禁呪
最初に知覚されたのは音だった。
重々しい大音響が連続して発生し、聞く者の身体を激しく振動させた。
続いて色違いの石畳で構成された模様に魔力が流れ込み、力場が形成された。
廃墟の敷石全体が巨大な魔法陣になっていたのだ。
重力が数倍になったかのような圧迫感。さらに、激しい耳鳴り。
急速に力場が収斂する。魔法陣の中央に集積された魔力は爆発的に膨張し、突風を吹き散らして霧散した。
ことが終わった後、そこに一人の女が出現していた。
「お義母様……?」
呟くイリマに向けた、かすかな笑み。
すっと視線を移すと、大公夫人はナハトマンへ品良く一礼した。
「お久し振りですわ、司祭様。千日行をなさっていると聞き及びましたが、お元気そうでなにより。もう、一年半ぶりですかしら?」
「ふん――転移の技か。このような虚仮脅しを私に仕掛けてくるとは」
老司祭は忌々しそうに吐き捨てた。
「生憎、魔女と挨拶を交わす趣味はない。偽神の徒は早々に立ち去れ!」
火を噴くような怒気を涼しげにかわし、大公夫人は無防備に歩み寄ってきた。
ナハトマンが片手を上げると、背後に居並ぶ部下達が大公夫人に鏃を向ける。明らかに面白がっている表情を浮かべ、大公夫人は足を止めた。
「あら――ひどいですわね。わたくしになんの咎が?」
「二度とは言わん。失せろ!」
「司祭様こそ、どうしてわたくしから逃げ回りますの? 幾らお呼びしてもきて頂けないし、伺っても門前払い。とうとう最後には雲隠れなさるなんて。お陰で封主の皆様方を焚きつけて、司祭様を探して頂くように仕向けなければなりませんでしたわ」
ナハトマンは苦虫を噛み潰したような顔になった。
どうやら大公主と大公夫人は、王宮内でわざと横暴に振舞っていたようだ。反発した他の封主達は、独立した勢力を持つ老司祭に頼らざるを得ない。一連の事態は大公夫人の筋書きに沿って進んでいたらしい。
「おまけに斎王女殿下を誘拐なさるなんて、少々行き過ぎではないかしら。衆生を助けるのが司教様のお役目では?」
「黙れ、卑しき魔女め!」
「まぁ、司祭様。せめて巫女と呼んで頂きたいわ。わたくしは、コモリガミ様の巫女なのですから。仰ぐ神こそ違え、共に神に仕える者同士ではありませんか」
イリマは小さく息を呑んだ。
堕ろされた神について語り、信仰の継続を明らかにするのは、好ましくはないが、罪ではない。どの神もそれなりの恩恵を与えるからこそ祭られるようになったのだし、王がそう決めたからと言って、民の意識が一夜にして書き換わるわけでもないからだ。
だが、巫女を名乗るのは意味合いが違う。
かつての国家神である蛭神の巫女を僭称する――それも貴族たる封主の妻が――のは、先代女王の神堕ろしを真っ向から否定する反逆行為であり、大教会の権威へ対する不遜な挑戦だった。
「お聞きになりましたかな、姫殿下」
言って、老司祭は大公夫人を断罪した。
「今の言葉だけで、貴様を裁くには充分だ。これだけの人数の前で偽神の巫女たることを認めたのだからな! よもや言い逃れできるとは思わんことだ!」
傲然と宣告する老司祭。
彼が期待していたのは、失言に顔を青ざめさせる愚かな女の姿であったろう。
だが、大公夫人は笑った。
最初は低く、やがて高らかに声をあげ、白い喉を震わせて哄笑した。
「裁くですって? 大教会が如き新参者が、よく言ったわ! お前こそ、ここをどこだと思っているの? 我が神の祭祀場でわたくしを裁くとは、笑止な!」
瘴気が渦を巻き、大公夫人を包んだ。
月が翳り、黒い影が躍った。半透明の黒い触手が地面から生えてくる。ざわざわと蠢きながら次第に明確な像を結び、数を増し、生臭さを漂わせていく。
「咎人はお前達の方。祓われるべき邪悪はお前達なのよ。コモリガミ様の祠を踏み荒らした罪――万死に値する!」
「黙れっ、魔女めが! 構わん、討て!」
ナハトマンの命令一下、放たれた数十本の矢が大公夫人に殺到した。
修道闘士は神堕ろしの専門家ではない。
実力行使部隊ではあったが、基本的に人間相手の戦闘を想定した訓練を受けている。
従って魔術、呪術に対する護りは聖刻文字を施した鎧や護符頼りだった。
メイス等の武装もそれに準じていたが、矢は純銀製の鏃がついた破魔矢であった。
これによって、精霊や厄神にも強烈なダメージを与えられるのだ。
しかしそれも、相手に実体があればの話である。
矢は全て大公夫人を護る黒い触手に絡めとられてしまった。
触手も鏃に相殺されて崩壊するものの、すぐに代わりが出現してしまう。
ただの影に過ぎない触手を幾ら減らしても、蛭神本体にはなんの効力も及ばないようだ。
「遊びはここまでよ」
大公夫人の合図で、触手は群をなして襲いかかってきた。
修道闘士達もメイスを振るって応戦するが、効果はなかった。抵抗はすぐに制圧され、全員が触手に拘束されてしまう。
さらに触手は老司祭とガウリ達の周りをぐるりと包囲した。
「そろそろ本題に入らせて頂くわ。司祭様はとうにおわかりのはずですが」
「覚えがないな。私は魔女と話すことなど、なにもない」
現実の力関係を覆すほどの圧倒的な侮蔑。
ナハトマンの態度は、まるで大公夫人の方が惨めな敗者なのだと言わんばかりであった。断固たる信念は、勇気とは別の次元でヒトを支える。それはともすれば狂信にもなり得るのであるが。
「まつろわぬ民など塵も同然と言うわけね、ナハトマン司祭」
愉悦を堪えきれぬように、大公夫人はくすくすと笑った。
「ですが――先ほどは斎王女殿下にこうおっしゃってましたわね。忠勇な部下を見殺しにしてはならない、と」
捕らえられている修道闘士達から次々に悲鳴があがった。
触手の先端が彼等の肌にぴったりと張りつき、血を啜り始めたのである。半透明の触手を透かして赤黒い血液が吸い上げられ、触手全体が嫌らしく膨らんでいく。
「これ以上おとぼけになるなら、すっかり吸い尽くしてしまいますわよ?」
老司祭は口元を固く引き結び、額に汗を滲ませた。
「貴様……!」
「さぁ、司祭様。わたくしにかけた呪いを解いてくださいませ」
「呪いだって? 大教会の司祭が、まさか……」
ブレボの驚きは当然だった。司祭は呪術を行なわない。
現世利益の追求を戒める大教会は、神の力を顕現させる目的での魔術、呪術、祈祷を一切禁じている。祈りはただ神に捧げ、心の安寧を得るものであり、恩恵を授かるための手続きではない、としていたからだ。
「でもそれは表向きの話。裏では大教会も魔術や呪術を使いますのよ」
「出鱈目だ! 聖句による法術行使は、民への救済と神の敵に対処する場合に限定されておる!」
「くっ、あははははっ! 聖句? 法術? 言い回しを変えれば問題ないと? 素晴らしい。いかにもあなた方らしい見解ですわ、司教様」
「力の源が異なるのだ! 貴様等、汚らわしき偽神の――」
「ご高説は結構よ」
笑いを収め、大公夫人は目を細めた。
「もう時間稼ぎは許しません。呪いを解きなさい。今すぐに!」
一切の猶予を与えぬ命令に、空気がぴんと張り詰める。
拒否の気配をのぞかせただけで、大公夫人は修道闘士達の誰かを殺す。あるいは、全員を。
屈辱に顔を歪めながら、ナハトマンは釈明した。
「待ってくれ! 呪いを解こうにも――方法がわからん。私は解呪方法なぞ、知らんのだ!」
「戯言を。この期に及んでまだ言い逃れをするおつもり?」
即座に否定したものの、大公夫人は一応耳を傾けている。
老司祭の言葉に真実の響きを聞き取っているのだろう。
「違う! 呪いをかけたのは亡き女王陛下なのだ!」
老司祭の言葉に、息を飲むイリマ。
「ええ、それはわかっています。わたくしに呪いがかけられた時、護りの結界が呪力の一部を弾いて、呪術者に疫を返した。相手が神王妃陛下だったのは驚きでしたが」
いらいらした様子で大公夫人は手を振った。
「しかし、そもそもコモリガミ様の御加護を受けているわたくしに呪いをかけるなど、いかに優れた巫女でも一人では不可能。必ず協力者がいたはずよ!」
「そうであろうな。しかし、私は知らんのだ。私は女王陛下が病にお倒れになって初めて、陛下が蛭神を匿っている者に呪を放ったことを知ったのだからな!」
女王は老司祭になにも告げずに、呪術を実行したらしい。
もし知っていたら、彼は難色を示しただろう。
呪いをかけることの是非はともかく、その手法――王家に伝わる呪術は、蛭神から与えられた知識が基礎となっている。大教会の教圏に入った以上、国の最高指導者が異教の呪術を執り行うなど、容認できるはずがない。
結果、呪い返しを受けて女王は疫病にかかった。
それでもいよいよ最後となるまで、ナハトマンには病の原因を明かさなかった。
「だから当時は陛下が誰を呪ったのかも知らなかったし、今でも呪文の内容すら把握しておらん。詳しく事情を聞く間もなく、陛下はみまかられてしまった。呪いの成就が一ヵ月後に迫っていることも、お主の周辺を探って得た情報なのだよ」
「――知らなかった……ですって?」
本物の動揺が大公夫人の顔を覆った。
「まさか、では誰が――あれほどの大禁呪を唱えられる者が、陛下や大教会の他にいたと……?」
今となっては無意味な問いだ。
自らにかけられた呪いを解こうとして、彼女は間違った場所を捜し続けてしまったのだ。
致命的なまでに長い間、ずっと。
「確かに女王陛下には協力者がいたようだった。だが、それが誰かは知らんし、当然私でもない。良く考えてみよ。異教の儀式に我々が協力するはずがなかろう? お前がそう誤解するようにしむけたことは否定せんが」
女王の死去後、ナハトマンはある程度状況を把握すると、噂を流し、わざと身を隠して大公夫人の目を引きつけ、呪いが成就するまで時を稼ぐことにしたらしい。未だ正体のわからない、呪術の協力者の無事を祈りながら。
「封主諸侯の要請があったとは言え、姫殿下をさらう無謀に出たのも、呪いの成就が迫っていたからだ。即位はともかく、殿下の安全は確保できる。なにもせずとも、たった一ヶ月待てば――」
「呪いは成就し、こちらは時間切れになる。ええ、その通りですわ……!」
悔しげに歯噛みし、大公夫人は老司祭を鋭く見た。
「今の話は真実だと――あなたの神に誓えて?」
若干落ち着きを取り戻したらしく、ナハトマンは厳かに答えた。
「誓おう。唯一神の名にかけて」
「……そう。わたくしは、司祭様の掌の上で踊っていたというわけね……」
ぽつりと漏らし、大公夫人は瞼を伏せた。
誓詞の持つ意味は重い。いみじくも大公夫人自身が語ったように、互いに神に仕える者同士であるからこそ、彼女には老司祭の誓いを疑えないのだろう。
暗く陰りを帯びた瞳に、触手に捕らえられている修道闘士達が映った。
「――では、仕方ないわ。可哀想だけど、皆様には生贄になって頂きましょう」
「な――に?」




