい女がここを使うからと。
冷たい雨の降る晩に、ルールィは街路へ放り出された。
熱のせいで混濁する意識を必死で繋ぎとめ、彼女はあてもなく市街を這い回った。
後からわかったことだが、王都から森を抜ける街道までさまよい出ていた。
疲労は限界に達し、ルールィは道端に倒れた。
大教会の信徒なら、盲目の彼女がここまで辿り着いたことを奇跡と呼んだだろう。それは無為な奇跡だった。ずぶ濡れになった服が、彼女に最後に残された体温までも無慈悲に奪い去ろうとしていたからだ。
思考が途絶える寸前――ルールィの指先になにかがそっと触れた。
柔らかく湿ったそれは、彼女と同様に棲家から追い払われ、消滅に瀕していた蛭神であった。その微かな思念をルールィは感知し、無意識のうちに導かれてここへきたのだ。
自覚もなかった巫女の資質が、彼女に救いをもたらした。
いや、果たして救われたのはどちらだったのか。
神も巫女も過酷なこの世界にすり潰される寸前であった。すがれる相手は、もはやお互いしかいなかったのだ。
そして両者は主従の誓約を交わしたのである。
「――コモリガミ様はわたくしにとって、唯一の光。だから、わたくしは」
白い指がイリマの肩口を滑るように動き、首筋を撫で上げた。
「どうしても、我が神を蘇らせたいのです……!」
そう言った途端、二人の身体は同時にびくんと跳ね上がった。
大公夫人は意識を失ったらしく、崩れるように地に伏した。
イリマは持ちこたえ、その場に突っ立っていた。呆然としているのか、大公夫人が足先で倒れているのに身じろぎ一つしない。
「姫様、大丈夫ですか! これは、一体……?」
ブレボがガウリを抱えたまま駆け寄ってくる。イリマは無事らしいので、そう慌ててはいなかった。
ナハトマンは大公夫人の傍らに跪き、様子を確かめ始めた。
ところがイリマはさっさと背を向け、廃墟へ向かって歩き出した。
二人のことは目に入っていないかのようだ。
「姫様?」
ブレボの呼びかけも無視して、イリマはどんどん進んでしまう。
「――あちゃー。そうきたか……今度はちゃんと癒し神の特性に沿った能力行使ってわけね。覚えがいいこと」
スウィーの声が聞こえたのか、廃墟の中央でイリマは振り返り――
にいっ、と笑った。
「まさか、これは――」
老司祭は血相を変え、横たわる大公夫人とイリマへ交互に視線を向けた。
彼の恐れをスウィーは肯定した。
「ご名答。お姫様と大公夫人の意識が入れ替えられたのよ」